学校で夏休みがもうすぐ終わる。8月31日といえば、私にとっては、読書感想文や自由研究など、宿題を必死に終わらせようとする「悪夢の日」だった。
ネットのフリーマーケットサービス「メルカリ」では「夏休みの宿題にどうぞ!」の売り文句で、読書感想文や自由研究の完成品が販売され、物議をかもした。
もちろん、倫理的には問題だ。だが、読書感想文や自由研究といった「夏休みの宿題」の定番が「時代遅れになっているのでは」という気もする。昭和の時代と21世紀の今では、親も子もライフスタイルが違いすぎるからだ。
そんな中、東京の小金井市立前原小学校の松田孝校長は「夏休みの宿題、を死語にしたい」と話す。
昭和の時代と変わらず毎年出され続けている夏休みの宿題。今の時代の教育に果たして必要なのだろうか?松田先生に聞いてみた。
——松田先生は「夏休みの宿題」についてどう思いますか。
自由工作や読書感想文や日記などの「夏休みの宿題」が果たして現代において「意味があるのか」と考えないといけない時に来ていると思います。
学校側には、夏休みは長期休業中だから「生徒に何かをやらせないと...」という認識が根底にあります。保護者からも「課題がないとうちの子は勉強しない」と、宿題を出してほしいという要望が出る。長い休みの間、子供が家にずっといたら保護者も持て余しちゃうわけです。
仮に夏休みに読書感想文の宿題を出さなかったら、抗議を受けるかもしれません。そうすると、「形だけでも宿題をだしておこう...」と考える先生もでてくる。
——松田先生の学校では宿題はないのですか。
うちの学校でも宿題は出していますね。9月になると保護者が集まる機会があり、学校内に展示された自由研究の作品などを見ると「素敵ねぇ」とか話されています。保護者としても、自分たちが受けた教育と同じことが再現されているから「良かった」と思うのだと思います。
結局、教員もいままでやってきた、日本が敗戦から復興して高度経済成長で大きく発展してきた時に実行されていた教育と同じパターンを繰り返していますよね。それをやれば、文句を言われない。
逆に、それをやめてしまうと文句を言われてしまうようだったら、「黙ってやっておこう」と思ってしまうでしょう。そのほうが楽ですからね。
「夏休みの宿題は最後に駆け込みでやる」というのも、日本の文化になってしまっている。でも、笑っている場合じゃないですよね。このままで良いのか真剣に考えないといけない。
——夏休み中に民間のキャンプ(体験型の課外教室)に参加したり、家族と旅行や遊びを楽しんだりする子どもたちもいますよね。
夏休みって「休み」なわけですから、その過ごし方って基本的には家庭の問題ですよね。もちろん、子供への教育に高い意識を持っている家庭や世帯収入が高い家庭であれば、民間の科学実験教室やキャンプ教室だとかに子供を参加させることができるでしょう。
ただ、そうではない家庭も増えてきている。共働きの世帯も当たり前になっている時代です。
——「夏休みの宿題」を問い直すためには、ライフスタイルの変化もきちんと把握する必要がありますね。
多様な家庭環境に対応するために、もっと自由に過ごせるようになったほうが良いと思います。一方で、せっかくの「夏休み」という長期休暇が、「自分にとってどんな意味があったのか」を振り返ってもらう機会はあったほうが良いかなとは思います。
もちろん「俺、なにもできなかったよ」でも良いと思います。私自身がそうでしたから(笑)。そもそも、夏休みの最初から最後までちゃんと計画を立てて、そのとおりに過ごすなんて、なかなかできないですよね。
——どのような夏休みの過ごし方が理想なのでしょうか。
休みを生かしたいのであれば普段は体験できないようなことをしてほしい。例えば「夜、保護者の人と山手線に乗って一周してきみたら」などと呼びかけたいです。そうすれば、東京は外国人の人が身近にいる国際都市だって感じることができるでしょう。
コリアンタウンのある新大久保とか、米空軍の基地である横田基地の周りとか、外国の人が多い群馬県太田市とかでもいいですよ。代々木上原には東京ジャーミーというイスラムのモスクがある。そういうところで異文化を肌で感じるのは絶対に良い経験になる。それは絶対に役に立つ。
いまの子供達は将来、いろいろな国や宗教の人と交わる時代になる。多様性の時代を生きることになります。国、言葉、文化、宗教が違う人達が日本にはたくさんいる。せっかくだから、長い休みのどこかで、お家の人と一緒に異文化に触れ合うのは良いと思います。
あとは裁判所での裁判傍聴。これもおすすめです。被告人がいて、裁判官が出てきて、形に決まった判決文を読む。そういうのを実際に見ることもいいと思います。税金がこういうところにも使われていると自覚することもできますよ。
――せっかくなら、普段の学校生活では見ることはない現実の社会を見る機会にしたほうが良い、と。
「宿題」というよりは「体験」ですよね。自分の目で見て体験して考えられることっていっぱいある。形式的な上辺の知識ではなく、本当の人の生きざまにいっぱい触れてほしい。
良いも悪いも含めて、多様性にいっぱいふれてほしい。東京地裁はタダだし、山手線を回るのだって電車代だけ。保護者が少し意識するだけで学べる機会は十分あると思います。
夏休みになると、いろいろな団体が子供を集めてキャンプをやったりしますよね。でも、基本的にはあんまり「いいな」とは思わない。というのも、きれいに整いすぎて、予定調和の成功体験しかない。成功するものが決まったものが用意されているだけですから。
――体験の大切さは分かりますが、基礎的な知識が必要になる部分はあります。根本的な読み書きする能力は長い休みの間にじっくりする取り組む必要がありますか?
たしかに、基本的に読み書きする力というのは必要になります。新聞の一面のコラムを全部写すのは良いですね。習っていない漢字でもいいから、縦書きで一行空けながら大学ノートに書き写す。
iPadを見ながら書き写すでも良い。あれは一番学びになりますよ。一文が短くて、意味がはっきりしているし、文章のリズムを学べる。自分の興味があることがあれば書き写すでも良いんです。
基礎的な読み書きができれば、自分の好きなことをどんどん学ぶ助けになりますよ。こうやってひとつひとつの意味を考えて、何が必要か、何に意味があるのかを、考えて宿題や教育について考えないといけないです。
そもそも夏休みに限らず、「宿題」という概念そのものがいらないですよね。
——え!宿題がいらないんですか?
「家で学ぶ」ということを否定しているわけではありません。子供達にとって学校が学ぶ場になって、子供たちが興味関心を持てば家庭でも学ぶ。別に宿題という概念ではなくて良いと思います。
宿題って、「学校での学習じゃ足りないから、足りない部分は自分でやっておけ」と、学習不足を補うためのものですよね。そうすると子供達も「やらされている」という感覚がどうしても強くなってします。
「自分が将来こうなりたい」「自分が興味や関心ある分野をもっと追求したい」ということを家でしっかりできるような学びのあり方を、子供達と一緒に作っていきたい。
いま、学校の学びが信用されていない。意識ある親であれば、子供を塾に通わせます。小学校から中学校への受験で、学校の先生に進路指導の相談なんてしないですよね。みんな塾で相談していますよ。学校が保護者から信用されていないという現状があります。
学校の学びと、家庭の学び、塾の学びと分かれてしまっている。情報端末があれば、お互いが生徒の情報を共有し、そこがスムーズになります。
——タブレット端末など最新の機器を使うICT教育は進めたほうがいいのでしょうか?
絶対にICTを進めたほうが良いです。時代が変わったのですから。工業化社会や高度成長期だったら、かつてのような官僚やサラリーマンを養成するため、ある程度の事務処理や機械のオペレーションをする知識・理解を子どもたちに伝達する必要があった。
だけど、これからの情報化社会ではそうはいかない。AIとの共生時代が今後どうなるか、わからないですよね。そういう時代を、いまの子供たちは生きていかなければならない。
そういう時代に、彼らはどうやってご飯を食べていけばよいのか。どうやって自己実現をすればよいのか。正解はないですよね。だからこそ、情報化社会に対して主体的に生きるための力を育ててあげたいです。そういう力を育てるための教育にシフトしないといけない。
日本は、まだ「昭和の教育」にとらわれているんでしょう。極端に言えば、「ググればわかる(Googleで検索すれば分かる)」ことを先生が学校で教える必要はないのかもしれません。当校は1人1台、ChromeブックやiPadを持たせています。私も質問によっては「ググると良いよ」と、検索の仕方とあわせて教えています。
検索の仕方はきちんと教えるべきです。子供達をよく見ると「キーワード検索」しかしていない。だから少なくとも小学校のうちに「and検索」や「or検索」をはじめ、精緻に検索できる方法を学ばせたいですよね。
検索して出てきた情報をどう判断するかも大切ですね。インターネット上には有益無益な情報が沢山ある。その中から「どれが自分に必要な情報か」「その情報は真実なのか」を探っていく力をつけさせたいですね。
——なるほど。
気になることもあります。8月29日に発表された「全国学力調査」では、秋田や石川など、東北・北陸は高い成績を残している。昔ながらの教育システムが機能し、学力的に良い結果を残していますよね。
一方で、文科省の資料「タブレット端末の導入・拡張等に取り組んでいる自治体(平成27年4月15日)」を見ると、学力が高い秋田や石川など東北、北陸ではICTの整備状況があまり進んでいない。逆に、学力が低いとされる大阪や沖縄などは、変革が必要だと考え、ICTの導入に意欲的です。
従来の教育システムで結果が出ているところでは、「ICTは必要ない」と思われているのかもしれません。
こんなデータもあります。文科省は平成25年10月〜平成26年1月にかけて全国の小5&中3、それぞれ約3,000人を対象に「情報活用能力調査」というものを実施しました。
これによると、小学生は「情報を整理し,解釈することや受け手の状況に応じて情報発信すること」に課題があると指摘されています。しかも、小学生が5分間にタイピングできるのは「全角換算5.9文字」という結果が出ています。
——プログラミング教育が日本に浸透するまで時間がかかりそうですね。
プログラミングって、教科指導をやってきた多くの教員には「どうでもいい」と思われている人もいると思います。プログラミングは「教科」ではなく、あくまで傍流ですから。
今もやっぱり国語・算数・理科・社会の通常教科が重んじられている。授業改善も、これまでの教科教育の枠の中で「より良いものにしよう」と頑張って考えている。
素敵な校長先生、人格者の校長先生はたくさんいらっしゃいます。でも彼らのマインドは100のものを100にする、100のものを110にする、もうちょっとがんばると10を100にしようとそれぞれ頑張っている先生はいらっしゃる。
でも私みたいに0を1にしようとする馬鹿な校長はいないですよね(笑)。これまでの教員は、今までのフレームを丁寧になぞって、いわゆる「良い授業」というものを再現できることが、自分たちのアイデンティティだった。でも、それじゃあ教育は変わらない。
保護者も、結局自分が受けてきた教育を基準に学校教育を評価する。ちょっと変わったことをやると...ね。学校でプログラミングをやると「そんなものは必要はない」という批判も出てきます。親の理解も必要です。「夏休みの宿題」をなくすハードルもそういうところにあります。
端末でプログラミングを子どもにやってもらって、簡単なコードを書かせてブロックを動かすとかですよ。それなら90分集中するんですよ。普段の授業ならノートを他人に見られたくないとか思う子が多いけど、端末を使いあると「おまえのプログラミングすげえじゃん」と互いにリスペクトが生まれる。
――マインクラフトを授業にとり入れていると聞きました。なぜ?
マイクラは「知恵の結晶」ですよ。マイクラの世界は、自分で工夫し、知恵を絞らないと生きていけない。地中を掘って、道具を作って、住むところを作って...。まさに「生きる」ということのシミュレーションですよね。
情報端末を扱えば、個人情報の問題、LINEに代表されるいじめの問題、サイバー攻撃の話もある。ネットで得た知識の真贋を見抜く力の話も関わってくる。でも、それって教科教育では教えられない。でも必要な知識です。そこは学校側が入っていかないと教えてあげられない。
こういう取り組みが続いていけば、やがて学校は「勉強」する場ではなく「学び」の場になると思います。
――なるほど、「勉強」ではなく「学び」ですか。
自己実現を目指すために、自分がそういう時代を理解しなければ何もできない。社会の形成者になるには市民としての責任を果たす タックスペイヤー(納税者)としての自覚を持たなければいけない。そのためには絶対に必要なことだと思います。
いま10歳の小学校4年生は、20年後には30歳になる。彼らが社会の中心になる頃、いったいどんな世の中になっているだろう。学校は、彼らが社会に出た時に必要な力を身につけてあげる場ですから、そういう時代認識を持たないといけない。
教育基本法の前文には「個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する」と書かれている。私たちはその精神の意味をきちんと考え直す時期に来ているのだと思います。