中国の民主化運動の象徴的存在で、服役中にノーベル平和賞を受賞した人権活動家の劉暁波(リウシアオポー)氏が7月13日、入院先の遼寧省・瀋陽の病院で死去した。61歳だった。BBCなどが伝えた。
入院先の遼寧省瀋陽市中国医科大学付属第一病院と遼寧省監獄管理局によると、劉氏は今年5月末、服役していた刑務所で腹部に異常が見つかり、精密検査の結果、肝臓がんと判明。6月に同病院に入院した。がんは末期で手術できず、病状は悪化。13日午後5時35分に死去した。
劉氏はドイツかアメリカでの治療を望んでいたが、中国当局が認めず、希望はかなわなかった。
「獄中の人権活動家」劉暁波氏の足跡
劉暁波氏と、妻の劉霞氏
劉暁波氏は1955年12月、吉林省・長春の出身。10代の頃は文化大革命の影響を受けて、家族とともに辺境の農村で過ごした。
1982年に吉林大学文学部を卒業後、北京師範大学で文学修士号と文学博士号を取得。その後、ノルウェーやアメリカなどの大学から客員研究員として迎えられた。
劉氏は1988年7~9月ごろの約3カ月間、ノルウェーのオスロに滞在。オスロ大学の現代中国文学や芸術の講座に招かれ、10回ほど講義をしたという。当時、劉氏の世話をした亡命中国人作家の陳邁平(チェンマイピン)氏は朝日新聞(2010年12月6日朝刊)の取材に対し、劉氏が「文学は共産党の独裁に対抗するための道具でなければいけない」と語ったと証言している。
コロンビア大学の客員研究員だった1989年、北京・天安門広場で学生らの民主化運動が起こると、劉氏も帰国し運動に参加。ハンガーストライキを指揮した。
中国・北京の天安門広場を埋め尽くした中国の民主化要求の大衆集会(1989年6月2日撮影)
同年6月、人民解放軍が武力介入し学生らを弾圧した「天安門事件」では、学生に武器を放棄させる一方、友人の周舵・侯徳健・高新とともに、残った学生が安全に撤退できるよう軍と交渉。犠牲者の拡大を防いだ。事件後は「四君子」の一人として注目されたが、大衆を扇動した反乱者として拘束。「反革命罪」で1年7カ月投獄された。
天安門事件後、民主化を訴えた活動家の多くが亡命したが、劉氏は国内にとどまった。以降、劉氏は中国当局に動向を監視され、活動も制限されたが、繰り返し拘束されながらも政府や共産党批判を続けた。また、天安門事件の犠牲者の名誉回復を目指した。
北京オリンピックがあった2008年、劉氏は「世界人権宣言」 60周年に合わせ、インターネット上で中国の民主化を呼びかける「08憲章」を発表。中国共産党の一党独裁の放棄や言論の自由などを訴えた。多くの署名が集まったが、2009年に「国家政権転覆扇動罪」で懲役 11年の判決を受けた。
2010年、劉氏は「中国での基本的人権の確立のため長年にわたり非暴力の闘いを続けてきた」という理由でノーベル平和賞を授賞。だが当時は獄中にあったため、授賞式には出席できなかった。妻の劉霞(リウシア)さんも中国当局によって自宅に軟禁され、代理出席は叶わなかった。
授賞が決まった直後、劉氏は劉霞さんに「(ノーベル平和賞は)天安門事件で犠牲になった人々の魂に贈られたものだ」と、涙を流しながら語ったという。
2017年5月末、服役していた刑務所で腹部に異常が見つかった。中国当局は6月、劉氏が末期の肝臓がんであることを公表した。
劉氏はドイツかアメリカでの治療を希望。7月8日に診察したドイツとアメリカの医師は「安全な移送は可能」としていたが、中国当局が出国を認めず、劉氏の望みは叶わなかった。
1926年に創設されたノーベル平和賞の歴史のうち、当局によって拘束され授賞式に参加できなかったのは、これまでに4人。劉暁波氏の以外には、ナチス・ドイツに反抗したジャーナリストのカール・オシエツキー氏(1935)、旧ソ連の反体制科学者だったアンドレイ・サハロフ氏(1975)、ポーランドの旧自主管理労組「連帯」の議長だったレフ・ワレサ氏(1983)、ミャンマーの民主化指導者で現在は国家顧問のアウン・サン・スー・チー氏(1991)が含まれる。
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