大阪府箕面市の体育館を埋め尽くした約1000人のファンが歓声を上げる中、190センチを超える佐々木太一の体が宙に舞った。
2005年7月17日。現役チームとのエキシビジョンマッチを最後に、佐々木は12年にわたるサントリー・バレーボールの選手生活にピリオドを打った。33歳だった。
Vリーグ5連覇。日本代表としての活躍。そしてオリンピックの予選敗退やけが...。ほかの選手らに胴上げをされながら、佐々木は現役時代の思い出をかみしめていた。楽しいときも、苦しいときもあったが、佐々木にとってはすべてがかけがえのない時間だった。
引退後、佐々木はサントリーの営業職に就いた。入社以来、バレーボールにすべてを捧げてきただけに、営業マンとしては「新人」だった。
「営業で一番になる。『石の上にも三年』とかは性に合わない。2年で完璧になってやる」。佐々木には自信があった。バレーボールで鍛えられた負けん気や粘り強さ。営業でも通用すると思った。
だが、現実は甘くなかった。大阪中のホテルやバー、居酒屋、ビアガーデンを回り歩き、ビールやウィスキーなどを売り込んだが、うまくいかない。
営業成績が振るわない自分を尻目に、10歳以上も年下の後輩たちはどんどん結果を出していく。
なんとか目標を達成しても、新たな目標が次々と現れた。勝ち負けがはっきりするバレーボールと違い、先の見えない「勝負」に自らを見失った。
「自分の中に納得感や充実感が得られず、どうしていいかわからなかった。『サラリーマン』というくくりの言葉に埋もれてしまいそうで、怖かった」
営業への転身から2年。ついに体が悲鳴をあげる。朝起きられなくなり、気がつけば求人情報誌をめくっていた。
そんな姿を見かねた上司の大阪支社長から、誕生したばかりの社内資格を取るよう勧められた。「ウイスキーアンバサダー」。ウイスキーの魅力や知識を客らに伝える「伝道師」のような存在だ。
向かった先は、大阪府島本町にある山崎蒸溜所。世界的に知られるウイスキー「山崎」の産地にして、日本最古のウイスキー蒸溜所だ。サントリーの創設者、鳥井信治郎が造り、NHKの連続テレビ小説「マッサン」で有名になった竹鶴政孝が初代所長を務めたジャパニーズ・ウイスキーの「聖地」でもある。
佐々木はここでウイスキーの歴史を学び、極限まで味覚や嗅覚を研ぎ澄ませるブレンダーや作り手たちの仕事に触れた。自ら味わったここでの感動を「一直線にお客さんたちにも伝えたい」と思い、営業とウイスキーアンバサダーとの「二刀流」を始めた。
ウイスキーに対する佐々木の関心はさらに深まる。愛好家らでつくる「ウイスキー文化研究所」(東京)が、ウイスキーの専門知識を認定する資格「ウイスキーコニサー」にも挑戦した。
2011年には、3つある資格のうちの最高位となる「マスター・オブ・ウイスキー」の合格者第1号になった。
「ウイスキーについてお客さんに説明して、『よかった。面白かった』と言ってもらえると最高にうれしいですね。営業職のころよりも、『お客さん』の喜ぶ表情が身近に感じられるようで、こっちの方が自分には合っている気がします」。佐々木は胸を張る。
佐々木は2014年春、ウイスキー部に異動。仕事の内容もまた変わった。たくさんの訪問者を受け入れる蒸溜所のPRを考えるのが主な役割で、メディアの取材対応も増えた。「はっきり言って営業時代よりも忙しいですよ」。佐々木は苦笑する。
バレーボール選手、営業職、ウイスキーの伝道師...。佐々木は会社員「人生」を何度も生きている。
佐々木は言う。「まったく違う仕事を経験することで、新しい『自分』を見つけた気がします。バレーボール選手のころは、熱血でデータなんか見ない、まっすぐな自分。営業では一転、細かいことが気になって、もっと完璧にしたいという自分。そんな一面があるなんて自分でも意外でした。そしてアンバサダーの仕事では、『お笑い芸人』に近い感覚。話すことが好きで、お客さんを喜ばせたい、逆にお客さんから評価されたいっていう」
佐々木にとって、仕事が変わり、「新しい時間」を過ごすことは、新しい自分と出会えるチャンスなのだという。
佐々木は今、46歳になった。テイスティング用のウイスキーを口に含みながら、にやっとした。「次はいったいどんな自分に出会えるのか。楽しみです」(敬称略)
「アタラシイ時間」を過ごすことは、「アタラシイ自分」と出会えるチャンス。佐々木太一さんとウイスキーを楽しむイベントも開きます。
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