ランドセルが紙で作られた時代があった。戦中戦後の一時期、軍需品優先で民間の革使用が制限されたり、物不足が深刻になったりしたのが原因だった。紙のランドセルは雨に弱く、壊れやすかった。丈夫でデザインも洗練された今のランドセルとは品質において比べようもないが、初めて背負ったときの子どもたちの感激は今と変わらない。8月15日は「終戦の日」。ランドセルの記憶から平和や戦争の悲惨さを考える。
■「紙」を背負った記憶
「私のランドセルはこんな感じでした。意外とおしゃれでしょ。でもね、素材は紙だったの」。岡山県早島町に住む光畑香苗さん(80歳)はそう言って、自身のランドセルを描いた1枚の画用紙を見せてくれた。
自らのランドセルの絵を持つ光畑香苗さん=岡山県早島町
ふたの部分には大きな花の模様が描かれており、ふちは赤。ランドセルの絵は8年前、地元の小学校で戦時中の暮らしについて語る機会があり、その説明資料として描いた。ランドセルが紙でできていることを明かすと、児童らは大変驚いたという。
光畑さんは岡山県北部にある香々美南村(現鏡野町)の出身で、1943(昭和18)年に国民学校に入学した。
初めてランドセルを手にしたときのことをよく覚えているという。入学式直前、朝目覚めると枕元にランドセルが置いてあった。母親が約10キロ離れた岡山県津山市まで自転車をこぎ、書店で買ってきた。「紙だったけど、ランドセルが背負えるだけでとれもうれしかった」と光畑さんは振り返る。
ランドセルは厚紙でできていて、触るとザラザラしていたという。梅雨など雨に当たった部分は段々とふやけてきて、1年生の終わり頃には破れて使えなくなった。光畑さんは「母親がやっとの思いで買ってきてくれたランドセルが壊れてしまってとても悲しかった」と話す。
最近のランドセルは伝統的な黒と赤だけでなく、紫やピンク、茶など何種類もの色がある。素材も軽くて丈夫になるなど、「ハイテク」化が進む。光畑さんは時代が豊かになることを歓迎しつつも、「日本が戦争によって苦しんでいたあの時代をどうか忘れないでほしい」と話した。
■軍需優先が原因
ランドセルはいつごろから紙製になったのか。ランドセルの歴史について調べた人が大阪にいる。スクールバッグの製造・販売を手がける「アトナ商会」(大阪府松原市)の代表、風間厚徳(あつのり)さん(40歳)だ。
風間さんが調べたところ、そもそもランドセルの歴史は、1885(明治18)年に学習院初等科で使われていたとろまでは記録でさかのぼることができるという。翌年には学習院だけでなく、ほかの学校にも広まったらしい。
当初から値段によって、牛革、豚革、毛皮、ズック(帆布)などの素材があったが、1938(昭和13)年に国家総動員法が成立すると、軍需品の生産が優先され、民生品の革使用は制限。ランドセルも革製は姿を消し、代わって紙や竹で作られるようになった。
紙のランドセルは戦後もしばらくは地方を中心に残ったという。「戦中に作られたものが在庫として大量に残り、それが出回っていたのでは」と風間さんは言う。
風間さんが紙のランドセルの実物を持っているというので見せてもらった。10年ほど前、インターネットオークションで落札、購入したという。
風間さんが所有する紙のランドセル
大きさは縦約25センチ、横約20センチ、厚み約10センチ。紙同士をビスでとめてあり、ふたの根本には金属のちょうつがいが取り付けられ、開閉するようになっている。
金属のちょうつがいでふたが開くようになっている
肩ひもは布製だ
素材の紙はしっかりとプレスしてあり、今のランドセルと比べて薄いが想像以上に丈夫そうだ。「紙製と一口に言っても、その品質は様々だったようです」と風間さんは言う。
ひもを止める役割のパーツも紙で作られている
風間さんは「紙でよくここまで作り込んだな、というのが同じ作り手としての印象です。物がないなりに知恵を絞って作る。職人魂のようなものを感じました。ランドセルは特に子どもが使うもの。不便をかけないようにできる限りのことはしようという思いも感じられます」と話した。