東京オリンピック・パラリンピックを3年後に控え、教育現場でも「オリンピック教育」「パラリンピック教育」なるものが行われている。オリンピアンやパラリンピアンが学校を訪れるケースもあるが、多くの学校では「何をしたらいいのかわからない」と戸惑っているのが現状だ。
では、2012年にオリンピック・パラリンピックを開催したロンドンでは、どのような状況だったのだろう。ロンドン市内ハックニー区の契約職員として、長年にわたって障害者スポーツの普及に取り組んできたアラン・ウォルシュ氏と同区にある特別支援学校のケビン・マクドネル校長に、パラリンピック教育についてお話をお伺いした。
パラリンピックに関する分科会、参加者はゼロだった
——今日はよろしくお願いします。ウォルシュさんは、どういう経緯で障害者スポーツと関わるようになったのですか?
ウォルシュ氏:もともと私はホームレス支援の活動を20年間続けていたんです。その後、ハックニー区でスポーツに関わる仕事をしていたのですが、2012年にオリンピック・パラリンピックが開催されることが決まり、いま取り組んでいる障害者スポーツを推進する仕事をすることとなりました。
——まずは、どんなことから始めたのですか?
ウォルシュ氏:2007年にハックニー区でオリンピック・パラリンピックを迎えるにあたって教育者たちの会議が開かれたんです。200人くらいが参加しました。そこで、私は同僚と二人でパラリンピックに関する分科会を開いたんです。そうしたら、誰も来てくれなかった。参加者はゼロだったんですよ。
——ロンドンパラリンピックは史上最も成功した大会と言われていますが、開催前の人々の意識はその程度だったのですね。
ウォルシュ氏:最初はパラリンピアンを招いて学校で話をしてもらったり、子どもたちにその競技を体験してもらったりということをしていました。もちろん、彼らの話に子どもたちは感銘を受けますし、とても思い出に残る経験にもなると思うのです。ただし、“パラリンピック教育”として、それで十分なのかなと。
障害者と健常者がチームメイトとして一緒に優勝を目指す
——まさに、いま日本の教育現場が抱いている葛藤がそれだと思います。
ウォルシュ氏:そこで、私は障害のある子どもたちと健常者である子どもたちが一緒になって障害者スポーツに挑戦するイベントを計画しました。どんな状況でも力を発揮しなければならないという状況は、障害者にとってだけでなく、健常者にとってもプラスの影響を与えると思ったのです。
——日本でも学校ごとに体験することはありますが、障害のある子どもとない子どもが「一緒になって」というのは、あまり聞いたことがありません。
ウォルシュ氏:それだけではありません。私たちは、どのチームにも障害のある子どもとない子どもが混在するように設定しました。つまり、“チームメイトとして”その大会におけるチャンピオンを目指すような仕組みにしたのです。
——ただ障害者スポーツに挑戦するだけでなく、大会形式にしたのですね?
ウォルシュ氏:本当は子どもたちにそのスポーツに親しみ、楽しんでもらうことが目的ですから勝負などは二の次なんです。しかし、多くの学校や子どもたちに興味を持ってもらうのには、“大会”とするほうがいいと判断したんです。ただし、私からは『順位をつけなさい』としか指示をしていないので、どのように勝敗を決めるのか、どのように順位を決めるのかについては、各競技で話し合って決めてもらっていました。
——障害者と健常者がチームメイトとして一緒に優勝を目指す。理想的ではありますが、子どもたちに戸惑いはありませんでしたか?
マクドネル校長:もちろん、戸惑いはあります。しかし、たがいに初めてのスポーツに直面しているわけですし、そこにチャレンジしていくことで、相手が『何ができて、何ができないのか』ということを理解していきます。何より、チームメイトとして協力することで、仲間意識が芽生えていくんですね。
——日本でも特別支援学校の子どもが通常学級で交流することはありますが、どうしても“お客さん”で終わってしまうことが多い。この取り組みは、そうしたジレンマを打破してくれる可能性を秘めていますね。
マクドネル校長:その通りです。彼らが正面から向き合うと、『この違いは何だろう?』と不思議に思うことがありますが、となりに並んで同じ方向を向いていれば、ひとつのことに対して一緒に取り組むことができるようになるのです。
「参加したい」の声に、1日のイベントを急遽3日間に延長
——実際に学校へ参加を呼びかけたときの反応はどうだったのでしょう?
ウォルシュ氏:はじめは15校ほどが参加してくれればという思いでいたのですが、ハックニー区にあるすべての学校に案内を送ったところ、なんと2〜3時間のうちに37校から『参加したい』という連絡があったのです。それで、急遽、1日で行うはずだったイベントを3日間に延ばしたほどです。
——翌年以降は、さらにその輪が広がったのだとか。
ウォルシュ氏:数年後にはすべての学校が参加してくれるようになり、3000人規模の大会となりました。競技に参加してくれる子どもたちに加えて、町の人々がボランティアでスタッフを務めてくれるようになったり、ハックニーだけでなく他の地域からも人々が観戦に来てくれるようになったりと、それはうれしい驚きでした。
——3000人とは、ずいぶんと大規模な大会になったのですね。
ウォルシュ氏:子どもたちには、できるだけオリンピックやパラリンピックに近い環境を味わってもらいたいと思い、朝には全参加者にハックニーのスポーツセンターに集まってもらい、開会式を行いました。そして、全11種目が行われるのですが、そのうち5〜6種目は引き続きスポーツセンターで、その他の種目は近隣の学校などの施設を使って行いました。
車椅子バスケに取り組む特別支援学校の生徒たち。彼らは発達障害などのため普段は車椅子を使わずに生活している
優秀なコーチやパラリンピアンも練習に参加
——主にどんなスポーツに取り組んだのでしょう?
ウォルシュ氏:はじめは、(パラリンピック競技の)ボッチャとゴールボールのふたつです。ボッチャは首から上だけでも動けばチャレンジできますから、多くの人が参加しやすいスポーツですよね。ゴールボールも目隠しをするだけですべての人が同じ条件になれるので、やはり初めて障害者スポーツにチャレンジするには適した競技だと思います。
——いくら「参加しやすい競技」といえども、初めて取り組むにあたっては、どうしても指導者が必要になってくると思います。
ウォルシュ氏:私たちもそこは重視していましたので、とても優秀なコーチにお願いしました。初年度はきちんと対価を払って指導をお願いしていたのですが、翌年以降はありがたいことにボランティアや安価で引き受けてくださるようになったんです。
——理念に共感してくださったのですね。
ウォルシュ氏:もちろん、そうした側面もあったかと思いますが、指導者のみなさんを含め、多くの人々がこのイベントに関わることで、なんらかの楽しさや喜びを感じてくださっていたのだと思います。
——というと?
ウォルシュ氏:大会にはパラリンピアンも参加してくれていました。はじめのうちはランチタイムに来てスピーチをするだけだったのですが、子どもたちが彼らの話にとても心を打たれ、『次にお会いすることがあれば、お話がしたい、サインが欲しい』と言うのです。そのことをお伝えしたところ、翌年からは朝の練習から参加してくださり、合間に子どもたちと言葉を交わし、サインをしてくださるようになったのです。
——「協力しよう」から「みずから参加したい」と思えるイベントへと成長していったのですね。
マクドネル校長:さらにはエキシビションとして、実際にその競技に取り組んでいる選手と教師に対戦してもらったりするんです。たとえば柔道や車椅子バスケなどですが、当然、教師たちが負けたりするんですね。子どもたちは先生たちが負けるところを目の当たりにして大盛り上がりですよ。『障害者でも、僕たちの先生より強いんだ!』とね。
パラリンピック後の教育のために必要なこと
——他にこうしたイベント以外で、パラリンピックや障害者スポーツを学ぶための取り組みはありますか?
ウォルシュ氏:さまざまな教科を通じてパラリンピック教育を行うことができるようなカリキュラムを作成しました。たとえば、文学を通じて障害者スポーツが描かれた作品を味わったり、パラリンピックがどういう経緯で誕生したのかを歴史的観点から学んだり。すべてのカリキュラムは公開されていて、どの学校でもそのカリキュラムを通じて子どもたちが学べるような仕組みになっています。
——ここまでお話を伺っていると、すべてがうまく進んでいるように思えてしまうのですが、何か課題を挙げるとすれば?
ウォルシュ氏:やっぱり予算ですね。オリンピック・パラリンピックが開催された翌年から、これまでのように予算が組まれなくなってしまったのです。そのおかげで、これまで大切に育て、継続してきたものができなくなってしまいました。
——えっ……では先ほどからお話くださっていたイベントは、現在では行われていないんですか?
ウォルシュ氏:いまでも2〜3の競技に絞り、小規模に開催することなどはありますが、予算が組まれなかったことで、もうあのような大会を開くことはできなくなってしまいました。
——それは仕方がないことだと受け止めていますか。それとも……。
ウォルシュ氏:本当に腹立たしい。許せないことですよ。
——しかし、それは残念ながら、東京でも十分に起こりうる事態だと思います。ロンドンの二の舞にならないため、私たちが手を打っておくべきことは何でしょうか?
マクドネル校長:その意義を伝えていく、ということです。この取り組みにはどれほどの価値があり、存続させなければいけないものであるかを政府や自治体に伝えていくことが重要です。
ウォルシュ氏:その意味でひとつ後悔していることがあるんです。それは大学と連携できなかったこと。これらの取り組みを研究対象としてもらい、この取り組みによって子どもたちにどんな変化が生じたのかというデータが残っていれば、『だから予算を組んででも存続すべきだ』と主張する上での重要なエビデンスになったはずなんです。
——それは貴重なご提言です。
ウォルシュ氏:もうひとつ重要なことは、政治や行政の側に、障害当事者が存在しているかという点です。これは、障害者スポーツだけでなく、さまざまな政策がどう実行されていくのかにおいて、とても重要なポイントです。
マクドネル校長:私も同感です。実はハックニーの内部にも障害当事者がいたことで、本来ならもっと早いタイミングで予算が削減されてしまうところだったのが、そのタイミングを少し遅らせることでソフトランディング(軟着陸)することができたのです。
パラリンピック出場を夢見る子どもたち
——なるほど。ウォルシュさんのように中心となって動く人、マクドネル校長のように教育現場から推進する人に加えて、政治や行政の立場からバックアップしていく人の存在も欠かせないのですね。
ウォルシュ氏:その通りです。
——最後の質問です。これまで「オリンピック選手になりたい」という子どもたちはいても、「パラリンピック選手になりたい」という子どもを見かけることはありませんでした。パラリンピック教育を通じ、パラリンピック選手を目指す子どもたちは現れたのでしょうか?
ウォルシュ氏:ええ、出てきました。2012年のロンドン大会でパラリンピアンたちの活躍を目にし、そのパラリンピアンたちが学校に訪れてくれるようになり、そして自分たちでも障害者スポーツにチャレンジするようになりました。こうした状況によって、いまではスポーツに打ち込み、将来はパラリンピックに出場することを夢見ている子どもたちも見受けられるようになりました。これは本当に大きな、そしてうれしい変化ですね。
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障害者と健常者が共にスポーツに取り組み、チームメイトとして勝利を目指す。こうした経験が、両者の間に横たわる溝を埋め、相互理解を生み出していく。ハックニー区が行ってきたパラリンピック教育は非常に有意義なものであるように思うが、しかし、ロンドン大会から5年が経過した現在では、予算削減に苦しみ、継続が難しい状況となっている。
東京で進めていくパラリンピック教育とは、どんな内容であるべきなのか。さらに、開幕までの取り組みを閉幕後もレガシーとして残していくためには、どんな手立てが必要なのか。先例から学ぶべきことは多くある。
(取材・文 乙武洋匡)
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