中世から1960年代までの間、ヨーロッパでは「世界一美味しい高級胡椒」として知られていたカンボジアの胡椒は、70年代半ばに起こったカンボジアの内戦によって絶滅の危機に追いやられた。大量虐殺や強制移住によって作り手がいなくなり、わずか3本だけ残った苗木からカンボジアの胡椒を復活させたのは日本人、倉田浩伸さん(48)だった。
倉田さんは、内戦終結後の1992年から幾度となくカンボジアに足を運んで、難民支援や学校を作ったりしている大学生だった。そんな倉田さんがどのようにして胡椒復活の立役者となったのか。その波乱万丈な人生について話を伺った。
■「日本人はお金を出すだけ」人的貢献への強い思いからカンボジアへ
中学生の時に、倉田さんはカンボジア内戦の悲惨な実話を描いた映画、「キリング・フィールド」を観て、カンボジアの大量虐殺に驚愕した。15歳でお兄さんを交通事故で亡くし、命の重みを強く感じていた倉田さんにとって、カンボジアの内戦や難民という過酷な現実は、人生観を変えるほどの衝撃を与えた。
倉田さんが大学の語学研修でアメリカにいた頃、湾岸戦争が勃発した。召集がかかるかもしれないとヒヤヒヤしていた同級生から「日本人はお金を出すだけだからいいよな」と心なく放たれた言葉が倉田さんの胸に突き刺さった。「日本人として必ず人的貢献をやってやる」と決意した倉田さんは、1991年、パリ和平協定が結ばれて内戦が終結した翌年に、ついにカンボジアに足を踏み入れた。そこには、国際協力のあり方を根底から覆すほどの深刻な状況と無残な光景が広がっていた。
「内戦によって、国民の約3分の1の命が失われたんですよ。伝統や文化はもちろん経済的基盤も人々の生活環境も壊滅的な状況でした。そこでは、どんな援助も焼け石に水。付け焼き刃的に“与える”だけでは、国を立て直すことなんてできない。カンボジアに根付いて育つような産業を起こして、内からの復興に努めなければ何も始まらないと思いました」
■「カンボジアに産業を」あの手この手のビジネスから胡椒に出会うまで
大学卒業後、倉田さんは一念発起して、貿易業をスタートさせた。目をつけたのは、カンボジアの農産物。当時、日本ではまだめずらしかったフルーツ、ドリアンの輸出を試みるも、強烈な匂いのせいで航空会社から空輸禁止、ココナッツは機内の気圧差で破裂してしまうなど、新しいものに手を出しては失敗の連続だった。
こうして、暗中模索のトライ&エラーを繰り返していた最中に、倉田さんは内戦前のカンボジアの農業に関する資料を見つけ、商品作物の欄に書かれていた「胡椒」に目が止まった。「これならいけるかもしれない」と、古い資料を頼りに、倉田さんは胡椒の産地だったらしい地域を訪ねた。
カンボジア南西部のコッコン州。そこは、700年の歴史を持つ伝統農法で胡椒が作られていた場所だった。しかし、内戦が始まった1975年から3年半で胡椒はほぼ全滅に追いやられてしまった。そんな中、かろうじて戦火を逃れた農家が、奇跡的に生き残った3本の苗木から胡椒作りを始めていたことが、倉田さんの心を突き動かした。
■どん底の2000年。車やパソコンと一緒に社員全員がいなくなった
倉田さんは、胡椒の買い付け販売、胡椒農家への投資、そして自社農園の運営に乗り出した。しかし、2000年、手探りで始めた胡椒農園は軌道に乗る前に頓挫した。胡椒は収穫できるようになるまで5年はかかる。その間、中古医療機器の輸出入など副業で生計を立てながら農園に投資し続けたが、赤字は増えるばかりだった。やがて従業員に払う給料が遅れ出し、異常を感じ取った社員が、パソコンや車などを持ち逃げして1人減り、2人減り、5人全員がいなくなった。後には借金と農園だけが残った。
「正直、心が折れました。カンボジアにいても何もできない。どうしようもない。お先真っ暗でした。でも、途方に暮れていた時に友人から『お前は根っからのカンボジア馬鹿だ。カンボジアを引いたらただの馬鹿だ。それでいいのか?』と言われて踏みとどまりました」
■秋篠宮様からのありがたい一言「日本に持ち帰る手土産に胡椒が欲しい」
それから1年後、一条の光が差す出来事が起こった。秋篠宮ご夫妻がカンボジアを来訪した際、現地で活動する日本人として御接見会に招かれた倉田さんは、農業に関心の高い殿下と直接言葉を交わす好機に恵まれた。
「日本に持ち帰る手土産に胡椒が欲しいと、殿下がおっしゃったんです。まさに目から鱗でした。胡椒を日本に輸出するのではなく、カンボジアに来た人たちにカンボジア土産として売ればいいんだ!ということに気がついたんです」
当時、どん底の状況下で巡り会い、結婚したばかりの妻の後押しもあった。お土産なら「カンボジアっぽいパッケージがいいよ」と胡椒をカゴバックに入れるなどアイデアが次から次へと出てきた。「いい胡椒を作れば、いつか自然に売れるはず」と渋っていた倉田さんだったが、観光客で賑わうアンコールワットに売りに行くと、カゴバック入りの胡椒があっという間に完売した。手応えを感じた倉田さんは、「クラタペッパー」に専念することを決意し、ゼロからの再スタートを切った。
KURATA PEPPERのロゴも倉田さんの奥様がデザインした
■カンボジアの胡椒復活の兆し。再びヨーロッパへ
その日を境に、倉田さんの快進撃が始まった。胡椒に興味を持ってくれたデンマークのスパイスメーカーに初めての輸出が決まった。JICA(国際協力機構)が主催する物産展に出品すると、ドイツから注文が入った。イギリスBBCの料理番組にクラタペッパーが紹介されると、評判が世界中に広がった。そしてある時、フランスから、世界最高級のカンボジアの胡椒ブランドである「カンポット・ペッパー」を復活させようという声がかかった。
倉田さんは、もともとの貿易業のノウハウを活かし、カンポット・ペッパー認定のガイドラインのたたき台を作った。カンポット州と隣接県が産地で、在来種の苗から無農薬で作られた胡椒をカンポット・ペッパーとして認定する。しかし、フランス開発庁(AFD)から世界貿易機関(WTO)に登録する際に、「コッコン州を除く」という但し書きが加えられていた。クラタペッパーの農園が外されたのだ。それは、すでに人気が高まっていたクラタペッパーから市場を守るためのフランス側の策だった。
「強力なライバルを自らの手で作ってしまったんです(笑)。でも、自分の目的はカンボジアの胡椒産業が発展することなので。そうやって産業が育って、胡椒でカンボジアの経済がよくなる、そういう全体の底上げになればそれでいいんだって思ったんです」
今は商品も黒胡椒だけではなく、完熟胡椒や緑胡椒、佃煮、酢漬けなどの加工品も加わり、世界中から引き合いがくるようになった
■倉田さんがつなぐカンボジアの未来
倉田さんが胡椒の苗を初めて目にした日から苦節20年。今では倉田さんの胡椒農園は約6ヘクタールまで広がり、正社員は26人に増えた。今の社員は戦火の経験のない20代がほとんどで、内戦を生き抜いた30代以上の世代には未だに癒えない心の傷や人への不信感を抱えている人が多いと倉田さんは語る。
「今のカンボジアの若者には、カンボジアが栄華を極めた60年代のことを知っている内戦経験者の話をもっと知ってほしいなと思います。外国に頼るのではなく、自国の良さをカンボジアの人たちにもう一度見直してほしい。私は、内戦によって失われた時代の1ピースにすぎません。主役であるカンボジアの若者たちを育ててバトンタッチすることが、これからの私の使命なのかなと思っています」
いつも身につけているペッパーミルに書かれている文字は「栄光に近道なし」。倉田さんは、「若い時の間違いは失敗じゃなくて経験だ」と笑いながら自らの経験について話してくれた
カンボジア人の幸せを第一に考える倉田さんは、今はカンボジアの未来と次世代の育成に目を向けている。胡椒産業がカンボジアの若者の手によって広がっていくのを目にするのはきっと近い将来にちがいない。
(文:飯嶌 寿子)