東日本大震災で被災したママが発信し続ける「本当に生活に必要だった情報」とは?

「大切なのは続けられる防災。小さな工夫の積み重ねがいざというときに役に立つ」と、本の中でアベさんは「ミニマル防災」を提案している。

東日本大震災で、宮城県で被災したイラストレーターのアベナオミさんが2016年、熊本地震の直後にTwitterで公開した一枚の絵が話題になった。

東日本大震災のあとにメモしていた画像がでてきた!なにか役に立てばいいんですが...とどけ!熊本に!#熊本 #震災時に役に立ったものpic.twitter.com/F8GVfnLSuq

— Illustratorアベナオミ★防災士 (@abe_naomi_) 2016年4月15日

アベさんが経験した震災の記録は、多くの人にシェアされた。それだけでなく、「印刷して街中で配りました」「回覧板で配布しました」という熊本などの人々の声が、続々と寄せられたという。

アベさんは熊本地震の少し前、東日本大震災から5年を迎えた2016年3月から、毎日少しずつの工夫で災害に備える、「1日1防災」をテーマにTwitter上での発信を開始。2月には、その内容をまとめ、震災時の体験や取材内容なども加筆した本「被災ママに学ぶちいさな防災のアイディア40」(学研プラス)が出版された。

間もなく震災から6年になる。今も防災を発信し続けるアベさんの使命感の源になっているのは、今でも頭に焼き付いている「遺体安置所を往復するヘリコプター」の光景だという。

   ◇     ◇

東日本大震災の当時、アベさんは、宮城県利府町のアパートで夫と1歳半の長男の家族3人で暮らしていた。

発生当時、アベさんは1人で車の運転中。自宅の物は散乱したが、家屋の損傷はなかった。長男を保育園に迎えに行き、実家に立ち寄った際に津波の情報を得た。塩釜港近くの会社に勤務している夫を迎えに行かなくては、と、海の方へ向かった。

雪で真っ白の道を、港へ。当時は気づいていなかったが、車からわずか100メートルのところまで、津波が迫っていたという。「渋滞しているだろう」と偶然に避けた、いつも使っていた海側の道。そこでは、車が津波に流されていた。

今思えばパニック状態で、海に向かうなんて正常な判断ではなかったですね。あの時、私も子供と一緒に津波で流されていたかもしれません。津波の恐ろしさを理解していなかったし、過去に大津波があったことも知らなかった。

結局、津波のために道は通行止め、夫を迎えに行くのは諦めて自宅に引き返した。夫の働いていた会社は浸水被害を受けたものの、近くの小学校に避難し無事だった。通勤用の車が流された夫は、深夜になって歩いて無事に帰宅したという。

その日の夜、アベさんの自宅にはまだ水道が通じていた。しかし、まだ被害の大きさが伝わっておらず、アベさん一家は水を貯めることもせずにそのまま就寝してしまった。翌日からの断水は、試験通水などを挟み、約1カ月間続いた。

一家は、結局、避難所には行かず、ずっと自宅避難を続けることになった。1歳半の長男は夜泣きをし、小麦などの食物アレルギーもある。「とても避難所には行けない」と判断したからだ。

震災で主に報道されるのは避難所の様子などだ。しかし実は、東日本大震災ではアベさんのように大勢の自宅避難者も困難な生活を強いられていた。

当時、アベさん一家にはほとんど災害の備えがなかった。自宅で幼児を抱えながら、飲み水もなく、トイレの水も流せないなど不便な状況を強いられたという。

避難生活中、アベさんは食料、ラジオ用の買い置きの乾電池、ガソリン、携帯電話のバッテリーなど、備えがあれば...と後悔した。一方で、偶然、自宅にあったランタンで何とか夜をしのぐことができた幸運もあった。

   ◇     ◇

上下水道やJRの一部が復旧し、保育園も再開、アベさんも仕事に復帰できた、2011年4月頃のこと。

利府町の上空には、たくさんのヘリコプターが飛んでいた。海の方と、宮城県最大の遺体安置所になった「グランディ・21」(宮城県総合運動公園)を往復し、遺体を運んでいたのだ。

4月になっても毎日毎日、ヘリは頭の上を飛び続けていた。

「こんなひどい震災で、私は幸運にも生き延びられた。何てありがたいんだろう。何かしなくちゃいけない。何か成し遂げてからじゃないと死ねない」。そんな気分になりました。今でも忘れられないですね。

同じ頃アベさんは、震災後の生活の記録をイラストで描き残した。何が必要だったのか、そして何を備えているべきだったのか。

私にできるのは絵を描くことだけだから、こうした体験を伝え続けていかなくてはと思いました。

震災以降、アベさんはイラストレーターとして、雑誌や自治体の防災関係の特集やパンフレットの挿絵など多数の仕事を請けるようになった。仕事も増え、活躍の場を得た反面、「私は震災のおかげで仕事をしている」と、複雑な気持ちも抱えていた。

また、行政の資料などに書かれている情報は、「持ち出し袋を準備しましょう」「避難所の場所を日頃から確認して」などであることが気になっていた。自宅避難を続けたアベさんら、多くの家庭の避難生活の困り事を解決する情報は少ないと感じていた。

内心ずっと「本当に生活に必要な情報は、そうじゃないのに...」ともどかしく思っていました。

   ◇     ◇

だが、アベさんが自らの経験を元にした「1日1防災」の公開を始めたのは、震災から5年が過ぎた頃だった。

私は家族や友達など、近しい人で亡くなった人は誰もいないんです。家も無事だった。被害といえば実家が大規模半壊したことと、夫の車が流されたぐらい。全てを失った人の本当の気持ちは、同じ被災地にいる私でも本当には理解できていないと思います。

震災から5年間、それが私の中でネックになっていました。自分のことを「被災者」だとも言いづらかった。でも5年が過ぎて、振り返ってみると「あの時、程度は軽かったけれどやっぱり、私も困っていたな」と思えるようになりました。

そして、ヘリを見ながら「一時も無駄にしてはいけない」と思った、あの時の自分の決意が、少し薄れ始めているのを感じました。

そんな思いで、アベさんは2016年、Twitter上で「1日1防災」の発信を始めることにしたという。

アベさんは防災士の資格も取得した

一時は、震災後のストレスで必要以上に食材や物を買い込みすぎる「防災中毒」にも陥った。しかし、防災グッズを詰め込んだリュックサックを持ち歩く生活をしばらく続けた後で、そんな生活を続けるのは不可能だと気づいた。

「大切なのは続けられる防災。小さな工夫の積み重ねがいざというときに役に立つ」と、本の中でアベさんは「ミニマル防災」を提案している。

充電式の掃除機、洗い物を減らせるキッチンバサミ、野菜不足から救ってくれる青汁、風呂代わりもなる赤ちゃんのおしりふきなどの40の品物が、普段も使用でき、災害時にも役立つグッズとして紹介されている。

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アベさんが「1日1防災」で訴えるのは、「自分の身を自分で守ること」。 

震災後、被災地以外の場所では「将来地震があっても、避難所に行けばなんとかなる」と思っている人が多いことに気付かされました。でも被災地の人々の大半は私のように自宅で暮らしていた人。

宮城県でさえ避難所はぎゅうぎゅうでした。もし、都市部で今後地震があったら、全員が避難所で暮らすことなど不可能だと思います。だからできる人は自宅避難をしなければいけない。

阪神大震災では、近所の助け合いで救助が行われたといいます。自分の命を守ることは、誰かの命を守ることでもあるんです。

あの時、私自身も、想像力が足りなかったと思うんです。一歩間違えたら津波に巻き込まれていたんです。パニックにならないために、防災を考えることは、想像力を養うこと。それが、いざという時に命を守る大事な手段になります。自分の命は自分で守るしかない。そのことを伝え続けていきたい。

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