少数派のイスラム教徒ロヒンギャへの迫害が続くミャンマー。8月に西部ラカイン州でロヒンギャの武装集団が治安当局と衝突を起こして以来、隣国バングラデシュへ避難する人々は60万人を越える。
国連人権高等弁務官事務所の報告などによると、銃の乱射や居住地の破壊などのほか、女性への性暴力も多数の証言がある。国際社会からの批判を受けても、ミャンマー当局はロヒンギャを「不法移民」として扱い、国籍も与えていない。
苦境に立たされるロヒンギャ避難民の支援のため、バングラデシュ南部の避難民キャンプを訪れた、日本赤十字社の青木裕貴さんが、現地の過酷な状況をレポートする。(ハフポスト日本版編集部)
■今なおつづく緊急事態
私は10月初めから11月下旬まで、バングラデシュ南部のミャンマーからの避難民支援のため日本赤十字社ERU(Emergency Response Unit)の一員として活動していました。
ERUとは、緊急事態に被災地に迷惑をかけることなく対応できる人員・資材を保有した、赤十字の有する自立した部隊です。私は第二班で、主に日赤の支援を支えてくれる現地の協力者を募り、関係を構築することを任務としていました。
私たちは毎日、コックスバザールの市内から片道1時間30分をかけて支援を必要とする避難民の滞留するキャンプに向かいます。避難民キャンプが近づくにつれて、厳重となるセキュリティーのチェックポイントや服を着ていない裸足のままの子どもたち、ぬかるんだ泥道の中で食糧配給を求めてあふれかえる人々に、ミャンマーからバングラデシュへ身一つで逃げてきた人々に突きつけられた生々しい現実を知ることになります。
キャンプ内に入ると、山を切り開いて土地を開墾しているせいか、谷や斜面という地形に多くのテントが立ち並んでいます。明らかに雨季には洪水や土砂崩れに見舞われ、サイクロンがひとたび来てしまえばひとたまりもないであろう、竹の支柱にビニールを巻き付けたつくりのテントにおびただしい数の避難民が暮らしています。
キャンプ内ではたくさんの子どもたちが無邪気な笑顔で縦横無尽に走り回っている姿をよく見かけましたが、子どもたちだけで遊んでいる様子を見ると、誘拐など危険な目に遭う可能性も高いのではないかと私の脳裏にはよぎりました。
避難民は炎天下の真夏も、豪雨の日も何をするわけでもなく暗い簡易テントの中で過ごしていることが多かったように思います。これは避難民にとって、人道支援団体の行う配給物資を受け取る以外に特にすることもなく、仕事もないからでしょう。
彼らの心境を慮ると、いつ故郷に帰れるかもわからない、明日をどう生きて行けばよいのかもわからない、故郷からバングラデシュに避難してくる過程で消息のわからない家族がいる、悲惨な事件に巻き込まれたなど、避難民たちは希望を持つことすら難しい、精神的にも厳しい、狂ってしまうような状況なのかなと、私は避難民キャンプを訪れる度に感じていました。
加えて、避難民キャンプに入るとまず感じる独特な匂いもよく覚えています。私が現地にいた10月は夏も終わり、少し涼しくなってきたころですがそれでも日中は汗が噴き出るほど暑くもありました。現地を離れる11月末でも、まだ日中には汗ばむ気温で水分補給のために1.5リットルの水を携行して移動しなければなりませんでした。辺りに無秩序に捨てられた様々な生活ごみと避難民キャンプを流れる汚水、暑さという要素が混じり合い、何とも形容しがたい匂いです。
トイレと呼ぶことのできるものは一応あり、現地では今なおトイレの設置が進められていますが、とりわけ子どもたちがトイレを使わずに用を足している姿をよく目にしました。衝撃的だったのは穴を掘って、周りをビニールで囲っただけで、天井は吹き抜けている簡素なトイレの中を覗き込むと、大量のハエが舞い、中の穴には蛆虫が数えきれないほど沸いていたことでした。
キャンプ内には人間のほかにも、牛や山羊などの家畜が多く放し飼いされ、その排泄物もあたり一帯の水路や民家のすぐそばに放置されている状態です。そのような環境は、彼らの生命と健康を脅かすだけではなく、人間の享受すべき尊厳すらも奪っているように私の目には映りました。
国際社会が注目をする中、その希望的な解決策の模索される華やかな政治の舞台と、いつまで続くかわからない不安の日々を過ごす避難民の日常とのコントラストは、日々、後者に寄り添う現場にいる私たちを、何ともやるせない気持ちにさせます。国際社会の支援の手は未だにこの現場には十分に届いていません。
■避難民の現実
避難生活の中でも、日本人であれば秩序を保ち、防災や共同生活の中での掃除当番など、二次災害を防ぐための活動を呼びかける声が挙がることもあるかもしれません。しかし、残念なことに避難民の識字率や教育レベルは低く、それが避難民の生活をさらに厳しいものにしていることに私は気づかされました。
ごみを無秩序に捨てることや手を洗わないことによる感染等の危険性を知らないのです。テントのすぐ横の汚い水路で洗濯をする人や食器を洗う人を見て、日本での当たり前が全く通用しない非日常的な光景に違和感を覚えました。
そもそもミャンマーでは十分な教育を受ける機会が制限されていたことに加え、女性の社会進出が進んでいない避難民の文化の中では教育を受けた女性や字を読み書きできる女性を探すことは極めて困難でした。避難民は自分たち固有の文字を持っていないため、限られた者のみ英語やビルマ語を使用することができます。
避難民の間でも少しばかり流通しているスマートフォンについて、「メールなどではどの言語を使用するか」と問いかけたところ、テキスト(文章)ではなく、ボイスメール(音声)を送信するとのことでした。
現地に着任して早々、私は竹とビニールでつくったテントの中で産婆さんもいない中、お産をして亡くなったという赤子と衰弱しきった母親を見ました。日赤の藤田看護師と日赤合同チームで診療にあたっていたイタリア赤十字社のマウリチオ医師も、その現場を見て、あまりの状況の悲惨さに涙を流していたことを記憶しています。
避難民の間では、「伝統的な医者」や「伝統的な産婆」という人たちが存在はしています。しかし、「伝統的な医者」は医療に関する知識を学校教育の中で学んだ人ではなく、あくまでも故郷の村で人々の症状を見て、薬やそれに代わるものを探してくるような「少し賢い物知り」的な存在だそうです。
一方、「伝統的な産婆」は一定数、キャンプ内に存在していますが、広大なキャンプ地の中では産婆が1人もいないエリアがあるなど、組織的な活動をしているわけではありません。
頼るべき人もおらず、電気もお湯もない暗い簡易テントの中で子どもを産まざるを得なかった母親の心境と、適切な医療さえ届いていれば今も元気に暮らしていたかもしれない赤子のことを思うと、あの経験豊富なマウリチオ医師と、診療中は落ち着いていた藤田看護師から涙がこぼれ落ちてきたときの悲しさが蘇ってきます。
多くのリスクにさらされる避難民の中でもとりわけ、妊婦や子ども、障がいを持った人、女性(イスラム文化の中では特に)、高齢者などは最も弱い立場の人々です。毎日を生きるか、死ぬかという厳しさの中で生きている彼らが苦痛を取り除いて、少しでも安らげる時間をつくることの手助けを私たちはどれだけできるのだろうか、という葛藤の連続でした。
■私の感じたジレンマ
支援を届ける側と支援を受ける側の目に見えない境界線のようなものを、私は毎日のように感じることになりました。
日々、片道1時間30分をかけてコックスバザール市内の安全な宿舎から車両で出ていき、毎日遅くとも16時までには避難民キャンプから宿舎に帰らなければなりません。これは安全管理上の配慮で、避難民以外の人間がキャンプ内に夜間まで滞在することも許されていませんでした。
一方、日赤はバングラデシュ赤新月社をサポートする形で現地活動を展開しましたが、避難民が話す独自の言語やキャンプ内での安全面の制約などから、バングラデシュ赤新月社だけでなく避難民自身もスタッフとして協力を得ることになりました。
日々、活動を終えて車両に乗り込む要員と、一仕事終えて充実感がありながらも複雑な表情でそれを見送る避難民スタッフの姿を私は忘れることはないと思います。私たちが安全な宿舎で残務を行い、食事をとっている間にも彼らの生活はあの避難民キャンプの中で続いているという気持ちが幾度となく、頭をよぎりました。「同じ赤十字・赤新月の標章とともに働きたい」と互いに言い合った後に、その場を私たちだけが立ち去らなければならないのが現実です。
スタッフだろうが日本人だろうが避難民だろうがバングラ人だろうが関係なく、お互い対等な関係でこれからの活動についてともに希望をもって話し合い、それを実践してきた私にとってはとても辛いものでした。できることなら、避難民キャンプでともに生活し、彼らの考え方や文化に深く立ち入り、同じ気持ちを抱いて支援にあたりたいと私は本気で考えていました。
■避難民との別れ
任期終了が近づき、もうあと1週間で帰国するという頃、帰国する日赤チームに対して避難民スタッフから盛大な送別会を催したいという話がありました。避難民スタッフは送別会をすると決めた日から、診療終了後に全員がある竹テントに集まり、会合を開くようになりました。
そして最終日、業務を終えると、安全管理上の撤収時間までは残り1時間ほどとなっていました。すると、避難民スタッフはどこからともなくお菓子やジュースなど、ありったけの『贅沢品』をテント内に広げ、ゲームの催し物まで企画していてくれていたのです。
最終日の仕事を終えた心地よい疲れと今日で最終任期を終えること、総勢32名の避難民スタッフに支えられて仮設診療所が立ち上がるなど、一通りの成果があったことに思いをはせながら、私は彼らと、このような状況でさえなければ一人ひとりの家を訪問してともにランチを食べたかったことや、彼らの言語・文化・風習をもっと教えてほしかったこと、最後まで彼らの友人としてこれからの支援活動を見届けたかったこと、明日には現地入りする第3班にも2班の時と同じ協力をしてほしいなど、最後の全体挨拶として伝えました。
その日の帰り、いつものように車両に乗り込み、見送ってくれた避難民スタッフたちと通いなれたキャンプの風景がだんだんと遠ざかっていく中、私は何度拭ってもこみ上げてくる涙を止めることができませんでした。
青木裕貴(あおきゆうき)
日本赤十字社事業局国際部開発協力課 主事
1989年生まれ、香川県高松市出身。
香川県立高松高等学校、上智大学外国語学部ロシア語学科卒業後、2013年に日本赤十字社に入社。葛飾赤十字産院で病院勤務を経て2017年4月より現職。2016年熊本地震では葛飾赤十字産院の救護班として、熊本における救護班活動に従事。現在は国際部開発協力課で、発展途上国の赤十字・赤新月社を通じた開発協力事業の展開を担当している。