ジョン・グレン氏死去 「真のアメリカンヒーロー」と称えられた宇宙飛行士の輝かしき生涯

「真のアメリカンヒーロー。成功の象徴、ジョン・グレン」

アメリカ人として初めて地球を周回する軌道を飛行し、史上最高齢の77歳で宇宙飛行した元宇宙飛行士で上院議員ジョン・グレン氏が12月8日、95歳で亡くなった

グレン氏は、NASAが1959年に初の有人宇宙飛行「マーキュリー計画」に選出した7人の宇宙飛行士「マーキュリー・セブン」最後の1人だった。グレン氏は1962年2月20日、アメリカ人として初めて地球の周回軌道の単独飛行に成功した。すべてが計画通りに進んだわけではなかったが、グレン氏はプレッシャーの中でもクールに飛行した。

第二次世界大戦と朝鮮戦争という2つの戦争で数々の勲章を手にしたベテランで、そして軍のテストパイロットとしてグレン氏が身につけた度胸は、宇宙飛行士としての成功にも役立った。そして、彼が生まれたオハイオ州から選出された上院議員としての24年間にも及ぶキャリアにも生かされたと言える。

グレン氏は1921年7月18日、オハイオ州ケンブリッジでクララとジョン・ハーシェル・グレン・シニアとの間に生まれた。2歳のとき、家族は父が配管工事の会社を始めたニュー・コンコード近郊に引っ越した。グレン氏は後に、「誰よりも牧歌的な幼少期を過ごした」と記している

グレン氏は工学を専攻するために地元のマスキンガム大学に入学するが、1941年の真珠湾攻撃で太平洋戦争が開戦すると大学を中退し、アメリカ海軍の航空士官養成過程に入隊した。後に、「私は自分の任務がわかっていた。それを遂行することが大事だった」と語っている

グレン氏は第二次世界大戦で、海軍飛行士として南太平洋に59回の戦闘出撃をこなした。朝鮮戦争では90回出撃した。その飛行実績から、グレン氏は6回の殊勲飛行十字章を含め、数々の受賞や勲章を獲得した。

彼の乗る飛行機は敵機より5つの異なる戦闘で砲弾を受けたが、いずれも軽傷で済んだ。1962年に発行されたライフ誌で、グレン氏は朝鮮戦争の任務で機体に375カ所の砲弾を受けながらも帰還したと報じられている。他の乗組員は、穴だらけになった彼が乗る飛行機に「空飛ぶドイリー(卓上用の小さな敷物)」というあだ名を付けた。

1962年2月3日、バージニア州アーリントンにある実家の外で報道陣に向け挨拶をする宇宙飛行士のジョン・グレンと妻アニー。彼はその後歴史的な宇宙飛行をする。

飛行任務前、彼は妻に「街角の店に一箱のガムを買いに行くだけだ」と約束し、彼女もまた「早く帰ってきてね」と返事したという逸話がある。数年後、グレン氏は単独宇宙飛行の直前、妻に一箱のガムをプレゼントとして贈った。彼女は、ジョンが無事に帰還するまでそのガムの箱を胸元のポケットに入れ持ち歩いた。

グレン夫婦は幼なじみの恋人で、1943年に結婚した。妻は長年重度の吃音(どもり)に悩まされた。グレン氏は、最終的に吃音を克服した妻についてこう語っている

「長い間、アニーの忍耐力と精神力を見てきて敬服し、より愛情が深まった」と彼は綴った。「私があれほどの勇気を持てたかどうかはわからない」

1957年7月16日、ロサンゼルスからニューヨークまでの直行超音速飛行を初めて行った後、フロイド・ベネット・フィールドでF-8Uクルセイダーから降りるグレン少佐。

朝鮮戦争後、グレン氏は海軍航空試験センターで試験飛行パイロットとして働いた。1957年、ロサンゼルスからニューヨークまで3時間半弱のF-8Uクルセイダーを操縦した。「プロジェクト・ブレット(弾丸)」と呼ばれたこの大陸横断飛行は、初めて超音速飛行に成功した。

グレン氏のもっとも有名なミッションは、1962年2月、打ち上げロケット「アトラス」上部のマーキュリー宇宙カプセルに入り、宇宙に打ち上げられた時のことだ。

4時間55分の飛行中、グレンは「フレンドシップ7」宇宙船に乗って軌道に乗り地球を3周した。最大高度は約162マイルで軌道速度は時速1万7500マイル近くだった。

グレン大佐を乗せた「フレンドシップ7」と呼ばれるマーキュリー宇宙船がフロリダ州ケープ・カナベラルから打ち上げられる。

打ち上げを待っている間、グレン氏が心拍モニターで心拍数を測ると1分間に60から80だった。「不安よりは退屈に近い」と、グレン氏は1998年、雑誌「コロンバス・マンスリー」に綴っている。グレン氏は任務の危険性は十分に理解していた。それ以前に行われた無人発射試験は悲劇的は失敗を繰り返しており、彼の任務も打ち上げまでの4カ月間に10回も実験が中止された。

後年彼は冗談で、「打ち上げ準備の時、『私は最低入札者の政府から受注した契約業者が作った200万個の部品の上に座っているとわかったらどんな気分になるかな』なんてことを考えていました」と語った。

ヒヤリとする瞬間がなかったわけではない。地球周回の1周目の終わりにジェットが詰まり、カプセルを20度右へずらした。グレン氏は残りの任務中ほとんど「ワイヤーによる飛行」の手動操作を選択し、自動制御システムを中止しなくてはならなかった。

2周目で大気圏に再突入する際、宇宙船が燃え上がらないために重大な役割を果たす耐熱シールドが脱落しかかっている可能性があるアラートが出た。

1962年1月2日ケープ・カナベラルでフレンドシップ7カプセルへと登るグレン氏。

耐熱シールドがあるべき場所からはがれないことを祈って、NASAは再突入の速度を遅くさせるために逆推進ロケット噴射後は推進ロケット装置を切り離さないようグレン氏に指示した

「火の玉になった推進ロケット装置の破片が燃え上がり窓の外を横切っていました」と、グレン氏は振り返った。「推進ロケット装置だったのか耐熱シールドだったのかは確かではなかったのですが、どちらにしても任務を遂行し続けて再突入において宇宙船を最高の姿勢に保つ以外、私ができることは何もありませんでした」

グレン氏はフロリダの800マイル南東部に着水し、その21分後、駆逐艦「ノア」によって引き上げられた。

彼の歴史に残る宇宙飛行から戻り、駆逐艦「ノア」の甲板でリラックスするグレン氏。

グレン氏の宇宙からの帰還を、著名人たちが歓迎した。

グレン氏の宇宙飛行は単に科学の進歩をもたらしただけでなく、冷戦中のアメリカの精神を高揚させた。当時、有人無人宇宙船開発分野でソ連はアメリカを追い抜いていた。だからグレン氏の宇宙飛行はアメリカの復活を意味したのである。

グレン氏は、1998年、ABCニュースで「まさか他の国が技術的に我が国のレベルに達することなどあり得ないと思っていた」と当時の様子を振り返った。「しかし驚くことに、突然ソ連が技術的にも科学的にも我々アメリカを抜いてしまった」

グレン氏はニューヨークで紙吹雪の舞うのパレードで迎えられ、ホワイトハウスでジョンF・ケネディ大統領と会談した。

その後彼はNASAに戻り、もうひとつの任務を待った。グレン氏には政治的資質があり、そして国家的象徴になりうる素質を見出したケネディ大統領は、宇宙飛行士としての身の危険を案じ、彼の知らないうちに、グレン氏を宇宙に送ることをNASAに禁じた。グレン氏の政治家としての資質は、数十年後に花開くようになる。

グレン氏が1962年3月1日にニューヨークで行われた紙吹雪舞うパレードで祝福を受ける。

1964年、グレンはアメリカ上院議員選挙に出馬するためNASAを去った。しかし数週間後には、落下物が頭に当たる事故で9カ月間入院し、選挙キャンペーン計画は実現しなかった。

しかし、グレン氏は政治家になることをあきらめなかった。彼はケネディ家と個人的に親交を深めた。1968年、大統領選に出馬したロバート・ケネディ上院議員が暗殺された時、ロバート氏の妻エセルさんはグレン氏に、「子供たちを連れて行って面倒を見て欲しい」と頼んだ。そして子供たちに、父親が亡くなったことを伝えた。グレン氏にとっては、「人生で最も辛いこと」だったという。

グレン氏は1970年に再び上院議員選挙に出馬したが、民主党予備選挙でハワード・メツェンバウム氏に敗れ、その後1974年にもう一度挑戦した。3回目の挑戦は成功した。グレン氏は1999年に引退するまで上院で4期務めた。

大統領選の民主党予備選に出馬したグレン氏が1983年8月24日、カリフォルニア州のオークランド空港で記者の取材を受ける。

グレン氏は上院議員として、1978年核拡散防止法の起草に関わり、上院外交委員会、上院軍事委員会、高齢化特別委員会で委員を務めた。グレンは1978〜1995年に上院政府活動委員会の委員長を務め、政府がもっと説明責任を果たすように働きかけた。グレンは1984年の大統領選挙戦にも出馬したが、民主党の候補指名は得られなかった

グレン氏は1989年、富裕層の銀行家チャールズ・キーティング・ジュニア氏から寄付を受けていた4人の上院議員とともに、スキャンダルに巻き込まれた。キーティング氏は自身の会社「リンカーン・セービングス・アンド・ローン・アソシエーション」社で投資家から2億5000万ドル以上を詐取していた。エコノミスト誌によると、アメリカの納税者はこの金融機関の損失34億ドルを税金で補填することになった。しかし規制当局の手がキーティング氏に迫ると、彼は捜査の妨害を狙って、後に「キーティングの5人組」と呼ばれる上院議員たちに寄付したと主張した。

1991年、上院倫理委員会での審問でグレン氏の不正疑惑は晴れたが、「軽率な判断だった」と指摘された。オハイオ州の投票者はスキャンダルに関心がなかったようで、1992年、4期目の再選を果たした。

政治家でいる間もずっと、グレン氏は宇宙へ帰りたいと願っていた。

1998年10月29日、ついにその機会がやってきた。最初の宇宙飛行から約40年後、グレン氏はスペースシャトル「ディスカバリー」に乗り込み、座席のベルトを締めた。この時グレン氏は77歳、史上最高齢の宇宙飛行士となった。9日間にわたるミッションを通じ、グレン氏は老化の過程と人間の体に対する宇宙飛行の影響についての研究の一助となった。

1998年、搭乗科学技術者として、スペースシャトル飛行のクルーたちと共にポーズをとるグレン上院議員(上段右端)。中央は日本人宇宙飛行士の向井千秋さん

最初の孤独なミッションとは違い、この時のグレン氏は、他の宇宙飛行士たちと一緒だった。地球に帰還する降下もさらに楽しいものだった。シャトルのなかで、高齢のグレン氏は再突入する時の3Gの重力に耐えなければならかった。

グレン氏は政治家引退後も、宇宙開発全般、特にNASAの熱心な支援者であった。彼の歴史的飛行の50周年にあたり、2012年に行ったAP通信とのインタビューの中で、「私は今までに実に多くの素晴らしい経験ができたことを、とても幸運に思う」と振り返った。

2012年2月20日、国際宇宙ステーションに搭乗した宇宙飛行士と衛星通信をするグレン元上院議員。

そんなグレン氏も、深く後悔していたことがひとつあったという。それは、月面着陸が果たせなかったことだ。その偉業は、同じオハイオ州出身のニール・アームストロング氏が達成した。

アームストロング氏は、グレン氏の初飛行を「今までの宇宙飛行の記念日すべての中で、最も重要なものだ」と述べた。

「ジョン・グレン氏は、アメリカが国民に授与するあらゆる名誉を受けるに値する人物だ。彼はアメリカの愛国者である」

NASAはグレン氏を「真のアメリカンヒーロー」と呼んだ。

地球を周回した最初のアメリカ人、グレン氏の死去を悼みます。真のアメリカンヒーロー。成功の象徴、ジョン・グレン。星を目指すんだ。

Rest in peace John Glenn. You reached for the stars. Thanks for bringing us along. #JohnGlenn (🎨: @geesubay)

Huffington Postさん(@huffingtonpost)が投稿した動画 -

ジョン・グレンよ安らかに。星にたどり着きましたね。私たちを連れて行ってくれてありがとう。

ハフィントンポストUS版より翻訳・加筆しました。

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