7月2日に落語家の桂歌丸さんが死去したことを受けて、歌丸さんが会長を務めていた落語芸術協会が7月3日、記者会見を開いた。
会見には会長代行の三遊亭小遊三さん、理事の春風亭昇太さん、弟弟子の桂米助さん、歌丸一門の惣領弟子・桂歌春さんが出席。歌丸さんとの思い出や託された思い、落語の教えについて語った。
――歌丸師匠との一番の思い出は。
昇太:そうですね...。入門した時からお世話になっている方なので。でもその時は、子供の時から見ていたスターさんだったので、とてもじゃないですけれど近寄りがたい。そういうところがあった。
「笑点」の番組にレギュラーで出させていただく時に、すごく気をつかってくれました。やっぱり慣れないものですから、僕があんまりウケてなくても師匠が座布団をくれたり、そうでないときは取ってくれたり(笑)。
番組の絵の中に慣れるように、僕の出番をとても増やしてくれたんですね。
その時に、本当に気をつかわせてしまっているなと。だけどやっぱり、昔からお世話になってる方だったので、本当にありがたいなと。
緊張している中で、気をつかってくださってる歌丸師匠のことが、今考えると一番の思い出です。
――「笑点」の司会については、どのようなことを?
昇太:もう、その時も気をつかわないように気配りしてくださったんだと思うんです。「昇太さんがやりたいように、好きなようにやってくださいね」って言ってくれました。
――小遊三さんは。
小遊三:思い出といって、きのう遺体安置の部屋から帰ってまいりまして。その姿から、ずーっと振り返っているんですけれども。
やっぱりなんといっても、晩年の(三遊亭)円朝ものに取り組む姿というのが、これが後輩としては強烈に印象に残ってまして。よくこんなことまでできるなと。
やるだけなら、まぁ噺家として、落語ですからやれるんです。でも(歌丸師匠は)完璧にやるんですね。これが、ちょっと真似できないことじゃないかなと。
それから遡って、あたくしも個人的にお付き合いを...お付き合いといいますか、接したのは「笑点」に入ってからでございまして。とてつもなく可愛らしい歌丸師匠に接しました。
宴会でお盆を片手に、旅姿三人男を当て振りで踊ったりとか。そういう姿、一般の方は絶対に見られない姿だったんじゃないかなと。
あの性格通りでございます。麻雀やるにもピシッと姿勢を正しく。賭け事やるのに姿勢を正しく、膝にハンカチを広げまして。クリスチャンディオールかなんかのハンカチをしっかり前にかけて、「ロン」てなことを言ってた嬉しそうな姿が思い浮かびます。
あたくしが噺家になろうかなと思った昭和40年代の頭には、もう「笑点」が大ヒットしました。そのときにはスターでございまして。寄席に入る時、歌丸師匠が入ってくると怖かったですね。ピリピリしてましたから。
あの通り、厳しいところはしっかり厳しかった。無駄に怒るということではなく、こっちがドジを踏むとしっかり怒ってくれる。
したがって、あたしはなるべく寄り付かないようにしておりました。
(会場から笑い)
小遊三:ですから、しくじったこと...寄り付かないものですから、あんまり(歌丸さんの前で)しくじった覚えはございません。
でまぁ、高座は笑点ネタで大爆笑でございました。それが、最後は円朝ものにつながったんでございます。
歌丸師匠のおっしゃる言葉に「落語家ってぇのは、落語である以上なんでもできなきゃいけない。あたしゃ人情噺はどうも不得手だよ、なんつってちゃいけない。全部できて噺家だ」と。その言葉通りのことを(やっていた)。
爆笑もとれば、長屋話もやれば、滑稽噺もやれば、そして最後の締めくくりが円朝ものの怪談話と。もう、思い出しただけでも、なんか...すごいなぁと、思いますね。そこへ(自分の落語を)持っていっちゃったというところが...。でも、置いてかれても真似できませんけどね(笑)。
うーん、なんともいえませんね。「あぁ、もう口利かないのかな」と思うと、ほんと寂しい思いです。
――「笑点」のやり取りが、私たちにとっても楽しかった。
小遊三:全部引き取ってくれる師匠でしたね。こっちがあんまり表現がうまくなくても、全部それを引き取って「これを言たいんだろ?」ってことを、歌丸師匠が司会の言葉でポーンと返してくださった。
これはちょっと、なかなか他の人にはなかった。...他の人ってのは昇太さんか?(笑)
(会場から笑い)
先代の(三遊亭)圓楽師匠にもなかったことですね。圓楽師匠はズバッと、昇太さんは軽妙にやってくれる。歌丸師匠はそれを引き取って、自分で番組をこしらえていったという印象がございます。
米助:私の一番の思い出は昭和42年、私が18歳の時に師匠・桂米丸のところへ弟子入りいたしまして。その時の兄弟子が歌丸師匠でございました。その時、歌丸師匠はちょうど30歳で。
一番最初に稽古をつけてくれたのが、歌丸師匠でございまして。柳家金語楼先生がつくった「下宿屋」という落語を、一番最初に歌丸師匠が稽古をつけてくれました。
稽古をあげて「どうですか!」と聞きましたら「ああ、ヨネさんならその程度だろ」と言われたのを覚えております。
(会場から笑い)
あとは「新聞記事」とか、10個以上のネタを歌丸師匠には稽古をつけてもらったという。これが最高の思い出でございます。
――晩年の歌丸師匠は、呼吸器をつけて高座に上がっていた。そういう姿を見てどう感じたか。
米助:最後の歌丸師匠の高座のときも、私はちょうど国立演芸場に一緒に出ておりまして。歌丸師匠が主任(トリ)で、私が中主任を務めさせていただきました。
4月15日がちょうど私の誕生日。この誕生日、金日成(キム・イルソン)と同じ誕生日でございまして。
(会場から笑い)
その時に歌丸師匠が主任をとった後にケーキと花束で、車椅子に乗りながら私の誕生日をお祝いしてくれた。自分が苦しいのに、そういうことまでやって祝ってくれた。大変に情の厚い師匠でございました。
歌春:歌丸には、私「歌春」のほか「歌助」「歌若」「歌蔵」「枝太郎」という5人の弟子がおり、それぞれ真打ちになっております。
みんなそれぞれ、たくさんの思い出をもっております。それをひとつというのは難しいことですが、私の思い出としては海外旅行がとても好きな師匠でした。
私はプライベートで旅行のお供をしたことはないんですけど、海外公演でカナダ・メキシコ・ペルー・ヨーロッパ・シンガポール公演を経験させていただきました。
海外に行くと、とても楽しそうにしておりました。日本にいるときの常に「歌丸」という目で見られているということから、多少開放される喜びも合ったのじゃないかなと思います。
お酒が一滴も飲めない師匠で、お酒の席は嫌じゃないんですけど、酔っ払いをとても嫌がっておりました。
私は弱いのですぐに酔っ払うんですけれど。日本にいたら必ずそれが小言になるんでしょうが、海外だと「あんたのお酒は陽気でいいね」と笑って許してもらったのが、なんか楽しい思い出です。
高座での思い出は、師匠が寄席に出る時はたいがい主任を務めるのですが、朝から超満員。午前11時からお客さんずっと待ってるんです。師匠の歌丸は午後4時に高座にあがるんですが、わたしはその2、3人前に出させてもらって。
午前11時から待っているお客様は、小遊三師匠、昇太さん、米助師匠の落語を聞いて、笑って満足はしておりますけど「最後に歌丸を見たい」という気持ちを皆さん持っているわけです。
その2、3本前で惣領弟子の私が出てきて、開口一番「一杯のお運びいただき、ありがとうございます。歌丸登場まで、もうちょっとの辛抱です」というのが、鉄板のネタといいますか(笑)。
お客様も「私の気持ちがわかるのか」という気持ちで笑ってくれたのが、もうできなくなるのが、寂しいです。
――生涯現役の姿を見て、どう思ったか。
歌春:慢性閉塞性肺疾患(COPD)を患って、酸素のチューブをつけて高座に上がることを最初はとても嫌がったんです。
苦しいけど、40〜50分はつけないで頑張っていたんですけど、段々と叶わなくなってきた時に「チューブを付けてまで高座に上がりたくない」と漏らしたんです。
その時、私が師匠に「でも、街中ではチューブをつけてボンベを引っ張りながら歩いている方が大勢いらっしゃる。そういう方々が『歌丸さんもああやって高座で頑張っている』という姿をみたら、力付けられるんじゃないですか」と生意気に意見を言いました。
その時は「いやいや...」と言いながら、何カ月か後には(つけて)高座を務めてくれました。私は嬉しかったです。
――最後は看取ることは...。
小遊三:残念ながら看取ることは...。ご家族とごく一部の方だけで。あたしは間に合わなかった。
(2日の)午前11時43分に息を引き取ったとのことでしたが、私が横浜についたのは午後2時ちょっと前。ちょっと間に合わなかったです。
――最後にお会いになったのは。
小遊三:最後は6月26日に病院へ行った時でした。「協会の方針は、僕の考えはこうだからね」と言われ、「わかりました」と。すごい迫力だったですね(笑)。
「落語芸術協会らしい色を出してくれ」と。「協会員が一丸となって、落語芸術協会らしい高座を後世つくるように」という意味合いですけどね。
「師匠、そんなに、そんなに力まないで!」となって、早々に退散しました。それ以上いると、もっと苦しくなりそうな気配だったので。急にそんなに悪くなるとは夢にも思いませんで。
でも、30日までは小言を言ってたんでしょ?弟子に(笑)。
歌春:そうです(笑)
小遊三:6月30日に小言を最後に食らったやつがいます(笑)。一番下のお弟子さんに「俺が死にそうなのに、てめぇたちは来ねえ!」と。それが最後の小言で(笑)。7月1日に、言葉が出なくなったようでございます。
歌春:(見舞いには弟子が)それぞれ行っておりました。私は6月27日が最後でした。前日に小遊三師匠に迫力を使いすぎたのか、いつもよりちょっと呼吸が荒かった。しゃべるのも辛いだろうなと思って。
私はその前に、末広亭と浅草演芸ホールの主任があったので、見舞いに行けなかったものでしたから。15日間伺えなくてすみませんでしたと挨拶程度で。「わかった、わかった」と。
女将さん(夫人の冨士子さん)とずっと1時間近く喋っておりまして。何度も何度も復活していますので「また元気になってくれるだろうと。1時間ぐらい立ったところで、「今日は苦しくて話ができなくて悪いね。忙しいんだから帰りなさい」って言ってくれたのが、私への最後の言葉でしたね。
残念ながら、私は最期には間に合わなかった。COPDですから、ずっと「苦しい苦しい」と言っていたんですけれど、最期は苦しまずに本当に眠るような感じで「あ、息しなくなった」という感じで亡くなったと女将さんから聞きました。本当に、安らかな顔をして眠りについております。
米助:最後に会ったのは4月29日の夜。知り合いとちょっと飲んでいた時に電話が入りました。(歌丸師匠が)「危篤状態だ」と。それからすぐ横浜の方に行った。かなり悪かったんですね。
私も(病室で)大きな声で「師匠!米助ですよー!!」と。それを聞いて、蘇ったらしいんですよ。デカイ声で。周りの連中は迷惑だったらしいですが。
歌春:丸々2カ月、ほとんど固形物は入っていない(食べていない)です。点滴と、最後にゼリーかなにかを食べさせてもらった。味気のないものだと思うんですけど。
その時、看護師さんが「どうですか師匠、おいしいですか?」って言ったら、「こういう時はやっぱり、うまいと言わなきゃいけないんでしょうね。料亭の味です」と言った。師匠らしい受け答えだなあと。
その4月29日に「今夜がヤマだ」とお医者さんに言われて覚悟した。その日の米助師匠の「師匠!」という大きな声が効いたのか。
何日か経ってまた意識が戻ったときに、臨死体験と言いましょうか。「死にそうな感じがしたんだけど、誰かが大きな声で呼ぶんだよね。やたら大きな声で。戻ってきたんだよ」。それが米助師匠だなとわかって、命の恩人だなと(笑)
米助:だから、大きな声は無駄じゃないなとよくわかりました。
小遊三:大きな声で病院で注意されたんですよ(笑)。「隣にも患者さんがいるんですから静かにしてください」って。
(会場から笑い)
米助:やっぱり酒飲んでたから大きな声でちゃったんですよね。その時は血圧が、上は100以上あったものですから、大丈夫だろうと。2カ月たって、7月2日眠るようにお亡くなりになった。だから全然苦しんでいない。さすが、最後もかっこいい死に方だったなという感じがしております。
歌春:2カ月の間、少しは良くなったり、危篤までは行かないんですけど悪い状況だったりを何度も何度も繰り返していた。
良い時は、ほんとに病気なのかなというくらい。病人が元気って変ですけれど「またいつものように、8月には国立演芸場でやるんだろうな。またできるんだろうな」という思いを感じておりました。ですから、その勢いで弟子には小言をずっと言っておりましたけれど。
入院中に初めて知ったことがありまして。浪曲が好きで聞いているのは知っておりましたけど、落語はもちろん、CDやなんかも入院中に自分のも含めて聴いていたみたいなんです。
もちろん歌も好きで、CDを息子さんに「あそこにあるから持ってきてくれ」と。その時に、息が苦しいでしからね「ピンピン...ピンカ...」と言って、「もしかしたらぴんから兄弟かな?」と思ったんですけど。
でも、そんな訳はないなと思ったら、弟弟子の歌蔵が「え、きんぴらが食べたいんですか?」って。バカ野郎、こんな状況できんぴらごぼうが食いたいわけ無ぇだろうと。でも、それも師匠らしいなと。
米助:歌丸師匠は弟子には厳しかったですけど、弟弟子とか周りのお弟子さんには実に優しい人でございました。まず、小言を言っているのは聞いたことがない。
弟子にはしょっちゅうですが、弟弟子とか小遊三さんとか昇太さんとか、他の人に小言を言ったのはまず聞いたこと無い。そういう方でした。ですから、うっぷんは全部弟子にいっていたのではないかと。
昇太:声をかけてくださる時はいつも丁寧語でした。「昇太さん、いいですね」と。後輩なのに、全部丁寧語なんです。一方、お弟子さんには厳しかった。弟子にならなくてよかったなぁと思いました(笑)。
小遊三:私も弟子になっていたら、とっくにやめています(笑)。
(会場から笑い)
――奥さまとは、どういうご夫婦だったか。
歌春:私たちは仕事があったりするんで。何日かに一度ぐらいしか伺えなかったんですが、女将さんは毎日、家のことを済ませると、昼ごろから夕方まで病院に行っておりました。
それがこれからできなくなるので、女将さんが気落ちするのではと心配です。
米助:僕は真金町(横浜にある歌丸師匠の自宅)に、稽古に行っていたもんですから。僕が通ったときは歌丸師匠が30歳。奥さんは5つ年上ですよね。ご近所の出身で、若い頃からのお知り合いだと思いまして。
多分、歌丸師匠が奥様に惚れたんじゃないかと。だって5つも年上ですよ?普通、5つも年上と一緒になりませんよ。
昇太:そんなことないですよ!
米助:本当は(古今亭)今輔師匠が、自分の娘と一緒にさせたかったんじゃないかな。
でも、冨士子夫人と一緒になった。いかに惚れていたか。僕らが(歌丸師匠の家に)行って一番思ったのは、亭主関白。奥様にはほとんど口をださせなかったというか「おめえは黙ってろ」みたいな。
稽古のときも、2階に案内してくれるんですが、奥様は絶対に上には来ない。稽古が終わって下へ降りると、奥様がお茶を出してくれたり。
「笑点」では「(夫人に)頭が上がらない」みたいになっていますが、本当はあんな亭主関白はいないんじゃないかと。そのくらいの師匠でございました。
――奥様は高座や笑点の現場には。
米助:多分、歌丸師匠は(夫人を)仕事場には顔を出させない人だった。
歌春:最後の笑点の収録の時だけ。それが初めてかもしれない。客席で見るということはありませんでした。楽屋に用があって、ちょっと顔を出すことはあっても、客席で歌丸の高座をみることはなかったです。
米助:多分、末広亭とか浅草(演芸ホール)とか、国立演芸場とか、奥様は楽屋に上がったことないと思います。ガラッと開けて顔だして「どうも」と。それで消えてしまうという、そういう奥様でした。
小遊三:万事、なにか飲み込んだような。さすが年上という余裕がある奥様ですね。昨日もそうだよね。やっぱり、いると安心させてくれる。
あたし一番最初に合った時は(女優の)草笛光子に似ているなと思いました。そのぐらいのいい女だった。スタイルが良くて、美人で。
昇太:わたし、夫婦のことがわからないので困るんですけど(笑)
(報道陣から笑い)
昇太:でも、本当に控えめな奥様で、素敵な方なんです。本当に若い頃はさぞ、お綺麗だっただろうなと。
僕は歌丸師匠のパーティーの時にお見かけしたくらいで、本当に仕事場ではお会いしたことはなかった。歌丸師匠の叙勲パーティーにお見えになっていた。
最初、誰だかわからなかったんです。歌丸一門じゃないので、普段お会いしていない。
ロビーに立ってらしたんですけど「誰なんだろう?」って。でも、周りの人が挨拶していたから「きっと偉い人なんだな!」と。そのぐらいでした(笑)。
歌春:昇太さんは「夫婦のことがわからない」と。私がわからないと思ったのは、歌丸にはとても女性ファンが多かった。品があるから、色気があるからなんでしょうけど。
私は「面白いんだけど、あの痩せたおじいさんのどこがいいんだろう」と思っていた。
ところが、ある方に聞いてみたら「それがわからないから歌春さんはモテないんだよ」って。ああ、そういうことなのかと(笑)
――師匠と対面してかけた言葉は。
米助:(手ぬぐいで涙を抑えつつ)僕は公私に渡って、ほんとに下っ端のときから歌丸師匠が面倒を見てくれた。たった一言、師匠ありがとうございましたと。これしかないですね...。
小遊三:最後の死に物狂いの努力というのを、僕らは嫌というほど見せつけられている。「あぁ、楽になりましたでしょうね」ということでしょうね。
昇太:僕は自分の独演会があったもので、まだお会いはしていないです。
小遊三師匠がおっしゃったように、直接指導をされたわけではないんですが、普段の歌丸師匠の高座に対する姿勢が、本当にかっこよくて。それを見せていただいてとてもありがたかったなと思っています。素敵な師匠でした。
歌春:歌丸はとても意思が強くて、そして運が強くて、芯も強い師匠だとずっと思っておりました。
苦しいときでも、見舞客に対して「苦しい」とか「痛い」とか弱音を吐くことはめったになかった。さすがに危篤を過ぎて意識が回復して、苦しいのが段々と実感するようになった。弟子や女将さんだけになると「苦しい。ラクにしてくれ」ということを言っていました。
そういう時に「ダメですよそんなこと言ったら。まだお客さん待ってるんですから。まだ高座あがるんだから、がんばりましょう」と言ったんですけど...。「ラクにしてくれ」という言葉がとても、その時なんか辛かったですね。
こういう時にこんなこと言っていいのかわかりませんけど、本当の安楽死っていうのは、一番苦しい時に安楽死をさせてあげるのが、安楽死の意味があるんじゃないかなと。本当に、本当に苦しかったんじゃないかなと思います。
だけどそれを乗り越えて、また生き返ったわけですから。何度も奇跡を起こしているから、またきっと蘇るだろうと思って、そのことは言いませんでした。
それだけ辛いと、見ている方も辛い。最後まで呼吸器をつけていたものですから。
(鼻の頭がこすれて)嫌がっていた。2カ月飲み食いできず、呼吸も苦しいし、鼻の頭が擦れて痛いのも辛かっただろうし、全部から開放されて「本当に師匠お疲れ様でした」と言う言葉を最後にかけました。
――落語にかけた歌丸師匠の81年の人生どう感じるか。
昇太:テレビに、特に「笑点」とかに出ていると、見ている方はタレント的なところを見てらっしゃる。「落語をやってない人なんじゃないかな」とか、落語についてはあんまりやってない人みたいな。そういうふうに括られてしまうところがある。
歌丸師匠も、それは感じていたと思う。だからより一層、落語に対して、ものすごい向き合い方だった。とっても素晴らしかった。
落語家なので、みんな落語が好きなんですよ。落語を生業としているんですが、テレビのお仕事もさせていただいている。「落語をやるんだ」という、ものすごく強い意志が歌丸師匠にはあった。
僕たちに「落語家というのは、こういう姿勢で落語に向き合わないといけないんだよ」と、無言で教えていただいたような気がいたします。
小遊三:円朝ものをおやりになったので、大変な努力家と皆さん思われているでしょう。その通りなんですけれど。実は人にはない素晴らしい才能があったと思うんです。天分が。
相当の才能がなければ、あれだけの古典落語をきっちり、寸法通りに、自分の思ったとおりに喋るというのは出来なかったんじゃないかな。
それをやってる噺家が、その証拠に過去にそんなにいない。記録を聞いたりした中ではありますが。大先輩方と比較しても、歌丸師匠の切れ味といいますか正確さは、そういないと思います。すばらしいものです。
米助:とにかく、生き方から何から全て芸に向かっている方で。粋ということを追及していました。
楽屋なんかでもって、本当に色々ユーモアや冗談を言うんですが、駄洒落(ダジャレ)を言いますと「あんたね、それは駄洒落じゃなくて愚(ぐ)洒落だよ!」って。そのくらい文句を言うくらい駄洒落が大嫌いな人で。
なにか洒落を言うなら、ユーモアのある洒落を言えよと。全てを芸に結びつけていた人が、歌丸師匠じゃないかと思います。そして小遊三さんが言いましたように才能もあった。野球に例えたら、王貞治じゃないか。
歌春:あれだけの国民的スターで人気がありましたが、晩年は苦しそうに高座に上がっておりました。
今では生意気な口を利いて失礼だったと反省しておりますが、本当に生意気な口を利いたことがあった。
「師匠、40分も50分もしゃべるのは苦しいでしょうから、私たちが長く喋りますので。師匠は出て、5分だけでも構いませんから、ただ座ってニコニコしてくださるだけで、きっとお客さまは『歌丸を見た』『歌丸が動いた』『歌丸が何か言っている』と。それだけで満足して帰ってくれる。そういう高座のやり方をなさったらどうですか」と。
その時も、ただ笑って「いやいや、そうはいかないよ」って言ってくれた。
本当に失礼なことを言ったなと。師匠の芸人魂と言いましょうか。落語が好きで噺家になったというのが、スタート。そこを、私は大きく履き違えていたと思います。「ただの人気者で、あたしは終わりたくはないんだよ」という気持ちがあったと思います。
新作落語からはじめまして、最後は円朝ものに取り組んだ。そういう仕事の仕方だった。
転機となったのが、横浜の三吉演芸場で年5回やっておりました「歌丸独演会」です。ここで毎回、2席の新しいネタを、ほぼ50年以上。最後は体力の限界まで続けておりました。これが大きな財産になったと思います。
――託されたものは大きい。歌丸師匠の心配事ってありましたか。
米助:これ、一番心配なのは弟子だったんじゃないですか(笑)。あとは思ってないと思いますよ。弟子ばっかり心配かけるから(笑)。
歌丸師匠はマイペースというか、自分の芸に進んでいました。弱音を吐かないし、愚痴も聞いたことがない。酒飲まないくせに酒飲みの食べ物が好きでした。塩辛とか、いか、いくらとか。からすみとかね。
あとお煎餅。塩煎餅はダメ。醤油煎餅で、しかも硬いやつ。商品名出しますと「日乃出煎餅」でございます。ここの煎餅しか食べなかった。
あんこも、つぶあんはダメ。こしあんじゃなきゃ。白あんもダメ。普通の小豆のあんこじゃないと食べないという方でした。
歌春:さっきの煎餅の話なんですけど...。本当は浅草の、とあるお店の煎餅が大好きだった。この店の親父さんがとても頑固な人で。「お客が並ばないと売らないよ!」という主義だった。
もちろん歌丸も並んで買ったんですけれど、歌丸もとても頑固ですので、頑固どうしで喧嘩になっちゃった。「おまえんとこじゃ、もう買わねぇ!」っと啖呵切ったんですけど、やっぱりどうしても食べたいということで、弟子が買いに行かされました(笑)。
歌丸がよく言っていたことは「落語を残すのは落語家の仕事だけど、お客様を残すことも落語家の大きな仕事だ」と、よく言っていました。
おかげさまで私たちの協会、二ツ目さんでも人気も出まして、寄席にもお客さんがずいぶん入るようになりました。お客さんからリピーターを確実に増やしていくのが、歌丸の願いじゃないかと思っております。
歌丸がよく私に言ったのが、「お客様から『あの人は名人だね』と言われるようになりなさい」と。
仲間内から見て「ああ、あの人うまいね」「名人だね」という人はいくらでもいるが、お客様から見て「あの人うまいね」「名人だね」という人は、面白い人、いっぱい笑わせてくれる人。
「(お客様は)楽しみで、笑いたくて寄席に来ているんだから、そういうお客様を満足させられる芸人になりなさいよ」と。それは、先輩方もよくご存知のことだと思います。
――小遊三さんも...。
小遊三:心配事ですかぁ?子供の頃から心配したことないから...
米助:あんたのことじゃないよ!
小遊三:歌丸師匠の...いやぁ、心配事ってのはそんなにない。
歌春:小遊三師匠が歌丸の家に行くことじゃないんですかね?(*「笑点」で馴染みの、小遊三さんを泥棒扱いするネタ)
米助:面白くないよ!
歌春:そうか...滑りました。失礼しました!
(会場から笑い)
昇太:心配事ですか...。多分、先輩たちがおっしゃる通り、あんまりなかったと思います。一番心配していたのは、自分のことだけだと思います(笑)。
落語家って個人でやっているので、自分のやっていることが一番心配。人のことはあんまり考えてなかったと思います(笑)。
ただ、協会のことは考えていてくれた。歌丸師匠があまり表に出られないので、早く会長の座を譲りたいということは、おっしゃっていたようなんですけど。
協会の顔なので、ついついお願いしますよと言っていたんですよね...?
小遊三:言ってた「よう」でしょ?「よう」っていうことは、確証がないわけですから(笑)。
歌春:私は聞いてます。小遊三さんにお願いしたいと。
小遊三:(バツが悪そうに、沈黙)
米助:はっはっは(笑)。もっと言ったほうがいい。
小遊三:この間の(落語芸術協会の)総会では、歌丸師匠の体調がよろしくないので、私が会長代行を来年の総会の前日まで何があっても務めますので、と。
その旨を歌丸師匠にも報告し、師匠も了解しておりますので。その点はなんの心配もございませんと。
歌春:でも、「代行」では失礼だということを言っているわけで。
小遊三:いや、失礼ではない。
――「代行」は取れますか?
小遊三:いやいや、とらないですよ。会長がお亡くなりなったということで。別に、誰を会長にということでなくても務まる協会でございますから。別に...どうぞ、ご心配なく。
(会場から笑い)
――自らまとめていく?
小遊三:みんなの力で。そのために理事会というのがございまして、錚々たるメンバーが入って、熱い議論を戦わせております。みなさんの総意で進めていけば、なんの問題もないと...。
――歌丸師匠の言葉で、心に残っている言葉は。
小遊三:「落語家は、なんの落語でもできなきゃダメですよ」というのが、僕はできそうもないので心に染みております(笑)。
昇太:落語の話じゃないんですけれど、結構お茶目なところもある方で。僕が大河ドラマ(「直虎」の今川義元役)に出していただいたら、歌丸師匠が「昇太さん、大河ドラマ出ていいなぁ。いいなぁ。俺も出てえなあ。俺も出てえなあ」って(笑)。
時代劇が大好きで、すごく出たかったらしい。「俺、千利休ならうまくできそうな気がする!」って、役柄まで決めていたんですよ!よっぽどやりたかったんでしょうね(笑)。
(会場から笑い)
落語はもちろん好きでやってたんですけど、色々な仕事にも興味のある方だったんだなとおもいました。
米助:私はね「米助さんね、落語は真剣にやるべきだよ」って言われました(笑)
小遊三:おっかしいな、そりゃ(笑)
歌春:さっき言った「お客さまを残しなさいよ」「お客さまから名人と言われるようになりなさいよ」という言葉ですけれど。歌丸の普段の生活でも、本当に落語が好きで...。
いつも家に行くと、新しい話の稽古をやっていたり、笑点のビデオをいつも見ていました。時代劇も好きでしたし、テレビドラマも好きだったんですが...。
回答者のときもそうでしたが、特に先代の圓楽師匠から司会をバトンタッチした後は、本当に楽しみながら研究、勉強をしていた。
特に司会の間というのか、「このあいだも見ていたじゃないか」というところも、何度も何度もずっと楽しそうに見ていた。
本当に落語と、笑点が好きな師匠だったんだなあと今思っています。
――今後の代演は。
米助:今月の日曜日だったかな。三越落語会で私が主任ですが、歌丸師匠が中主任をとる予定でしたが、木久扇師匠が代演なさることは決まっています。
――国立演芸場での8月中席は、恒例の歌丸師匠の三遊亭円朝ものだったが...。
歌春:すでに顔付けができておりまして、小遊三師匠、米助師匠、昇太師匠、私も一日だけですがそれぞれ主任を務めます。タイトルを付けるかは未定ですが、歌丸を偲ぶ会のような顔付にはなっております。
――かつて歌丸師匠は「今後の落語界の未来を託されるにはどなたに」という質問に、小遊三師匠、米助師匠、昇太師匠と答えていました。
小遊三:あれは新聞辞令でございまして、直接3人が呼ばれて言われた覚えもございませんし、個々に言われた覚えもございません。
米助:そのとおりでございます。
(会場から笑い)
――歌丸師匠の言葉を受けて、今後どのような落語の未来を作っていきたいか。
小遊三:えぇ、あの...来年の6月までには、この大きな看板がいなくなったのを、なんとか繕って。6月には落語芸術協会の再出発ということでございます。それまではみんなで、力を合わせてなんとか頑張ろうかなという次第でございます。
――米助師匠は。
米助:歌丸師匠というのはお客さんを集めて、動員力もあった。お亡くなりになったいま、逆に言うと落語界のピンチでございます。
こういうときこそ一丸になって、今度はピンチをチャンスに変える。落語芸術協会が一丸となって、みんなで戦って、いかにお客さまが来てくれるか。そのへんのところを向いていきたいと思います。
小遊三:「お客さんに来ていただきたい」と僕らは言いますけど、どこへ来てもらいたいかといいますと寄席でございます。
「春風亭昇太独演会」とかどうでもよろしいので。個人的な会はどうでもよろしいのでございます。寄席に来ていただきたいということでございます。そこのところ、よろしくお願い申します。
米助:そのとおりでございます。
(会場から笑い)
歌春:実際、いまは空前の落語ブームと言われるぐらい、寄席にはお客様が増えております。でも、「また来よう」というリピーターを増やすのが私たちの一番の使命じゃないかなと思っております。
昇太:歌丸師匠が言ってらしたのは「落語を壊さないようにしてくださいね」ということでした。いま古典落語の中に、割と新しいギャグを入れるというのが流行っているんですよ。それについて、ちょっと憂いていたんじゃないかなという気はするんですね。
落語ってのは、個々が演出家でもある。それぞれが、それぞれの考えで落語をやっている。色々なタイプの落語家が出ることによって、いま落語がいい感じになっているので。
歌丸師匠のように、新しいギャクとか入れずに古典落語をやるんだという方が一人いなくなったというのは損失ではあると思うんですが、お弟子さんや後輩たちも同じ考えの人はたくさんいらっしゃると思う。
歌丸師匠が亡くなったということで、「落語界の損失」というふうになってしまってはいけないと思っている。ますます、これから後に続くものが頑張っていくというのが大事なんだろうなと思っています。