「女だから、男だから」で苦しむ私達に「HUGっと!プリキュア」が教えてくれた、手をつなぐこと。

【最終回に寄せて】男の子がプリキュアになっても、私は「女の子からプリキュアが取り上げられた」とは思わなかった。
「HUGっと!プリキュア」
「HUGっと!プリキュア」
公式ウェブサイトより

「HUGっと!プリキュア」が1月27日、最終回を迎えた。シリーズ開始から15周年の節目を飾った本作。ジェンダーや働き方といったテーマに正面から切り込む内容が注目を集めたが、とりわけ、人間の男の子が初めて変身し、プリキュアを名乗ったことは歴史的だった。なぜならプリキュアは元来、「女の子だって暴れたい」――社会が押し付ける「女の子らしさ」へのアンチテーゼから生まれたからだ。

さらに、48話(1月20日放送)。「みんな、みんな、プリキュアなんだ!」。主人公のキュアエール(変身前は中学2年生の野乃はな)がそう叫ぶと、登場人物が一人残らず、一斉にプリキュアに変身してしまった。理屈の上では、これは「プリキュアの否定だ」と怒ることもできたはずだ。「女の子だって暴れたい、は一体どこに行ってしまったのか」「女の子からプリキュアが取り上げられた」と。

だが私は、そういう気持ちにはならなかった。「人類総プリキュア」は素敵だ、と思えたのだ。

■初めて「だから」と言われた日

ここで、少し個人的な話をさせてほしい。「女の子だから」と初めて言われた日のことだ。みんな覚えているものなのかどうか分からないが、記憶にある限りでは、私は小学1年生だった。

机の上には、配られたばかりの絵の具バッグが置かれていた。図工の授業で使うからと、担任の先生からカタログを渡され、母親と相談して選んだものだった。

選択肢は当時、ピンクとブルーの2色しかなくて、私は空みたいな爽やかな色がきれいだと思ったからブルーを選んだ。周りの女の子の机上にはピンクばかりが並んでいて、少し驚いた。でも、私の両親の口癖は「自分は自分。他人は他人」だったので、「ブルー、やっぱり可愛い」と満足していた。

ところが、急に火のついたように泣き出した同級生の男の子がいた。注文を間違えたのか、ピンクのバッグが届いてしまったらしい。大きくしゃくり上げながら「嫌だ!ピンクは嫌だ!」と顔を真っ赤にしていて、なだめる担任の先生も困った顔をしていた。

その後の休み時間だったと思う。先生がふいに私のところへやってきて、コソッと「お願い」をしてきた。

「男の子なのに、かわいそうなの。加藤さん女の子だから、ピンクでもいいよね? 取り替えてあげてくれないかな」

私は、ブルーが良かった。「どうして?」と思いながら、なぜか首を縦に振ってしまった。帰って母に訴えると「しかたないね」という反応だったのでそれ以上は何も言えなかった。そういえば「確かに他の女の子はピンクだったから、私だけブルーという方が変なのかな」と自信をなくした部分もあったような気がする。

■プリキュアは「女の子」を取り戻してくれた

その頃は知る由もなかったけれど、絵の具バッグだけでは終わらなかった。私はそれから大人になるまで、世の中から幾度となく「女の子だから」「女だから」という言葉をぶつけられることになる。でも、ここ2~3年で皆が声を上げ始めるまでは「女だから、とか何とか言われても知らん!」と言う勇気はなかった。小学生の頃、大好きだったセーラーウラヌス(天王はるか)が言った「男とか、女とか、そんなに大切なコト?」という言葉も、いつのまにか忘れかけていた。

私にとって、代わりに「知らん!」と言ってくれたのがプリキュアだった。初代「ふたりはプリキュア」のダブル"ヒーロー"、美墨なぎさと雪城ほのかは、女の子だからとか、クール系とかスイート系とか、そういう言葉にカテゴライズされないキャラクターを持っていた。それぞれに違う可愛さがあって、違う強さがあった。なぎさは「なぎさ」、ほのかは「ほのか」。激しいアクションでテレビ画面を縦横無尽に飛び回る2人は、出会ったときにはすでに大人になっていた私にとって、世の中の視線から「女の子」を取り戻してくれた、自由の象徴だった。

■アンチテーゼの、一歩先へ

最後の敵と戦うキュアエール
最後の敵と戦うキュアエール
公式ウェブサイトより

そんな経緯で、私はあくまでプリキュアは「女の子のためのもの」だと考えているところがあった。「そろそろ男の子もプリキュアになるのでは」――。ファンの間でそんな言葉が交わされるようになっても、とても正直に言えば、賛成できなかった。いま、圧倒的に女の子が抑圧されている状況下で、プリキュアはまだまだ、女の子のためのヒーローで居てほしいのだ、と。「女の子だって」のために、戦ってほしいのだ、と。

でも、「HUGっと!」はそんな私の心をほどいてくれた。人間の男の子で初めてのプリキュアが誕生したときも、老若男女問わず全員がプリキュアになれてしまうというまさかの展開を前にしたときも、私はほぼ反射的に「ありがとう」と思っていた。

なぜ「ありがとう」だったのか。

それはどこかで、あっち側とこっち側に分かれて喧嘩をすることにうんざりし始めていたからかもしれない。「ピンクの絵の具バッグが届いて泣きたくなってしまった彼」の気持ちも、分かりたい、むしろ話したい、という気持ちになっていたからだと思う。

SNSが浸透して、弱い立場の人がモノを言えるようになった。「#me too」運動など、尊厳を傷つけられた人が力を合わせて、状況をひっくり返すことも前よりはできるようになった。でも、分かり合えたという実感は持てない。どんどん分断されている気がする。

本当は「男さん」とか「女さん」という人がいるわけじゃない。「弱い人さん」とか「強い人さん」がいるわけでもない。主人公が「男の子だって、お姫様になれる!」と叫んで話題を呼んだ「HUGっと!」19話(6月10日放送)では、性別役割意識に縛られた愛崎正人(プリキュアの一人である愛崎えみるの兄)が生み出してしまった怪物を、後に男子プリキュアに変身する若宮アンリが「君も苦しいのか」と抱きしめる場面があった。

みんな「大切な自分」を奪われたくない。でも、様々な「○○だから」をいつのまにかインストールさせられて、苦しみ、立ちすくみ、時には他者を攻撃してしまう。そんな風に奪い合わなくたって、きっと手はつなげる――。

それが、「HUGっと!」が発したかったメッセージだったと思う。

■「大人だから」「子どもだから」も、ない

男の子でも、プリキュアになれると示したこと。人は誰でも(アンドロイドも)、プリキュアになれると宣言したこと。今後「プリキュアになれたこと」自体をカタルシスの装置にすることは従来より難しくなるだろう。もしかしたら、プリキュアシリーズとして物語を紡いでいくことの難易度は、格段に上がってしまったかもしれない。それでも「HUGっと!」を作ったスタッフたちは、48話の素晴らしい景色を、私たちに見せたかったのではないだろうか。

一人ひとりのものの見方は異なる。その先に見ようとしている未来も、完全な一致を見ることはきっと不可能に近い。でも、たとえそれがフィクションの中であったとしても。最終決戦の一瞬にだけ起きた「奇跡」に過ぎなかったとしても。同じ世界に生きる別々の個人が共に手をつなぐ景色に、私たちの胸は高鳴る。目に見えない希望の存在を思い出せるという一点において、その幻に意味はあるとは言えないだろうか。

分断ではなく、対話を。「フレフレ、みんな」も「フレフレ、わたし」も同時に叶えられる社会を。そのメッセージ性の強さから「大人向けのプリキュア」だなんて揶揄されたこともあったけれど、私は子どもたちに、みんなが心の底から溢れる「なりたい私」になれたこの夢みたいな景色を、いつまでも忘れないでいてほしいと思った。

(取材・文:加藤藍子 編集:泉谷由梨子) 

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