キューバのフィデル・カストロ前国家評議会議長が11月25日に死去したと、BBCなどが速報で伝えた。90歳。キューバの国営放送が26日、声明を発表した。
1953年7月、カストロ氏はチェ・ゲバラらとともに武装闘争を開始し、親米のバティスタ独裁政権を打倒。59年1月に革命政権を樹立した。
61年4月、アメリカ(ケネディ政権)はカストロ政権の転覆を狙い、CIAの支援を受けた亡命キューバ人部隊をキューバに侵攻させた(ピッグス湾事件)。3日間の戦闘の末、アメリカ側の部隊はキューバ軍に撃退され、カストロ政権転覆の目論見は失敗に終わった。
一方のキューバ側は、東側陣営のソ連と接近。カストロ氏は社会主義政策に舵を切った。
62年、アメリカはキューバに対し国交断絶を通告し、全面的な禁輸措置を実施。これに対し同年、ソ連がキューバに核ミサイル基地を建設すると、米ソ両国が対立。人類史上最も核戦争の危機が高まったとされる「キューバ危機」が発生した。キューバは東西冷戦を象徴する国の一つとなり、カストロ氏は反米・左翼勢力の象徴的人物となった。
カストロ氏はおよそ50年にわたり、キューバ共産党による一党独裁を敷き、国家評議会議長として君臨した。その間、キューバの教育水準は向上し、医療技術も進歩した。その一方、冷戦終結後にソ連が崩壊すると、サトウキビ栽培による砂糖の生産・輸出に頼ったモノカルチャー経済だったキューバ経済は立ち行かなくなり、多くの人々が国外へと亡命した。
2008年、カストロ氏は国家評議会議長を退任し、弟のラウル・カストロ氏が後継となった。ラウル氏はアメリカとの関係改善を模索。約1年半にわたる水面下での交渉を経て、アメリカとキューバは2015年7月20日、54年ぶりに国交を回復。両国の首都には互いに大使館が設置された。これは「キューバの雪融け」と呼ばれている。
カストロ氏の支持者たちは、彼をキューバ革命の英雄として「キューバを人民の手に戻した男」として賞賛する。一方で敵対者たちは、反対勢力を残酷に粛清する人間と非難しており、その歴史的評価は分かれている。
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