1960年5月から6月にかけて最高潮に達した国民的な運動が「60年安保闘争」だ。
日米安保条約の改定で、アメリカ軍の日本駐留を認める一方で、アメリカが日本への防衛義務を負わない内容になることに、激しい反対運動が起きた。特に5月19日の国会で自民党が強行採決して以後は、国会に抗議デモが連日押し寄せ、ピーク時には30万人を越えた。
6月15日の全学連(全日本学生自治会総連合)の国会突入の際に多数の負傷者が出て、東大生の樺美智子(かんば・みちこ)さんが死亡した。6月19日に条約は自然承認されたが、アメリカのアイゼンハワー大統領の訪日は取り止めとなり、岸内閣は総辞職した。
このときの安保条約改定に基づいて、日米地位協定が結ばれた。この協定に基づいて、沖縄県の普天間基地などの在日米軍基地が今も運用され続けており、米兵の犯罪に対して日本側が十分な捜査ができないなど、多くの課題が残されている。
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