宮城県南三陸町を車で走っていると、視界は盛り土で埋め尽くされた。カーナビ上では存在しないはずの道は、盛り土の上をくねくねと曲がり、まるで迷路のようになっていた。5年前のあの日、この地には高さ15.5メートルの大津波が市街地へと押し寄せた。死者・行方不明者は計832人。当時の人口の4.6%にもなる。
津波に耐えられるように土地をかさ上げするために積まれた盛り土の合間に、赤い鉄骨の残骸がポツンと取り残されていた。震災の津波で職員ら43人が犠牲になった南三陸町の防災対策庁舎だ。
読経する真言宗の僧侶たち。震災後に宮城県に転居した僧侶は「1カ月に1度、沿岸部を回って供養しています。普段は1人ですが、3月には日本各地の真言宗の僧侶もかけつけてくれる」と話す。(3月4日撮影)
防災庁舎の周囲は、4月1日から立入禁止となる。2018年3月末まで2年間かけて、町が震災復興祈念公園の整備をするためだ。しばらくは見納めとなるため、撮影や献花に訪れる人々の姿が目立った。
防災庁舎は解体から保存をめぐって、これまで町内の意見が大きく対立してきた。しかし、2015年6月、宮城県が震災の20年後に当たる2031年まで県有化し、一時保存することが決まった。20年間は解体を保留したうえ、町で改めて解体の是非を判断することになった。
このまま震災の記憶を伝える「震災遺構」として残るのだろうか。「20年後まで県有化」と結論を先送りする形になったことを地元はどう感じているのか。遺族や生存者の声を聞いた。
■「原爆ドームに匹敵する価値がある」と保存を勧める声
志津川小学校のある高台から撮影した防災庁舎。周囲を盛り土で囲まれている(3月5日撮影)
宮城県・震災復興企画部の担当者は「2013年11月に復興庁が震災遺構の支援策を打ち出したことがきっかけでした」と説明する。
宮城県では復興を急ぐために、震災から3年目に当たる2014年3月までに災害廃棄物の処理を終える方針だった。気仙沼市の住宅地に取り残されていた大型漁船「第18共徳丸」は解体された。南三陸町の防災庁舎も佐藤仁町長が解体を表明するなど、震災遺構が消える動きが相次いでいた。
遺構の保存には多額の費用がかかるのも一因だった。復興庁が「震災遺構を1市町村につき1カ所に限り初期費用を国が負担する」という方針を打ち出したことを受けて、宮城県は沿岸部の市町村長を招集して、遺構をリストアップし、有識者会議で保存すべきか検討することになった。
南三陸町の防災庁舎は、7カ所挙げられた県内の震災遺構の中で唯一「◎」がついた。「広島市の原爆ドームに劣らないインパクトがある」「町だけに対応を任せるのは負担が大きいため、県などの第三者の関与も検討を」と保存を勧める声が委員から出たという。
これを受けて2015年1月28日、村井嘉浩知事が南三陸町に出向き、震災から20年後の2031年までの県有化する提案を佐藤町長に伝えた。「20年間の県有化」は、原爆ドームの保存が決まるまで20年かかったことに倣ったという。南三陸町はパブリックコメントで賛成が6割を占めたことを受け、県の提案を受け入れた。こうして2015年12月18日、防災庁舎は県有化された。
■「未来の大人が決めた方がいい」夫を亡くした内海明美さん
内海明美さん(3月4日撮影)
南三陸町の志津川地区にある仮設商店街「さんさん商店街」から少し離れたところに、地元の人の憩いの場となっている喫茶店「こもんず」がある。その経営者、内海明美さん(44)は、教育委員会の課長補佐だった夫を防災庁舎で亡くした。
「震災当日、自宅で一度夫に会っているんです。夫は資料整理で自宅に戻っていたんですが、緊急配備のために教育委員会に戻りました。その後、部下を避難させた後に防災庁舎で亡くなったそうです。なぜ防災庁舎に行ったのかは分からないんですが、そのときに庁舎内で見たという人がいたので間違いないとは思います。夫は4カ月後の嵐の日の翌日、戸倉海岸に打ち上げられているのが見つかりました」
内海さんは震災前、設計事務所に勤めていた。しかし、震災後半年で避難所が閉鎖されると、地域の人が集まる拠点が欲しいと思うようになった。そこで始めた喫茶店を2014年4月にリニューアルしたのが、現在の「こもんず」だった。2人の子供を育てながら、喫茶店の経営から手作り弁当の配達まで行う内海さんに、防災庁舎についてどう思うか聞いてみた。
「自らあそこに行くことはありません。あそこに夫が眠っているわけではないからです。『遺族の心情に配慮して』とか『遺族の感情をおもんばかって』とか、マスコミの人はよく書くけど、遺族だけが決めていいものとは思いません。町に聞かれたときには『私たちが今決めるのではなく、未来の大人が決めた方がいいのでは』と答えていました。その意味では、20年間の県有化という現在の方針は、私が望んでいたことに近いですね」
■「モニュメントは必要ない」義理の息子を亡くした千葉みよ子さん
千葉みよ子さん(3月4日撮影)
一方で、遺族の間では反対論も根強い。歌津地区にあるスポーツ施設「平成の森」の仮設住宅の1軒を訪ねた。「防災庁舎解体を望む遺族会」の副代表を務める千葉みよ子さん(69)だ。彼女は町職員だった義理の息子を防災庁舎で失った。
「佐藤町長は、防災庁舎の前で慰霊式までやって、私たち遺族の前で『解体する』と言い切ったんです。なぜ、その言葉を裏切るのでしょうか。その方針を撤回することについて、未だに納得のできる説明がありません。『原爆ドームのように保存すべき』というけど、あれは戦争を二度と起こさないという誓いのためのもので、地震の被害と同列に語るのはおかしいです。町はパブリックコメントで充分に意見を聞いたと主張していますが、町民にどれだけ知れ渡っていたか疑問だし、みんなが顔見知りのこの町で意見を率直に述べるという雰囲気になっていなかったと思います」
千葉さんにとって家族の命を奪った形となった町役場への不信感は、ぬぐいがたいようだ。とはいえ、震災の教訓を後世に伝えることも重要なのでは......。そう質問すると千葉さんは「モニュメントは必要ありません。防災庁舎を残すべきではないんです。町が高台に移転することで、かつては津波が来たことを語り継げると思っています」と言い切った。
「盛り土は増えたけど、仮設住宅から移るための住宅の建設も進んでいません。買い物するのもコンビニ頼りで、未だにスーパーマーケットが町内にありません。震災前には1万8000人いた南三陸町の人口は、今は1万4000人と減るばかりです。震災から5年たったのに、復興は全然進んでいないんです。マスコミも防災庁舎のことばかり取り上げるのではなく、南三陸町の現状をもっと報じてほしいんです」
■「正しい答えはないし、どちらも正しい」 生還した遠藤健治さん
遠藤健治さん(3月4日撮影)
生還者はどう思っているのだろう。2015年4月まで副町長を務めていた遠藤健治さん(67)に、町内の研修センターで話を聞くことができた。「生かされた10人の1人としては、防災庁舎がこうあるべきというのは言える立場ではないんです」としつつも、被災当時の状況を生々しく証言した。
「あれは町議会の最終日でした。議場で、町長が議案可決の御礼に壇上に立ち、『今後も安心・安全な街づくりを......』と言ったあたりでドドドドドと、ものすごい揺れが襲ったんです。30年以内に99.9%来ると言われていた宮城県沖地震が、『ついに来たな』と直感しました」
遠藤さんは議場から、渡り廊下を伝って防災庁舎に移動した。自家発電装置が生きていたため、2階で危機管理課などの職員らとともに、対応に当たっていた。阪神大震災が起きた1995年に建設された鉄骨造りの庁舎で、当時想定されていた高さ6.5mの津波にも耐えられる設計だった。だが、南三陸町を襲った津波の高さは想定の2倍以上の15.5mだった。庁舎は屋上のアンテナ部分以外を残して、全て水面下に埋まった。
「津波の水かさがどんどん上がってきたので、最後はみんなで屋上に上がったんです。私は最後だったので、屋上の階段のちょっと高い踊り場のところにいました。階段の手すりに必死でつかまりました。頭まで水に浸かり、息継ぎをしようとして泥水を飲み込んでしまった記憶があります。波が来て、すぐ引いていったので、水に浸かったのは1分程度だったかもしれません。気がつくと残ったのは10人だけでした。あれほどいた職員が、水が引いた後にはみんな姿を消していました。私が助かったのは、たまたま階段の手すりが比較的丈夫な造りになっていたからでした」
防災庁舎の最上階には、被災時に遠藤さんがつかまった手すりが残されている(3月4日撮影)
涙をにじませながら遠藤さんは語った。3月11日は、遠藤さんが議会で副町長に再任されたその日だった。「あのとき再任されなければ......」とも思った。でも、防災庁舎の行く末は気がかりだった。道筋だけはつけたいと思って、パブリックコメントを発案し、2015年3月に退任したという。
「同じく生き残った佐藤町長も迷いがありました。最初は保存に前向きでしたが、町長選が近づいた。苦渋の選択で、防災庁舎の前で慰霊祭までやったんです」
町役場としても解体を決めたものの、賛成派と反対派のどちらかについたと見られることを避けるために、公式には「遺族感情に配慮して」ということではなく、『ここで解体を決めないと国からの補助金が出ない』という経済的な事情を挙げたという。ところが復興庁は『震災遺構にするなら初期費用を出す』と逆の方針を打ち出したことが転機となった。
「防災庁舎の解体が決まったこともそうですが、気仙沼の共勝丸が解体されるなど、次々と震災の遺構が消えていくことに国も危機感を覚えたのではないでしょうか。私の想像では、佐藤町長が解体を決意したことが逆に、国や県の対応を促した側面もあると思っています」
最終的に、パブリックコメントを実施して県有化の提案を受け入れることになった。町内を2分する対立になっていた防災庁舎の行く末を、将来の世代に結論を委ねたのだ。
「亡くなった人の多くは役場の職員で、身内を亡くした職員も多いんです。だから、アイデアを募集してもなかなか出てこなかった。家族・親せきには賛成派も反対派もいるし、自分の意見を出しにくい環境でした。正しい答えはないし、どちらも正しい。それならパブリックコメントしかないと提案しました。県有化されたことに、個人的にはホッとしています。防災庁舎は『語る・言わずの遺構』になっています。防災庁舎に手を合わせる人は、防災庁舎の犠牲者だけを思っているわけではありません。防災庁舎を通して、東日本大震災の被災者全員に向けて手を合わせているように、私は思うんです」
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