あなたは本当のフィデル・カストロを知らない。カメラの前で見せた圧倒的な存在感(画像集)

写真を通して、カストロの人生を振り返ってみよう。

11月25日夜に亡くなったフィデル・カストロ前国家評議会議長は死の数カ月前、自身の人生と遺産を振り返っていた。

8月、最後となった誕生日の直前、カストロは半世紀近く統治してきたキューバに与えた影響について自身の考えを語った。「もうじき私は90歳を迎えるが、こうなるとは思いもしなかった」とカストロは語った。「もうじき、私は他の全ての人々と同じ所に行く。誰もが、その時を受け入れなければならない。しかし、キューバ共産党の思想は続く」

熱烈な支持者たちは革命を成し遂げた世界的な人物として、批判する人たちは暴君、独裁者として、カストロのことを思い出すことだろう。

写真を通して、カストロの人生を振り返ってみよう。

1953年、フィデル・カストロのポートレイト。

トレードマークのあご髭はなく、1955年にキューバ革命のための資金集めに奔走していた頃のカストロ。撮影場所はニューヨーク。この都市にいるキューバの亡命指導者たちの中で、よく知られた人物だった。

メキシコで射撃練習するカストロ。キューバ東部のマエストラ山脈で、1956年、グランマ号でキューバに上陸し、82人の同志と共にゲリラ戦を開始するまでの準備期間。

1957年9月10日、フルヘンシオ・バティスタ大統領への反乱の指導者を務める一方、時間を稼ぐために山の隠れ家で身を隠している。

1959年1月7日、キューバのカマグエイで、支持者にサインするカストロ。キューバ国民はカストロのハバナへの凱旋を待ち望んでいたが、キューバ新政府の閣僚たちは、新たな改革と再建のプログラムを開始することを初めて各省庁に伝えた。

1959年、ハバナのホテルヒルトンで、息子のフィデリトと座るカストロ。

1959年4月24日、ニューヨークシティのブロンクス動物園で、ベンガル虎を指さすカストロ。

1959年4月23日、ニューヨークで、自分の暗殺計画が摘発されたという見出しが付いた新聞を、楽しそうに掲げるカストロ。キューバ政府関係者によると、カストロは600回以上の暗殺計画をかいくぐってきたという。かつてアメリカ中央情報局(CIA)は、爆発する葉巻や、毒入りのウエットスーツなどを使って、カストロの殺害を計画していたという。

キューバのカストロ政権は、革命政権への軍事的反乱を鎮圧するために、民間人や軍人を逮捕した報道の規制を強化した。カストロと共に写っているのは、弟のラウル・カストロ革命軍事省大臣。

1959年後半、カストロと話している、アメリカの作家アーネスト・ヘミングウェイ。カストロ政権誕生で緊張が高まり、ヘミングウェイはキューバの自宅を離れざるを得なくなり、アイダホ州に移り住んだ。

1960年9月23日、国連演説のためニューヨークを訪問中、ハーレムのホテル・テレサでの緊急の記者会見を開きながら、夕食のステーキを楽しむカストロ。

1960年ニューヨーク、国連総会で演説するカストロ。

1964年の革命記念日に、サンティアーゴ・デ・クーバの大群衆に演説するカストロ。

チェ・ゲバラ(エルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナ)と写真に収まるカストロ(左)。

1971年、記者会見をするカストロ。

1977年、キューバ、ハバナの官邸で写真に収まるカストロ。

ソユーズ38の宇宙ミッションから、宇宙飛行士が戻って来た後、1980年10月、ハバナのホセ・マルティ国際空港でのレセプションセレモニーに出席したラウル・カストロ、キューバの宇宙飛行士アルナルド・タマヨ・メンデス、カストロ、ソ連の宇宙飛行士ユーリ・ロマネンコ。

1998年1月21日、キューバ、ハバナでの歓迎セレモニーに参列したフィデル・カストロ(右)とローマ教皇ヨハネ・パウロ2世。

2016年4月19日、キューバ、ハバナでのキューバ共産党第7回大会最終日に出席するカストロ。腸の病気を患った後、2008年に正式に引退し、近年人前に出ることはほとんどなかった。

2016年8月13日、キューバ、ハバナの「カール・マルクス」劇場で、キューバのラウル・カストロ第2代国家評議会議長(左)、ベネズエラのニコラス・マドゥロ大統領(右)に付き添われて、カストロが90歳の誕生日の催しに出席。

ハフィントンポストUS版より翻訳・加筆しました。

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