ミャンマーでイスラム教徒の少数派ロヒンギャは、仏教徒が大多数の同国で「不法移民」として扱われ、国籍も与えられないなど長年差別を受けてきた。問題解決の糸口は見えないままだ。
ロヒンギャの人たちが多く住む西部ラカイン州には約12万人のロヒンギャの国内避難民が暮らすキャンプがある。2月中旬、群馬県館林市に住むロヒンギャ難民一家の支援をしている都内の会社員、村木祐子さんが、NGOの活動でミャンマーを訪れた際にラカイン州北部の州都シットウェにある難民キャンプに入った。村木さんへの取材と写真でキャンプを紹介する。
ロヒンギャ難民キャンプの子供たち
■「隣のキャンプまで物乞いに行くのよ」
シットウェには14のロヒンギャの国内避難民(IDP)キャンプがあり、約12万人が暮らしている。キャンプは「公認(Registered)キャンプ」と、「非公認(Unregistered)キャンプ」に大きく分けられる。避難民はキャンプの外に出られないだけでなく、午後6時以降の外出禁止命令が出ていて夜は家に閉じ込められるなど、行動は制限されている。
では、その2つのキャンプはどう違うのか。公認キャンプには国連世界食糧計画(WFP)の援助物資が届くが、非公認キャンプには援助物資は一切届かない。キャンプごとの貧富の差も大きい。
村木さんは最初に非公認キャンプを訪れた。キャンプが集まる地域の一番奥まったところにあった。住人は「掘っ立て小屋」のような決して立派とは言えない家に家族ごとに暮らしていた。
外に仕事を求めることもできない人々は、そんな場所でどう生活をするのか。村木さんが住人に尋ねると、女性は「隣のキャンプまで物乞いに行くのよ」と叫んだ。キャンプリーダーの男性は「昨夜も何も食べていない」と、やせ細って血色の悪い顔で言った。老婆が涙を拭っていた。女性や子供たちが釜や籠を持って物乞いをするため次々とキャンプから出て行くのが見えた。
村木さんは「そのとき、胸が潰れそうになりました」と振り返った。
キャンプ生活の貧しさを説明する住人ら。老婆は涙を拭っていた
公認キャンプの中には初等学校だけはあるキャンプもあるが、非公認キャンプには一切ない。いずれのキャンプも、中等以上の教育を受ける場はない。
「医療の欠落は病人を殺す。教育の欠落は全員を殺す」。国会議員だったロヒンギャ男性チョウフラアウンさんはそう話した。1980年の選挙で当選したが、その後、選挙が無効とされ失職。法律家に転じて人権運動に取り組んできたが、4回逮捕されたこともある。
「ミャンマー政府を通じての寄付金は私たちにはビタ一文届きません。彼らは私たちへの寄付金で警察施設を新築していました」と訴えた。「今や選挙に立候補するどころか投票権すら奪われてしまったよ」と苦笑いした。
■国中の仏教徒によるロヒンギャ排斥運動が拡大
多数派である仏教徒のラカイン人と、少数派のイスラム教徒ロヒンギャ間の争いは、2012年に激しくなった。当時、Facebookにはロヒンギャへの憎悪をかき立てる記事が氾濫し、国中の仏教徒によるロヒンギャ排斥運動につながったという。
暴動は激しさを増し、シットウェの中心地にあるロヒンギャの集落が焼き打ちに遭い、多くの死者も出た。裕福なロヒンギャは最大都市ヤンゴンなどへ逃げることができたが、多くの貧しい人たちは政府が用意した難民キャンプに入るしかなかった。
非公認なのはなぜか。かつて住民らが暴徒に襲われた際、他の集落の人々はなすすべもなく逃げたのに対し、この非公認キャンプの人たちは勇敢に戦ったことが理由だとみられる。報復のため一番奥に追いやり、食糧も与えずにいるのだ。その事情を知って村木さんは「ただ悲惨さに言葉を失った」と語った。
クッキーを子供にあげようとしてキャンプのリーダーに渡すと、奪うように受け取って歩き出した。何も知らない子供たちが無邪気に村木さんたちの車を追いかけてきた
■みずからボートを作って国外に避難する人も
村木さんは、次に公認キャンプに入った。
比較的恵まれた大きなキャンプには小さな商店街があった。キャンプ内で採れた野菜や干魚を売る店や、外からラカイン人が絨毯を売りに来る店もあった。ラカイン人は、キャンプの外に比べて2~4倍の値段で売っているのだという。
ここでお金を持っている人たちは、以前に出稼ぎなどで海外に出た身内からの仕送りがある人もいるようだ。そして、そういった現金を持っている人たちがみずからボートを作り、東南アジアなどに難民として出国するのだという。
公認キャンプでも、小さく貧しいキャンプのリーダーの男性は「WFPからの食糧配給は米や塩、油、たまに豆だ。しかし、いつ何をもらえるかわからない。おかずも無い」と話した。さらに、「雨季には川が氾濫して洪水に悩まされるが、どこにも逃げ場がない。自分たちはただ水に浸かっているだけ。それに日中は暑くてとても家の中にはいられない。自分たちの生まれ育った場所に帰りたい」と訴えた。
食糧、教育に加え、医療も大きな問題だ。キャンプ内にあるクリニックには、医師が週3回、1日3時間だけ外から来る。しかし薬はない。救急患者はシットウェの総合病院に運ばれるが、輸送費3万チャット(約3千円)、警察への許可申請代は2万チャット(約2千円)が必要。現地の人にとっては決して安くない。
しかも、キャンプ全体で、この2か月に30人が下痢や高熱、出産などで病院に運ばれ、19人が死んで戻ってきた。ロヒンギャの人たちは「大金を払って病院に行っても、殺されて帰ってくる」と話しているという。
公認キャンプで、高熱に苦しむが、薬もなく病院にも行けない男性。母親によると、高熱は1週間続き意識はなく、「もう脳に障害があるみたい」だという
■ロヒンギャ居留地跡に予定されるリゾートホテル
村木さんはキャンプを出て、シットウェのダウンタウンに向かった。
ダウンタウンのロヒンギャ居留地の跡には、韓国資本のリゾートホテルが建設される予定だという。焼け残った居留地にはいまでもロヒンギャが住んでいたが、四方を警察のゲートで囲まれ、外に出ることが許されなかった。
キャンプで村木さんを案内してくれた男性、ジャックは、かつてはシットウェ大学で心理学を学ぶ学生だった。しかし卒業前に騒動があり、ロヒンギャの人たちは大学から追い出された。国籍を剥奪されミャンマー国民でないというのが理由だったという。「英語が上手だし、みな向上心が強いんですよ」と村木さんはシャックを思いやった。大学を追い出されたロヒンギャの人たちの中には、通信教育を立ち上げ若いロヒンギャの人たちが高等教育を受ける場を設けようとしている人もいるという。
キャンプのゲートに立つ警察官と村木祐子さん。「許可ある?」と聞かれ満面の笑顔で「マシーブー(無い)」と言うと、入れてくれたという
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