太平洋戦争中、日本海軍の機動部隊がアメリカ海軍に大敗北を喫した「ミッドウェー海戦」から、6月5日で76年を迎える。先の大戦の重大な転機となった日米の激戦を、画像とともに振り返る。
■太平洋戦争の転換点「ミッドウェー海戦」とは?
太平洋戦争の開戦から半年が経とうとしていた1942年5月、日本海軍・連合艦隊の山本五十六司令長官は、ハワイの北西約2000kmに浮かぶ太平洋の小さな環礁、ミッドウェー島を攻撃することでアメリカ空母を誘い出し、これを撃破しようと計画した。ミッドウェー島には、アメリカ軍の航空基地があった。
5月27日、南雲忠一中将率いる第一航空艦隊(通称「南雲機動部隊」)がミッドウェー島の攻略に向けて、広島湾内の柱島から出航。作戦には「赤城」「加賀」「飛龍」「蒼龍」の4空母が参加した。この日は、日露戦争の日本海海戦で勝利した「海軍記念日」だった。
日本軍を迎え撃ったのが、アメリカ太平洋艦隊の司令長官ニミッツ大将だ。ニミッツ大将は暗号解読により日本の狙いを察知。空母3隻を出撃させ、ミッドウェー島の北東で待ち伏せした。
6月5日早朝、日本機動部隊の空母4隻から第1次攻撃隊が発艦。友永丈市大尉が指揮した攻撃隊は、ミッドウェー島の空襲に成功した。しかし、成果が十分でないとみた友永大尉は「第2次攻撃の要あり」と艦隊に打電した。
このとき日本軍は、艦載機の半数に爆弾を、もう半数に敵艦隊攻撃用の魚雷を装備していた。
もしミッドウェー島に第2次攻撃を仕掛けるのであれば、魚雷を爆弾に変えなければならない。これには時間がかかる上、もし敵艦隊が出現したら対抗できなくなるが、南雲中将ら司令部は兵装の転換を決断した。
第2次攻撃のため、爆弾への換装作業が終了しようとしていたその時、索敵機から「敵空母発見」との知らせが入った。
この時、空母「飛龍」に座乗にしていた第二航戦司令官の山口多聞少将は「直チニ攻撃隊ヲ発進セシムルヲ至当ト認ム」と司令部に進言。陸地攻撃用の爆弾のまま戦闘機を発艦させ、敵艦隊を攻撃すべきと訴えた。
ただ、司令部はこの進言を却下した。敵艦隊に十分なダメージが与えられない可能性が高いと考えられたからだ。
一方、南雲中将ら司令部は、帰還した第一次攻撃隊を収容しつつ、艦載機の兵装をもう一度爆弾から魚雷に転換するよう命じた。
魚雷への換装作業を終えてようやく発艦準備が整い、日本の艦載機が出撃しようとしたその時だった。米軍機の急降下爆撃が日本の空母部隊に襲いかかった。
わずか数分で「赤城」「加賀」「蒼龍」が被弾、炎上。日本海軍は一瞬のうちに主力空母3隻を失った。
攻撃を免れた空母は、山口少将が乗る「飛龍」1隻だけだった。
「飛龍」の山口少将は同日午前11時、「我レ今ヨリ航空戦ノ指揮ヲ執ル」と宣言し、残りの攻撃機を集めて米軍への反撃を開始。米空母「ヨークタウン」を大破に追い込んだ。午後4時3分、米軍機24機の空襲で「飛龍」も大破、炎上。やがて沈没した。
こうしてミッドウェー海戦で日本軍は、主力空母4隻、巡洋艦1隻、熟練パイロット120人以上、戦闘機およそ300機を一度に失うという大損害を受け、次第に太平洋の制海・制空権を喪失。太平洋戦争の主導権を失い、戦局の劣勢が方向づけられた。