ボリショイサーカスの源流は、ロシアに渡った幕末日本の大道芸人たちにあった 脈々と息づく「クールジャパン」

ロシアのサーカス団が技を披露するボリショイサーカスが今年も各地で開かれている。ロシアのサーカスの歴史をたどると、源流はかつて海を渡った日本の大道芸人に行き着く。

ロシアからやってきたサーカス団がレベルの高い曲芸などを披露する「ボリショイサーカス」が、今年も日本各地で公演を続けている。来年60周年を迎える人気イベントは、「赤い呼び屋」と呼ばれた満州帰りの男によって実現した。そして、ロシアのサーカスのルーツをたどれば、明治初期に異国を目指して海を渡った日本の大道芸人たちに行き着く。

20メートル上空。カクテル光線が揺れる中、ブランコに脚でぶら下がった男が、宙返りしながら近づいてくる別の男の脚を両手でキャッチした。その瞬間、会場からは大きな歓声が上がった。

7月20日。東京都渋谷区にある東京体育館でこの日、モスクワの老舗サーカス「ニクーリンサーカス」の芸人らが出演する「ボリショイサーカス」が開かれた。空中ブランコのほか、馬の曲芸乗りや観客も巻き込んだ道化師のユーモラスな芸、熊や犬の演技などが披露された。

「ボリショイ」はロシア語で「大きい」の意味。ニクーリンサーカスを始め、ロシアの様々なサーカス団の芸人たちが来日し、ボリショイサーカスという名前で日本の舞台に立つ。ボリショイサーカスの興行の歴史は古く、1958年にさかのぼる。きっかけは満州帰りの1人の男だった。

■赤い呼び屋

男の名は神彰(じんあきら)。1922年、函館の海産物問屋の四男として生まれた。地元の商業高校を卒業後、1942年に旧満州ハルビンにわたり、東亜旅行(現・日本交通公社)の満州支社に入った。

神彰=大島幹雄提供

戦後の1947年に引き揚げ、職を転々としたが、満州時代の知人らとともに興行会社を設立。1956年、ロシア革命によって祖国を追われた白系ロシア人らからなるドン・コサック合唱団を日本に呼んだ。

その後も、「鉄のカーテン」の向こう側だったソ連・ロシアの芸術に関心を持ち、ボリショイバレエ、レニングラード・フィルの日本招聘(しょうへい)を成功。そして1958年に実現したのがボリショイサーカスだった。

ボリショイサーカスは神らが名付けた。ソ連側の正式名称は「国立ソ連サーカス」といったが、印象的な名前にしようと神らが発案した。

時は冷戦。未知のベールに包まれた大国の芸人たちの技は衝撃の連続だった。ジャグリングやアクロバット、綱渡り、犬のバレエ。そして特に話題になったのはワレンティン・フィラトフによる熊の演目だった。17頭の熊たちが自転車やオートバイに乗ったり、ボクシングや火のついた棒を足で回したりする姿に観客は熱狂した。神が大興行を立て続けに成し遂げたことについて、作家の大宅壮一は「戦後の奇跡」と評した。

ボリショイサーカス初公演時の熊の演目

「赤い呼び屋」。ボリショイサーカス実現後、神はそう呼ばれ、一躍時代の寵児となった。

神の会社はその後も2回、ボリショイサーカスを開催したが、別の興行が振るわないなどしたため、業績が悪化して倒産。だが、神の部下が設立した会社が興行を引き継いでいる。その会社は「ボリショイサーカス」(東京)という。

■ロシア・サーカスの源流は日本にあり

驚きの曲芸を披露するロシアのサーカス団。だが、その歴史をさかのぼれば、日本の大道芸人たちの存在にたどり着く。

幕末から明治初期にかけて、日本の大道芸人たちが異国を目指し、こぞって海を渡った。彼らはアメリカやヨーロッパをめぐり、ロシアも訪問。彼らの曲芸は各地で驚きをもって迎えられた。

「当時の日本の大道芸は世界一のレベルだったと思われます。消費社会が成熟した江戸時代の後期には、見世物小屋がたくさんあり、芸人の技術も磨かれて高度になっていきました。日本の大道芸は、当時の外国にとって『クールジャパン』だったわけです」。そう解説するのは、長年サーカスの歴史について調べてきたサーカス企画制作会社社員で文筆家の大島幹雄(63)=横浜市=だ。

大島幹雄

大島によると、日本の大道芸人たちがロシアにやってきたのは、明治8(1875)年の記録が残っている。当時、ロシア帝国の首都サンクトペテルブルクに駐在していた特命全権公使の榎本武揚が妻に送った手紙に、フランス経由で日本の大道芸人がやってきたことが書かれているという。

時代が下ると、東側からロシア入りする日本の大道芸人も現れる。その代表格が、山田亀吉が座長を務めたヤマダサーカスだった。

大島によると、ヤマダサーカスは日露戦争が終わってから3年後の1908年、ウラジオストクで初めて公演した。当時、日本の敦賀港との間で定期航路があったウラジオストクは日本人が多く暮らしていた。

ヤマダサーカスのメンバーは二十数人。空中アクロバットやジャグリング、寝そべって足で盥(たらい)やほかの出演者らを持ち上げたり回したりする「足芸」などを披露したが、いずれも水準が高く、ロシアの観客のみならず、同じサーカス芸人たちも驚かせたという。

だが、ヤマダサーカスがロシアで有名になったのは芸のレベルが高かっただけではない。あるセンセーショナルな見世物があったからだ。

「ハラキリショー」。座長の山田が、別の出演者である男の子を刀で何度も刺す。血まみれになった男の子はシーツに包まれ、舞台から運び出されるというショーだ。もちろん、本当に刺しているわけではなく、刀から血に似た塗料が噴き出す細工を施すなどしているのだが、あまりにリアルなため、警察が上演を禁ずることもあったという。

ヤマダサーカスに参加した日本の大道芸人たちの消息について、大島は日本やロシアの各地を回って調べ上げた。特に思い入れがあるのは、イシヤマ、タカシマ、シマダの3人。ソ連崩壊直前の1988年、元道化師のロシア人から3人の写真を託されたのがきっかけだ。

1914年に第1次世界大戦が始まると、ヤマダサーカスの団員たちは日本に帰国するが、3人はロシアに残る道を選んだ。

イシヤマはロシア人の女性と結婚し、男の子をもうけた。養護施設からアジア系の女の子を養子として引き取り、親子4人で足芸のグループを結成。ソ連各地を巡業したという。

イシヤマ一家。左からイシヤマ、ロシア人の妻、息子、養女=大島幹雄提供

この女の子が生んだ子ども、すなわちイシヤマの孫にあたるゲオルギー・イシヤマは1989年、ボリショイサーカスのメンバーとして来日し、ジャグリングを披露。世代をまたいでの「凱旋公演」となった。

タカシマは口にくわえたバチの上で鞠を操るなどの卓越したジャグラーで、ロシア人の芸人のみならず、巡業でロシアにやってきたイタリア人の天才ジャグラー、エンリコ・ラステリにも影響を与えたという。

シマダ。くわえたバチの上で鞠を巧みに動かすジャグリングを得意としていたという=大島幹雄提供

シマダはアクロバット、ジャグリング、バランスなどマルチにこなす芸人だったが、彼が実は朝鮮人だったことを大島は突き止める。本名はパン・トシだったが、ヤマダサーカスに加わった際、日本人の名前にするよう勧められ、芸名代わりにシマダを名乗ったという。

シマダ一家によるバランス技

シマダは1941年、スパイ容疑で逮捕されるが、息子たちは彼の芸人魂を引き継ぎ、「究極のバランス」と呼ばれる大技を完成させた。

2本のワイヤーに置かれた台の上で芸人が腹ばいになり、額にパーチ(長竿)を載せてその上で別の芸人が倒立、垂直に上げた両脚を3人目の芸人がつかんで倒立するという技で、ロシアサーカスでも幻の芸とされている。

シマダ一家による「究極のバランス」=大島幹雄提供

シマダ一家によるバランス技=大島幹雄提供

シマダ一家によるバランス技=大島幹雄提供

3人以外にもロシアに残った日本の芸人たちは複数いたという。大島は言う。「彼らがロシアのサーカス発展に影響を与えたのは間違いない」。(敬称略)

ボリショイサーカスの東京公演で、終わりの挨拶をするメンバー=7月20日、東京体育館

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