私は日系5世のアメリカ人。
ハーフでもなく、帰国子女でもない。
親も、祖父母も日本人ではない。日系5世のアメリカ人。
違いがよく分からない人は多いが、私は「日系5世」という肩書きにこだわりがある。先祖から引き継がれた歴史、残された想いが込められているから。
私はハワイで生まれ育った。ハワイは人種のるつぼと言われるほど人種が豊かで、日系人も多い。しかも5代までアメリカに住んでいたら、時間が経てば経つほど「日本人」としてのアイデンティティは当然薄れる。お正月に親戚で集まると、御節ではなく七面鳥、紅白ではなくアメフト、見た目と苗字以外は完全にアメリカ人の家族。子供の頃は「アメリカ人」の私しか存在していなかった。
「日本人」としての自分を自覚し始めるきっかけは私の曾祖母だった。曾祖母の名前は幸田はつえで、孫には「バーチャン」と呼ばれている。その曾祖母の存在は、私の人生に大きな影響を与えた。
そもそも私がミドルネームで呼ばれるようになった理由は曾祖母だった。本当のファーストネームは「メリニー」だが、英語が母国語ではない曾祖母は「メリニー」が発音できなく、いつも「メリッサ」や「メロディー」と間違えて呼んでいたらしい。そこから、曾祖母を始めとする家族、親戚、周りの人には「幸(さち)」と呼ばれるようになった。
5歳だった頃に曾祖母の家でお描きをしており、紙にぐちゃぐちゃの線を書いて「バーチャン、日本語を書いてあげたよ」と見せに行った記憶がある。
その時、曾祖母が優しく笑ってくれて「幸、それは日本語じゃないよ。いつか日本語を本当に書けるようになるといいね」と言ってくれた。高校で日本語を第二言語として選考した事はその日の出来事があったからだ。
日本語を勉強すればするほど自然と、日本の歴史、先祖の事について知る事が出来た。日本語の授業の課題で、「第二次世界大戦を体験した親戚や知人にインタビューしなさい」という課題があり、直接曾祖母から話を聞く事が出来た。
1900年頃、一時的に生計を立てる手段として多くの日本人はハワイやアメリカ、中南米、東南アジアに出稼ぎ労働者として移民した。多くの人は「いずれ故郷に錦を飾る」という言葉を掲げ各地に行った人が多かったが、現地に残る人が多かった。その移民した人々から現在の日系人のコミュニティーが始まっている。
曾祖母の家族は1900年に広島県からハワイに移民して実際に広島に戻ったが、ハワイで育った曾祖母は、どうしてもハワイに住みたいと思い、結婚して花嫁としてハワイに戻った。当時のハワイは、決して皆さんが考えているようなパラダイスではなかった。何もなかった曾祖母は裁縫師として一生懸命働き、ハワイを自分の"ホーム"として思えるように努力した。
そうしてやってきた1941年12月7日。真珠湾が攻撃された日。
私の祖母を妊娠していた曾祖母は、教会から帰っていた時、耳をつんざくほど大きな音が聞こえた港湾の方角に煙が上がっているところを見ていたという。その日から収容場に行かせられないように日本語を喋らず、「日本人」である事を必死に隠したそうだ。日本の家族と連絡を取る事が出来ず、母国語を語らなくなった曾祖母はそれでも生活できるように努力し続けた。
1945年8月6日。曾祖母がラジオで広島への原発投下について知る。その時知る術はなかったが、広島にいた家族は生き残った。家の屋根が落ちたが、その中から脱出して山の方へ逃げたそうだ。曾祖母はとにかく祈ったという。
学校で第二次世界大戦の歴史について勉強しても全く当事者意識が湧かなかったが、曾祖母から直接話を聞くと胸が痛くなり涙が止まらなかった。今まで平和に暮らしてきた自分は何だろう。何も考えずに小さな事で文句言っている自分はなんと情けない。自分の人生は曾祖母が経験した事に比べて一ミリも辛くない。その日に「日本人」としての自分がやっと目覚めた。
むしろ、「日本人」の自分を必死に取り戻したかった。全てを日本語の勉強に捧げるようになり、進学も日本の大学一直線に決意した。親や親戚は私の事を不思議に思った。「日本は遠いよ。アメリカの大学で日本語を専攻にすればいいんじゃない。」「家族は全員ハワイにいるから一人で外国に行くと辛いよ。」
また、友達には「日本オタク」と呼ばれるようになった。ハワイでは日系人は日本を好きすぎるとダサい、ある程度アメリカと日系のバランスを取るべきという暗黙なルールがある。周りに理解者がいなくても、私にはゴールは一つしかなかった。それは日本に"帰国"する事だった。
無事に日本の大学に合格し、やっと日本に住むようになった17歳の自分。しかし、今度は全く新しい問題に直面した。周りには日本人か、帰国子女やハーフ、いわゆる子供の頃から日本語が喋れるような人しかいなく、「日系5世」の自分と共感できる相手はいなかった。
「え、親から日本語は教わってないの?」「なんで日本語ができないの?」と軽く質問され、傷つけられた事が少なくなかった。大学では「日本人」「外国人」「帰国子女」と綺麗に区切れていて、どこかのグループに完全に当てはめられなかった自分は不完全物として思えるようになった。
大学一年生の時に、大学のラウンジで1つ上の帰国子女の先輩と話していた時の出来事。「君は日本人?アメリカ人?」といきなり質問された。「うーん、どっちでもありませんが、どっちでもありますよ」と返したら、こう言われた。
「いや、どっちか選びなさいよ。どっちかだよ。」
なぜ選ばなければいけないのだろう。確かに私のパスポートには「アメリカ人」と表記されている。ただ、私は日本人のルーツに誇りを持っている。そもそも人はなぜ白か黒だけなのだろう。
来日した当初も曾祖母が自分にとって大きな支えになった。そういう時に曾祖母の話を思い出して一つひとつを乗り越えてきた。私は確かに「日本人」にはなり切れない。単純な「アメリカ人」でもない。ただ、自分は「日系人」である。そして自分のアイデンティティ、自分の人生は自分で決めるもの、作っていくもの。曾祖母の想いを軸に私は日系人として生きてきた。
実際に日本に住む夢を叶えられたが、決して楽な生活ではない。日系人だからこそ困難があり、差別もある。「あれ、日本人じゃないんだ...」と何も考えずに言われるのは今でも苦しい。ただ、こういう時に曾祖母の事を思い出す。辛くても自分の住みたい国に住めるのは恵まれている。曾祖母が100年近く前にハワイを自分の"ホーム"にしたと同じように、私にとって東京は自分の第2ホームである。
2016年4月23日、曾祖母が他界に旅立った。
曾祖母から聞いた話を思い出した。曾祖母の母親が亡くなられた日に、母親の夢を見たという。母親が電車に乗り、曾祖母のところからどんどん離れていった。その夢から母親がもうこの世にはいないと分かったらしい。
曾祖母がこの世にもういなくても、曾祖母の想い出はずっと私の中に残っており、私を支えてくれている。人のアイデンティティは国籍ではなく、経験で出来ている。自分の経験ももちろんの事、先祖から引き継がれた経験でも構築されている。そして、私たちもそれを子孫に引き継いでいくべきだ。
私は日系5世である。その肩書きに誇りを持っており、誰にも譲らない。