エストニア民兵組織の志願兵がロシアに向けてマシンガンを発砲する。RAIGO PAJULA VIA GETTY IMAGES
エストニア、ナルヴァ――普段は歯科販売員として働くマルジュ・プロシンさん(37)は週末、2人の子供を家に残し、雪上作業着をまとってライフルを持ち、エストニアの凍った森でゲリラ戦の演習に参加した。
彼女は、雪をかぶった丘の上で他の数十人の市民と一緒に、1919年、エストニア独立戦争でロシア軍に歴史的な勝利をおさめたことにちなんで「ウトリア攻撃」と呼ばれる36時間の演習に参加した。ホイッスルの合図で、彼女は大量の弾薬と食料を詰めたリュックを背負い、真っ暗な丘を駆け上った。突然マシンガンの音が木々の間からとどろき、彼女は急いで身を隠さなくてはならない。これは、プロシンさんが週末に受けた訓練のひとつだ。
彼女は、予備部隊「エストニア防衛連盟」(EDL)の志願兵2万5000人のうちのひとりだ。彼らには、常時ライフルに油を差して準備を整えておく義務がある。エストニアは、NATOのロシア最前線に位置しているが、人口わずか130万人のこの国の歴史は、強力な隣国からの侵攻と占領の繰り返しだった。1991年にソビエト連邦の崩壊で独立を勝ち取ったが、プーチン大統領を称賛しNATOを「時代遅れ」と呼ぶドナルド・トランプ氏がアメリカの大統領となった今、人々はエストニアと同盟のバルト諸国、ラトビアとリトアニアの安全保障を支えてきた世界秩序の転換を感じている。
プロシンさんも他の人たちと同じく、2014年にロシアがウクライナからクリミアを併合した直後、EDLに志願した。翌年、この同盟は急激な成長を遂げたが、同様の傾向が旧ソ連諸国でもみられた。リトアニアは徴兵制を再導入し、ポーランドは志願制の国防軍を結成し、数年後にはそれが数万人の規模になると見込んでいる。エストニアや近隣諸国にとって、ロシアのウクライナへの侵略は、クレムリンが国境を越えて他国の領土に手を伸ばそうとしている兆候にほからならない。
「私たちの小さな国を取り上げようとする勢力に対抗する準備をしなくてはなりません」とプロシンさんはハフポストUS版に語った。彼女はロシア国境から16キロ離れた雪のちらつく荒野に立ち、肩にAK-4を掛けて立っていた。「ここの全員がそう感じています」
「ウトリア攻撃」参加者の一人が即興爆発装置の犠牲者を装い、応急処置のテストに参加する準備をしている。NAOMI OLEARY/THE WORLDPOST
民間の志願兵部隊は、エストニアの国防戦略「Siil」(ハリネズミ)の一部で、可能な限り外部の侵攻を難しくするのが目的だ。ソ連占領時代の記憶がまだ生々しく残っているエストニア人は、国防のためにはどこまでも献身を厭わない。技術に明るい志願兵によるサイバーユニットは、2007年4月の大規模サイバー攻撃の標的にされたエストニアのネットインフラを守る。エストニア政府は、この攻撃を指揮したのはクレムリンだと非難した。志願兵部隊には、基礎的な軍事訓練を学ぶ女性通信隊、野戦供給・応急処置隊、それに子供たちのための愛国的なスカウト隊がある。
「ウトリア攻撃」の演習では、エストニア人、ドイツ人、ポーランド人、フィンランド人の各チームが、凍結したロシア国境での生存能力をテストする演習に参加した。彼らは、改良された爆発装置の組み立て、敵の兵器の発見、凍結する夜のサバイバルなどの課題に直面した。これらはすべて最悪の場合に備える準備だ。
欧州連合(EU)とロシアの接点となるこの地域は、何世紀にもわたり戦争の渦中に巻き込まれてきた。スウェーデン人対ロシア人、ドイツ人対ロシア人、そしてエストニア人対ロシア人。ここは、北の海と南の湿地に挟まれた地理上の要衝だ。
その風景にも20世紀の傷跡が残っている。町の外側にはうち捨てられたソビエト時代の施設の名残があり、農家が畑や森を掘り返せば、現在の志願兵たちが使っているよりも前の世代の錆びついた銃器が今も出てくる。そして遺体もだ――それは、家に帰ることのできなかった兵士たちの遺体だ。
「私の祖父母は戦争の中を生きました。彼らの先祖たちもです。これは私たちに染みついていて、避けられない運命なのです」と、EDLの教官トニス・オツタバルさん(28)は語る。「悪いことは起こるものです。私たちはそれに備えなくてはなりません」。
トランプ大統領とプーチン大統領を模したマグネットとマトリョーシカ人形が土産物店に並ぶ。エストニア、タリン市。
実際には、確実にロシアがエストニアに侵攻するとは言い切れない。エストニア人たち自身ですら、今すぐにロシア軍が国境になだれ込むかもしれないという忠告を、まともに取り合っていない。
「私たちは脅かされていない」とエストニア外交委員会のマルコ・ミケルソン委員長は語った。「もし恐れていたら、すでに負けだ」
しかし、ミケルソン氏は準備ができている。彼はEDLの志願兵で、合図があればいつでも兵舎に駆けつける準備ができている。
アメリカのトランプ大統領は2016年7月、ニューヨーク・タイムズのインタビューで、「ロシアがバルト海を攻撃した場合、アメリカはバルト諸国を支援するか」と尋ねられると、「もし彼らが私たちに対する義務を果たすなら、答えはイエスだ」と答えた。
トランプ氏は「義務」の意味を明確にしていないが、彼のあいまいな答えが警鐘となった。エストニアのトーマス・ヘンドリク・イルヴェス大統領(当時)は、「エストニアは軍事費を国内総生産(GDP)比2%にするというNATOの目標値を満たす5カ国のうちのひとつだ」とツイートした。また、エストニアはアメリカ主導のアフガニスタン戦争でNATO軍の一員として「無条件で参戦した」と述べた。
トランプ氏は親ロシアとみられるレックス・ティラーソン氏を国務長官に任命した。また彼は、大統領選後初の欧州メディアとのインタビューとなった、イギリスの新聞「タイムズ」とドイツの新聞「ビルト」の共同インタビューでNATOを「テロに対応していない。時代遅れだ」と批判し、NATOに対する懐疑的姿勢を明らかにした。
ウトリア攻撃の参加者がエストニア―ロシア国境付近の森で休憩する。NAOMI OLEARY/THE WORLDPOST
エストニア当局は、表向きにはトランプ氏の声明がエストニアの安全保障に影響を及ぼすかどうかについて無関心を装っている。マルガス・ツァクナ国防相はこう釘を刺した。「エストニアとアメリカは長い間、互いに実りある防衛協力をしてきた。それがすぐに変わるとは思わない」
しかしエストニアの当局者はハフポストUS版に対し、「政府は揺れ動いている」と話した。もしトランプ氏がロシアに対する制裁を解除すれば、それはプーチン大統領にとって、法の手続きなしに国際法を破るための合図になる。
エストニア外務省は、国際法に縛られていない世界秩序の中で、最も弱いのは小国だと言う。「国際関係には原則が必要で、私たちにはルールが必要だ。私たちは国際法を遵守しなくてはならない」と、エストニア外務省のポール・テレサール外務次官は語った。 「そうでなければ大国は何でもやりたいことが出来てしまう。私たちのような小国にとっては危険だ」
エストニアの国防アナリストは、ロシアの小さな違反行為、たとえばNATOの空軍ベース付近の飛行などが、NATOの解決力と弱点の試金石だと述べる。主要な関心は、ロシア政府が、NATOを弱体化させるための道具とエストニアを見るかどうかだ。
エストニア側のナルヴァ川岸から見たロシアのイヴァンゴードの要塞。 NAOMI OLEARY/THE WORLDPOST
エストニアの人口の約4分の1はロシア系だ。彼らは一枚岩とは程遠く、意見は様々で、家族のバックグラウンドや国に対する愛着の度合いも異なる。彼らはエストニア語ではなくロシアのテレビを見て、ロシアのニュースを聞く。あるアナリストの言葉を借りれば、エストニアのロシア系住民は異なる「情報空間」に住んでいるのだ。
エストニア人とロシア系住民の歴史の解釈も互いに異なっている。第二次世界大戦下のソビエト軍はナチスを倒した英雄なのか、または50年近く続いたエストニアの占領を始めた侵略者なのか、意見が分かれている。
こうした違いが過去の不安定状態の源だった。2007年、ロシア系住民にとっては第二次世界大戦の勇気の象徴、そしてエストニア人にとっては占領の象徴である首都タリンの「銅の兵士」として知られるソビエト戦没者慰霊碑を移動させる決定をめぐり、ロシア系住民が暴動を起こした。男性1人が死亡、数十人が負傷、そして数百人がこの混沌状態で逮捕されたが、社会不安の中、サイバー攻撃の波がエストニアの銀行、政府機関、そして報道機関を襲った。
エストニア側は、この事件をロシアが「ハイブリッド戦争」の技術を試したものだったと見ている。ロシアはフェイクニュースのキャンペーン、政治運動への資金提供、そしてサイバー攻撃などを仕掛けてきた。ロシアはこうした方法を使って、アメリカ大統領選に干渉するはるか前から、エストニアや他の旧ソ連諸国に攻撃を仕掛けていた。
ウトリア攻撃の軍事訓練に参加するエストニアの志願兵。RAIGO PAJULA VIA GETTY IMAGES
ウトリア攻撃の最後に、EDLは城での戦いのために機関銃を装備し、空砲を装填してロシアに向けて発射した。ロシアとNATOの国境となるナルヴァ川からわずか数ヤードの距離だ。双方の岸から、古代の城が向き合う。東側にはロシアの三色旗、西側にはエストニアの青、黒、白の旗がかかっている。視覚的には、この光景は、ドイツとロシアの兵士が川を挟んで向き合った第二次世界大戦が再現されたかのようだ。
「私たちの隣人(ロシア)は、私たちがここにいて、何かをしているということがわかります」と、EDLの機関誌の編集者カリー・カースさんは、ウトリア攻撃の参加者が最後のチャレンジで城壁をよじ登るのを見ながらそう語った。「ナルヴァの地元住民たちにも、私たちがここで国の治安を不安に思っていることを見せているのです」。カースさんがこう語る間にも、地元の人々は不審な目でこちらを眺めていた。
ナルヴァはおそらくEUに最も近いロシアの都市だ。住民の90%以上の第一言語がロシア語だ。ハフポストUS版は、英語なら大丈夫だがエストニア語は忘れかけているという地元住民と会話をした。人口5万8000人のナルヴァでは、エストニアの市民権を持つ人々は半数以下だ。ほとんどは国境線が引かれた時にたまたまエストニア側に入ってしまった人々で、いわゆる「グレー・パスポート」の人々だ。彼らは無国籍で、投票はできない。
ここでは、国境の両側に家族がいるのは珍しくない。国境線が引かれたとき、多くの人は断絶を感じた。国境線には物理的障害があり、町の中心には大きな金属のバリアがある。ロシアへの経済制裁の影響を受け、160キロ離れた経済的ハブの大都市で、エストニア全人口の4倍近くの人口を持つサンクトペテルブルクとの通商が打撃を受けた。ナルヴァ川の中洲クリーンホルムにある、今は廃屋となった広大な織物工場は、かつてナルヴァがソ連の製造業の拠点となっていた名残だ。繁栄していた産業が衰退するにつれ、ソ連時代にノスタルジアの輝きを見続ける人もいる。
エストニアの兵士は1944年のナルヴァの戦いで、ナルヴァ川の西側を守った。WIKIPEDIA
この地域の緊張が高まるにつれ、NATOとロシアは互いに非難している。NATOは、ロシアが国境で大規模な軍事演習をし、ロシアの西部軍管区に駐留すると推定される30万人の部隊が「軍事行動と攻撃的な挑発行為で地域を不安定化させる典型例だ」と批判している。ロシアは、長い間NATOを根本的に脅威的な同盟と見てきた。クレムリンは、バラク・オバマ政権末期の1月にポーランドとバルト諸国に配備された数千人のアメリカ軍について「ロシアの利益と安全保障への脅威」と批判している。
ナルヴァは、ロシア的な視点で支配された場所だ。ここには、プーチン大統領の熱狂的支持者も多い。ナルヴァで自動車工場を経営するイゴール・ロビンさん(48)は、「プーチンは最高の指導者だ」とハフポストUS版に語った。そして、必要があれば、ロシアの指導者を守る用意があると付け加えた。
■ 「私の中では、第二次世界大戦はまだ終わっていない」
彼の父親と同じく、ソ連軍に勤めていたボリス・アブラモフさん(51)は、NATOがエストニアの土地にアメリカ兵や多国籍空軍部隊を配置し、緊張を煽っていると憤っている。アブラモフさんは、「彼らに出て行ってもらいたい」と語った。第二次世界大戦でソ連が受けた甚大な被害について話し始めると、彼の口調は熱を帯びた。 「どう説明して良いかわからないが、私にとっては、戦争はまだ終わっていない」
ナルヴァは、ウクライナ東部の都市ドネツクの姉妹都市だった。この関係は、親ロシア派の分離主義者たちが、ドネツクをキエフから分離すると宣言した2014年に凍結した。その直後、親ロシア派が新たに宣言した「ドネツク人民共和国」の旗がナルヴァに掲げられ、親ロシア派との連帯を示す住民もいたと、バイシャスラフ・コノバロフ副市長は語った。
ナルヴァ側の河岸にあるT-34戦車のメモリアル。第二次世界大戦中のソビエト軍の突破を記念してつくられた。NAOMI OLEARY/THE WORLDPOST
2014年は、スタニスラフ・マクシモフさん(38)がその戦車を塗装することを決めた年でもあった。旧ソビエト軍の兵器を記念碑に使ったそのメモリアルは、町の郊外の川岸にある。近年、その戦車は錆びつき、周囲は雑草が茂っていた。ロシア系のマクシモフさんは失業中で、彼にとって戦車は一つのシンボルだった。彼は、ロシア側の歴史も彼の歴史も上書きされていると感じた。
「私たちにとっては、これは歴史の重要な一部です。人々は何が起こったのか、そしてそれが何のために起こったのかを思い出す必要があります。人々はこの戦車を見て、どれだけ大きな犠牲が払われたか思い出さなくてはなりません」と、マクシモフさんは語った。
マクシモフさんは他のボランティアと一緒に、川沿いの戦車やその他のモニュメントを復元した。地面を掘り起こすと、6つの遺体が出てきた。「おそらくドイツ人です」と、マクシモフさんは言った。遺体は、地方当局が引き取った。
ナルヴァの住人の中には、遺体を地面に埋めた戦争を覚えている年齢の人たちもいる。空砲とはいえ、マシンガンの音が市中に響き渡る。疲れ果てた部隊が、エストニア国境付近の凍った森や荒野の行軍を終え、ナルヴァに到着した。彼らはライフルと軍需品を背負って街の公園を抜けて走った。27チームのうちの3つが耐久訓練から脱落した。ソ連時代の堂々としたレーニン像に見守られながら所持品をまとめ、エストニア中のそれぞれの町での普段の生活や職場に戻る準備をした。
彼らはウトリア攻撃で経験やスキルを身に付けた。プロシンさんは、「その時が来たら、準備はできている」と語った。
ハフポストUS版より翻訳・加筆しました。
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