「ひとりが好き」なのに。ひとりで過ごすのに、時に罪悪感を感じてしまうのは、一体なぜなんだろう?
朝井麻由美さんは、著作『「ぼっち」の歩き方 魅惑のデートスポット編』(PHP研究所)で、貸し切りリムジンで「ひとり誕生日パーティー」を決行した時に、こんな答えにたどり着いた。
誕生日やクリスマスをひとりで過ごすのが"悪"とされるのは、お祝いごとの日に誰も祝ってくれる人がいない、だから自分は人気がない、人に承認されていない存在だ、と思う気持ちが根底にあるからだ。
逆にいえば、自分で自分を承認できてさえいれば、ひとりで過ごす=悪、という発想にはならないのだろう。(中略)自分のことを認められた分だけ、ひとりで行ける場所も増えるのではないだろうか。
『「ぼっち」の歩き方 魅惑のデートスポット編』(PHP研究所)より
「#だからひとりが好き」と言えることと、自分を承認することの関係。朝井さんはどんな風に考えているのだろうか?詳しく聞いた。
『「ぼっち」の歩き方』より、貸し切りリムジンで誕生日を祝う朝井麻由美さん。
なぜ誕生日やクリスマスにひとりで過ごすのが"悪"なのか?
——「ひとり誕生日パーティー」がなぜ"悪"なのか、つきつめた回が印象深いです。
結局、誕生日やクリスマスがひとりで寂しいと思うのは、なぜなのか。それは「ひとり」でいることを悪だと思っている自分がいて、しかもイベントごとで、誰かが一緒にいてくれることを期待してしまっているからなんだな、と思いました。
でも、そもそも、期待をしなければ寂しくはならないし、おいしいケーキを買ってきたら別に2人だろうと100人だろうと、ひとりだろうとケーキの味は変わらない。「みんなで食べるとおいしいよ」っていうのは、私は、気のせいだと思うので。
それこそ、みんなで食べると、コミュニケーションのほうに気を取られてしまって、あまりケーキの味がしない、ということもあると思います。脳みそを目の前の食べ物だけじゃなくて、喋ることに対しても割かなければならないから。
「ひとりが好き」は余裕の発言?
——私たちが「#だからひとりが好き」という企画を考えた時に、「そういう言い方は傲慢に聞こえるんじゃないか」という反応もあったんです。「ひとりになりたい」って言えるのは、悪い意味で孤独・孤立しているわけではない、という余裕があるからではないか、と。
ひとりで寂しいって思っている人は「ひとりが好き」とは言えない人、そもそもひとりが向いてる人ではないのかもしれない。その人が今いる場所は、自分の本来の居場所じゃないのではないでしょうか。
だから、それって、ひとりが好きなのに集団行動を強いられていた、学生時代の私のような苦しさの逆のパターン、なのかもしれないですね。
ひとりが寂しくて嫌だ、自分は孤立している・孤独だって思う人は、意図しない場所にいてしまっているという状態で、それがその人に合わない、という話なんじゃないかな。
だから、孤立・孤独を感じて辛い人にとっては、むしろ学校のような何らかの組織が必要なのかもしれないですね。そうしたら、集団行動ができるから。逆に、学校という単位がなくなって、社会に出てばらばらになって、孤独になってしまった人というのも、いるのかもしれない。
——それぞれの人によって、居心地がいい場所がそれぞれ違うということですね。
やっぱり人の性質はそれぞれ違うと思っていて、海の生き物か、陸の生き物か、みたいな感じです。水の中で生きる生き物なのに、陸で生かされていたら、それは苦しいだろうし。
でもそこに優劣はないと思います。優劣の問題じゃなくて、多分、ひとりでいることに向き不向きがあるだけ。
時々、私にも「『ぼっち』っていうけど、別に結局ひとりじゃないじゃん。本当の孤独の人じゃないじゃん」みたいな意見が来ることもありますよ。確かに、孤独ではないと思うんですよ、私は。
——孤独と「ひとり」の違いとは何でしょうか?
それは、自分を承認することができているかどうかの違いかなと思ったんです。
私はひとりが好きだから、孤独じゃなくて、ただひとりなだけ。ひとりが好きな自分を承認できているということだと思います。
『「ぼっち」の歩き方』に掲載された、ひとり二役で節分に「ひとり豆まき」をする朝井麻由美さん。撮影もセルフタイマーで。
——朝井さんの過去で言うと、自分を承認できたのは、初めての「ひとりラーメン」を達成した瞬間なのでしょうか。
最初は本当にそんな気がします。言ってみれば、ロールモデルを見つけたということですよね、大学に入って。私は運良く、ひとりでもいいと思える経験ができた。
でも、今って「ひとりでもいい」って承認される経験ができる機会には、結構、恵まれている社会になりつつあるんじゃないかなって思います。
それこそ、「おひとりさま」ブームだったり、コンテンツとかもたくさん出てきて、羽ばたきやすい。「ひとり」っていう選択肢をとりやすい時代だと思います。
SNSに持ち込まれるスクールカーストは「ひとり」を妨げるのか?
——その一方で、最近、Twitterにスクールカーストが持ち込まれてるという話を聞いた、ということを書かれていましたね。「ひとり」になれるはずの放課後、自宅にまで学校という集団が侵入してくるというのは、「ひとり」好きには厳しい時代なのかなとも思うのですが。
この話を聞かせてくれたのは、大学生の子なんですよ。私の通っていた大学とは少し雰囲気が違って、大学によってはグループ行動が続くんだな、っていう驚きもありました。その子が言うには、「パリピの多い大学」みたいな感じらしくて。でもTwitterなどをしている高校生にも同じことが当てはまるでしょうね。
——以前、大学生がひとりで食事をするのに人目が気になるので「便所飯」をするだとか、学食に「ぼっち席」を作りました、なんていうニュースもありましたね。そういう大学も多いようです。
その大学生の子も「ぼっち飯」は嫌だと言っていました。大学の雰囲気として、「パリピ」たちが連れ立って学食に行く、みたいな感じらしくて。そうなると、パリピの中でうまく馴染めないと辛い。
その子は「ひとりが好き」とはずっと言っているんですけど、その反面「パリピが羨ましい気持ちがどうしても消せない」とも言っていて。
羨ましいなら「パリピ」をやってみたらどうなんだい?
——何となく理解できる気持ちもあります。
目の前にパリピがいると、やっぱり羨ましくて、「自分が駄目なんじゃないか」と思ってしまうんだそうです。
「パリピに変な目で見られちゃうんじゃないか」とか、「ひとりでいるのを見られると恥ずかしい」とか、そういうふうに思ってしまうみたいなんです。そこが、矛盾してるんですよね。
「ひとりが好きっていう答えは出ているはずなのに、パリピになれるもんならなりたかった自分がいる」と。
だったら、いっそ「ちょっとパリピになってみたらどうなんだい?」って私はその子に言ったんです。
もしかしたら、やってみてなれるかもしれないし。その自分の羨ましさっていうのがどこから来ているか、というのをまず知ることのほうが大事じゃないかなって。
——確かにそうかもしれませんね。
私も「ぼっちの歩き方」の本の元になった連載を3年以上続けて、やっとここまで言語化できるようになったんです。意外と、自分の本心でどう思っているかなんて、分からないなっていうのはすごく思うんですね。
——ぼっちで色々な体験をしてみたというこの本とは逆パターンですね。
そうそう。やってみた結果、いろいろ分かることってめちゃくちゃあるし。自分がどっちのタイプなのかわかると思います。
それに結局、「ひとりが好き」って言ってるけど集団も羨ましく思っちゃうっていうのは、集団の人のほうが承認されてるっぽく見えるからじゃないかと私は思うんですよ。
ただ、実際に「パリピ」の人たちが承認されてるかっていうのはまた別問題で、多分、集団の中ではまたヒエラルキーがあるだろうし、イケてるグループの中にもランキングみたいなのは多分あるし、イケてるグループのボスみたいなのになって初めて、承認されると思う。そういう意味では、むしろパリピの方が「修羅の世界」かもしれませんし。
でも、いざ外から見るとパリピは全員承認されてるっていう風に見えるから、多分羨ましいって思っちゃうんじゃないかなって思います。
『「ぼっち」の歩き方』より、貸し切りリムジンで誕生日を祝う朝井麻由美さん。
「書くことを通じて「ひとりが好き」と言えるようになった」
——スクールカーストそのものが変えられないなら、せめて上に行きたい、イケてるということで承認されたい。みたいな気持ちも理解できます。どうせなら。
昔は、やっぱ思ってました、私も。というか、本当に5〜6年前ぐらいまで。ちょっとそう思ってた時期もあったんですよ。
「ひとりが好き」って心の底から言えるようになったのって、割と最近のことです。
やっぱり、それも承認の問題なんでしょうね。
私は多分書くことによって、自分の気持ちや「ぼっち」体験を記事にすることによって「自分もそう思ってた」って言ってくれる人が出てきたので、そこで自分が承認されたんだと思うんですよ、おそらく。
——では、「ひとり好き」が自分の中で肯定されたのは、ひとりラーメンが第1段階、執筆が第2段階なんですね。
だと思います。本当に、それでどんどん補強されて、強くなったっていうところはおそらくあって、「ひとりラーメン」はあくまでもきっかけ、入り口です。
ひとりが好きではあるんですけど、承認されたくないわけじゃないんですよね。
それは本当に、誰でもそうだと思います。ひとりが好きっていうとよく、「それは、誰とも全く関わらないのが好きなの?つまり他人からの承認欲求とかは関係ないのでは?」みたいなことを言われるんですよ。
でもそれは、全く別物だと思っています。ひとりが好きだろうと、集団が好きだろうと、承認されたいことは間違いなくって。そのために、人と関わることはどうしても必要になってくる。
ネットでつながって、「ひとり」になれることもある
——「ひとり」のためにむしろ人からの承認も必要だと。
例えば集団に入らなくても、Twitterとかだと分かるじゃないですか、「いいね」とかリツイートとかで、承認されてるなっていうことが。
Facebookは、そんなにひとりと親和性が高くないと思うんですけど、特にTwitterとかはひとりでいたいっていう主張とか、ひとりの話をすると、共感の「いいね」がついたりする。
——SNSで「いいね」をもらうというのを浅ましいと批判する人もいるけど、そう考えると悪いことじゃないですね。「ひとり」を守りながら、誰かとつながれる可能性がある。
悪いことじゃないですよね、本当に。
「『いいね』。欲しいでしょう?みんな」って感じですよ。それが欲しくない人はいないと思いますよね。
昔は私も「浅ましい」的なことを思っていたんですが、それは単純に嫉妬が結構あったんだと思います。「いいね」をもらってる人がうらやましかったんだと思います、単純にそこは。
というふうに言うと、多分今も「浅ましい」って言ってる人は怒ると思うんですけども。だって、昔思ってた自分がそれを言われたとしたら嫌だし。だって、図星だし。
——承認欲求を隠さないと恥ずかしいみたいな風潮ですね。
でも昔より、5~6年前くらいよりはそういうことを隠さなくてもいい風潮になってきたと思いますよね。当時、結構「こじらせ女子」とかが流行してた時期なんですよ。
あの頃って、自撮り一つとっても、「すごい可愛くないとしちゃいけないんじゃないか」とか「載せちゃいけないんじゃないか」とか不安感があった。でも最近は自撮りする人も増えましたし、自撮りにどうこう言う人っていうのも減ったと思うんですよ。
あと、最近、ここ2年ぐらいの傾向として、ポエムっぽいTwitterがすごく流行ってるんですよ。本当に素直に愛を叫んでた結果、それがすごく支持されるみたいな感じで。
以前は、もうちょっとひねくれた感じのほうが支持されてたけど、減ってきた感じがすごくするんですよね。これは、単純にネットのユーザーが特別な人たちじゃなくて、一般の人になってきたということなんじゃないでしょうか。
最初は、流行を捉えるのが速い人たちがネットをやっていた。ちょっとひねくれてたり、ウィットに富んだものをとにかく出さなければみたいな、そういう人たちが主流だったところから、誰でもSNSをやるようになった。
それで、素直なもののほうがウケるようになったんじゃないかなっていう感じがしているんですよね。その流れで、昔よりは「いいね」を欲することが悪いことじゃないっていう感じになってきてる気がします。
——ネットの世界も変わってきた。
一般の人々がネットに増えた、それで学校のヒエラルキーが持ち込まれて可視化されるっていうのは、絶対に辛いことだと思いますし、嫌だなってすごい自分も思いましたし、そういう辛さも絶対に、あるはあるんです。
でも、その分、あんまりひねくれ過ぎない、いいねと思うものはいいねと思ってもらえるみたいな、そういう感じは出てきてるような気はしてますね。
——朝井さんは書くことで承認が得られた。その同じことが、Twitterとかでも成立するんじゃないかということですよね。
そうですよね。
学生はつらいと思うんですけど、社会に出てしまえば結構変わるというか、あんまりそういうランキングみたいなものって関係なくなりますし、Twitter全てが「パリピ」っぽくなってるかといったら違うし、実際私のぼっちの話で共感していただいてる方もすごくいるので。
別にSNSがつながりのシステムだからって、「パリピ」だけのものになっちゃってるとかでは全然ない。そこで、承認がうまく得られたら、ひとりで過ごすことが"悪"みたいに思う自分の心も、変わるということなんじゃないでしょうか。
(インタビュー前編はこちら:集団が苦手。ひとり行動はコスパがいい。「ぼっちの歩き方」で朝井麻由美さんが見つけたこと)
▼プロフィール
朝井麻由美(あさい・まゆみ)さん
ライター・編集者。東京生まれ東京育ち。血液型O型。東京都立西高等学校、国際基督教大学教養学部教育学科卒業。レッツエンジョイ東京で連載中の『ソロ活の達人に聞く』を元に『「ぼっち」の歩き方』(PHP研究所)を出版。その他の著書に『ひとりっ子の頭ん中』(KADOKAWA/中経出版)、『女子校ルール』(中経出版、構成担当)。公式サイト、Twitter(@moyomoyomoyo)。