1956年11月、北朝鮮からの国費留学生が、全ソ国立映画大学の寮の前で写真を撮った。その2年後、映画大学に通っていた10人のうち8人が、北朝鮮国籍を放棄し、無国籍を選択した。北朝鮮留学生による最初の集団亡命だった。
共産主義の理想を求めて闘った亡命者たちは、大半が祖国に帰らず生涯を終えた。亡命者のうち、旧ソ連でカレースキー(高麗人)戯曲文学の代表的存在となったハン・デヨン(ハン・ジン)の生涯を追った、ハフィントンポスト韓国版に掲載されたハンギョレの記事を紹介する。
■2015年8月15日、カザフスタンの「光復節」
高麗人とは、19世紀の中頃からロシアに移住して1937年以降に現在の中央アジア地域に散り散りになった朝鮮民族を指す言葉だ。ロシア語では「カレースキー」という。高麗人をはじめ、130以上の少数民族がカザフスタンに住んでいる。
カザフスタン・アルマトイのゴーゴリ通りに位置する文化休息公園(マキシム・ゴーリキー公園)に一人の老人が現れた。もみの木と白樺が空高く茂った森の道で、背の低い老人はベンチに座った。
高麗人のお祭り「8・15文化祭」が開かれていた。韓服を着た人が公園を一巡し、ドレスとタキシードを着た男女の司会者が舞台の上でロシア語を話していた。野外ステージでは、ユダヤ人、アフガニスタン、チェチェン、ロシア、ウイグル民族の伝統舞踊と歌が続いた。
韓国語を話す人はほとんどいない中で、老人は北朝鮮の語調で言った。「生きている間に、言葉は3回変わったね。日本語から朝鮮語、ロシア語、カザフスタン語。たまにこういう質問を受けるよ。『あなたは何語で考えるの?』」
老人の名前はキム・ジョンフン。全ソ国立映画大学の亡命事件の最後の生存者だ。「歴史の渦に、巻き込まれて逃れられず、どれだけ望んでも、熱烈に何かしたくても抜けられなかった」。文化行事が終わって、公園を後にした。
「朝鮮は私の祖国です。しかし、母のような祖国ではない。懐に抱かれることはなかった。だが、朝鮮半島のために多くの仕事をしたかったし、私たちの同志もそれを望んだ」
最後の生存者キム・ジョンフンは57年前、全ソ国立映画大学に通っていた頃の話を聞かせてくれた。「デヨンは、ロシア語がとてもうまかった。平壌の金日成総合大学でロシア語を専攻したので、ソ連に来て1年で何の不自由もなく話せるほどになった。留学先のソ連では、北朝鮮特有の厳しい党の規律もなく、自由に生活していたんだ。やがて1958年に事件が起きた」
■1958年、全ソ国立映画大学
1958年、ハン・デヨンは混乱と恐怖に耐えていた。先進文明を習得して祖国に献身するため、1952年に旅立った祖国は凍てついていた。
北朝鮮政府の樹立当時は、まだ人民民主主義が存在した。北朝鮮の最高人民会議は1948年9月8日、「朝鮮民主主義人民共和国憲法」を採択し、9日に金日成を首相とする内閣が組織された。内閣は、旧・南朝鮮労働党と旧・北朝鮮労働党の出身者が半々ずつ、全体の70%を占めた。民主独立党、人民共和党、勤労人民党、朝鮮民主党など親社会主義的な中道政党も内閣に参加し、朝鮮労働党が優位に立つ人民民主主義的な性格の政府だった。
しかし1950年代半ばから、金日成の個人崇拝と政敵の粛清が激しさを増した。朝鮮労働党の派閥争いの末、党内の民主主義が消えた。1955年12月5日、南朝鮮労働党出身の代表的人物、朴憲永(パク・ホニョン)が処刑され、1956年には、中国出身者らからなる「延安派」や、ソ連出身者を中心にした「ソ連派」が粛清されていった。
自由な雰囲気の中で留学生とも親しかった駐ソ連大使のリ・サンジョが、1957年に延安派の一員として更迭された。北朝鮮に厳しい冬が訪れた時、共産党の宗主国・ソ連は春を迎えていた。暗殺と処刑に明け暮れたスターリンが1953年に死亡し、1956年2月の第20回ソ連共産党大会で、ニキータ・フルシチョフ第1書記がスターリンの個人崇拝を批判したとの情報が、北朝鮮の留学生とエリート層に知れ渡った。
1957年11月27日、映画大学のシナリオ科に通っていた北朝鮮留学生のホ・ウンベが、モスクワで開かれた朝鮮留学生大会に参加し、金日成の個人崇拝を批判して行方をくらました。大使館の追跡と説得によって、自主的に大使館に戻ったが、すぐに監禁されてしまった。大使館のトイレの窓から逃げたホ・ウンベは、地下鉄に飛び込んで駅員に助けを請うた。ソ連当局に引き渡されたホ・ウンベは、医科大学に留学していた恋人と一緒に亡命した。
北朝鮮は、政治的に不穏な芽を根こそぎ断とうとした。大使館は留学生たちがホ・ウンベの思想に染まるのではないかと焦った。学生の思想を確認したい大使館員の立会いの下、数回の討論が開かれた。
1958年1月22日。冬休みに、ハン・デヨンら6人はモスクワ近郊にあるロシア人の友人所有の空き家に行った。寝食を共にして激しい議論をした。ハン・デヨンが速記で作成した記録からは、激しい悩みが垣間見える。議論の日付は確認されていないが、留学生の考えが亡命へと固まっていった、1958年2月の記録と推定される。
「朝鮮に個人崇拝思想があるか? 私はあると思う。個人崇拝思想は憲法と党内民主主義を抹殺することだ。憲法違反だ。党内民主主義があるか? そもそも映画大学にあるか? ない。1920年の金日成の抗日運動は、初めてのが初めてとなっているが、1917年にソ連に抗日部隊があったのに、現在は1920年の金日成の部隊が初の抗日運動とされている。これは金日成を偶像化することだ。ないことを捏造することだ」(チェ・クギン)
学生たちは1958年2月4日、フルシチョフがスターリンの個人崇拝を批判した「第20回ソ連共産党大会を支持する」との亡命申請書をソ連政府に送った。短いながら北朝鮮の人民民主主義を経験し、「ソ連の春」を肌で感じた留学生にとって、個人崇拝は批判すべきものだった。「ソ連派」が粛清される北朝鮮社会の雰囲気や、シナリオ科に通っていたホ・ウンベが亡命したことで、北朝鮮に帰っても身の安全は保証されないだろうという不安も作用した。
ハン・デヨンが同年6月、シナリオ科を最優秀の成績で卒業した翌日、北朝鮮大使館の要請で、亡命に加わらなかった2人を除く全ソ国立映画大学の留学生全員が退学になった。
信念を選んだが、快適な生活は消えた。行き場がなかった。モスクワから40〜50㎞郊外にあるモニノの森でテントを張った。湖で魚を釣り、近くの集団農場(コルホーズ)で仕事を手伝う代わりに食べ物をもらった。
やがて亡命したホ・ウンベが、ウズベキスタンのタシケントから、米とキムチなどを持ってテントを訪ねてきた。「私たちは今、真の人間になるという意味で、同じ『真』(ジン)という名前に変えよう」とホ・ウンベは提案した。亡命した8人のうちリ・キョンジン、ホ・ウンベ、ハン・デヨンはその後も決意を貫き、生涯リ・ジン、ホ・ジン、ハン・ジンという名前を用いた。
テント生活も2カ月が過ぎた8月。亡命申請が受け入れられた。しかし、与えられたのは赤いソ連の公民証ではなく、移動の自由が制限される緑の無国籍者の一時居住証だった。この情報を伝え聞いた音楽大学のチョン・チュ、劇場大学のメン・ドンウクも後から亡命した。ソ連は北朝鮮との外交関係を考慮して、亡命者をソ連全域に分散移住させた。
リ・キョンジンはモスクワ近郊、チョン・リングは中部シベリアのイルクーツク、ハン・ジンは西シベリアのバルナウル、キム・ジョンフンはロシア北西部の港湾都市ムルマンスク、リ・ジンファンはウクライナのキエフ近郊ドネツク、ヤン・ウォンシクはロシア・ボルガ川に近いスターリングラード、チェ・クギンはカザフスタンのアルマトイに配属となった。
■1965年、クズロルダ
1958年8月23日、亡命許可が降りたハン・ジンはソ連・シベリア西部のバルナウル市のテレビ局に編集委員として派遣された。しかし、作家としての夢を捨てられず、モスクワ近郊に住む仲間リ・ジン(亡命前の名前リ・キョンジン)と手紙を交わしながら、創作活動への悩みを打ち明けた。
ハン・デヨンとキム・ジョンフンも手紙で消息を伝え合った。しかし年を追うごとに、広いソ連に散らばった仲間たちの遠い距離が、それぞれの苦境が、彼らを疎遠にしていった。
若き亡命者たちは異国の地で、年老いて死を迎えた。ハン・デヨン(1931〜93)、チェ・クギン(1926〜2015)は、カザフスタンで持病により死んだ。ヤン・ウォンシク(1932〜2006)は、カザフスタンのアルマトイで暴漢に刺殺された。ホ・ウンベ(1928〜97)はウズベキスタン、リ・キョンジン(1930〜2002)とリ・ジンファン(1933〜2005)、チョン・リング(1931〜2004)はロシアで生涯を閉じた。
ハン・ジンは1963年、現在のカザフスタンのクズロルダに引っ越した。レーニンキチ(現・高麗日報)新聞社の文芸部記者として入社したのだ。その間、新聞社で短編小説と初の戯曲「義父母」を発表した。1965年2月、新聞社を辞めて「高麗劇場」文芸部長となり、本格的に劇作家として歩み始めた。
1932年に文化芸術家らが沿海州ウラジオストクの高麗人集団居住地「新韓村」に設立した劇場は、1960年に世代交代期に入っていた。第1世代の劇作家と俳優たちは、1937年の強制移住を経験した高麗人の哀歓を体験した。劇場は数回の移転を経て、ハン・ジンが第2世代の劇作家として登場した。劇団員は高麗人が住んでいる中央アジア全域で、辺ぴな場所に簡易舞台を設けて巡回公演した。
朝鮮半島が日本の植民地だった1920年代、ソ連の沿海州に住む高麗人は17万人に増加していた。しかし1937年9月、スターリンのソ連政府は高麗人2500人以上を「日本軍のスパイ」の罪を着せて射殺し、高麗人社会を恐怖に陥れた。17万人の高麗人が貨車の荷台に乗せられて強制移住させられた。移住の過程で、2万人が飢えと寒さで死亡したと推定される。高麗人たちは列車に乗って1カ月以上、6000㎞以上を走った。聞いたことのない、知らないところに落とされ、中央アジア全域にばらまかれた。
「1937年秋、ソ連沿海州の朝鮮人は、同じ日、同じ時刻に全員が乗客になった。数十万人が同時に列車に乗った。どれほど多くの車両が使われたか。数千台?数万台?住み慣れた家と家財道具を残し、裸同然で追い出されながらも、誰も『行かない』とは言わなかった。
羊の群れのように従順に列車に乗った。どこに何のために運ばれていくかも知らなかった。老若男女一人残らず、すべて故郷を追われた。列車で生まれた子供もいた。彼らには出生届も死亡届も必要なかった。この世の中に生まれ、地を一度も踏むことなく消えていった。母親だけが胸の中に涙だけを残し、多くの老人と子供が線路脇に葬られた」(ハン・ジンの小説「恐怖」)
高麗劇場は、彼らが泣き、笑う場だった。ばれないようにうつむいて一人で泣かなくてもいい場所。血筋に流れる情緒を欺かなくてもいい安息の場だった。
■1968年、アルマトイ
ハン・ジンは劇場がクズロルダからアルマトイに移転したため、引っ越しをした。劇場は1968年に州立劇場から国立劇場に昇格した。沿海州から中央アジアへ移住した世代や、その子供の世代の高麗人社会に、北朝鮮出身のハン・ジンが飛び込んだ。分断された祖国、真理と自由を失った朝鮮半島、少数民族の異邦人としての哀歓を作品に込めた。
光州事件を扱った戯曲「爆発」、ソ連の賄賂慣行を風刺した「あなたも私も食べて」(1983)、ベトナム戦争を批判した「傭兵の運命」(1967)などは、時事性の高い作品だった。中でも、金日成の個人崇拝と独裁を批判した「生き仏」は、1982年にモスクワのマリー劇場に招かれ好評を博した。後高句麗を建国し、自身を「弥勒菩薩」と称した近世の暴君・弓裔に金日成を重ねた筋書きだった。当時ヒロイン役で出演したパク・マヤ(82)さんは、「戯曲を見た瞬間、北朝鮮の話と分かった。当時の公演はモスクワでとても話題になって、翌日の大半の新聞に記事が出た」と振り返った。
息子アンドレイが成人した1978年、ハン・ジンも国籍を取得した。高麗人社会も変化を経験した。高麗人の子孫たちは、韓国語演劇、韓国語小説を通訳なしで理解できなくなった。高麗劇場の第3世代の俳優たちは、劇場でハングルを学んだ。
1978年に入団したチェ・タチアナ(59)は、「入団してハングルの読み方と発音から学んだ。俳優たちが台本を読むとき、ハン・ジン先生が隣にいらっしゃったが、発音が悪いと額に手を当てて床を見つめていた。先生が顔を上げれば大丈夫という意味だ。もっとうまく読めれば『お、うまいね』とおっしゃった」と回想した。
■2015年、ハン・ジン宅
8月15日、アルマトイにある古いアパートを訪ねた。ハン・ジンは、このアパートから高麗劇場に通い、韓国と北朝鮮の政治的状況を描いた戯曲を書いた。ソ連政府が1970年代、高麗劇場の職員に提供したアパートには、ロシア人の妻ジナイダ(83)と末の息子、孫が住んでいる。ジナイダは耳が遠く、補聴器の電池を交換して片耳に手を当て、慎重に話した。
ジナイダとハン・ジンは1958年8月10日、モスクワのカザン駅で初めて会った。亡命許可書を受け取った直後だった。ジナイダは列車の切符を買うために列に並んでおり、ハン・ジンはどこに並べばいいのか尋ねた。2人は列車の切符を予約したあと、デートすることになった。ロシア文学の教師だったジナイダと、シナリオ科出身のハン・ジンは文学の話で親密になった。ハン・ジンが亡命した理由を聞いたのは、結婚してからだった。
「長いこと、なぜハン・ジンが故国に戻れないか知りませんでした。私も聞きにくかったことですが、彼は答えてくれました。『祖国は今、公平ではない。帰っても自由に真理や事実を言う自由がない。映画大学の学生はこのような状況に反対して亡命した』と話していました」。ジナイダが涙を流した。
平壌のハン・ジンの家族は、手紙を送り、戻って来るよう哀願した。ただ、ジナイダとの結婚と出産を祝い、贈りものを送ってきたりもした。ハン・ジンは、金日成総合大学ロシア語科出身。ハン・ジンの父は従軍記者で、妹も人民軍に服務するエリート階層の一家だった。
「デヨン(ハン・ジン)へ。今夜一晩が過ぎれば10月15日になる。少しの間も忘れることのない私の息子デヨンに近況を伝える。おまえの手紙を受けったということは生きているらしいから、新しい希望が湧いてくるようだ。私はアイロンをかけるのが好きだ。これがければ私はもっと寂しいし、情を込めるところがない。おまえが使っていたアイロンは今、私が使っている。おまえを見るように。デヨン、親はいつも子供が幸せに人間らしく生きるために労力を使う。息子が幸せになることは親への孝行だ。私はおまえが真の人間として生きるために精いっぱい努力するし、助けようとしている」(1958年10月14日、平壌の母がハン・ジンに書いた手紙)」
ハン・ジンは平壌から来た手紙を受け取ると、妻にロシア語で読み上げた。「一緒に住んでいて、時々眠れませんでした。身を裂かれるように兄弟姉妹が分かれた国だと言って悲しんでいました」
■1989年、北朝鮮
ハン・ジンは生涯、北朝鮮の地を踏まなかった。家族との文通は、1960年代に途絶えた。1989年4月、朝鮮劇場アリラン歌舞団が北朝鮮の招待で平壌を訪問し、後輩にあたるハン・ヤコフとソン・ラフレンチ監督が、妹シンオクの手紙をハン・ジンに伝えた。
「夢にも懐かしいお兄さんへ。お兄さん! 物心ついてから一度も呼べなかった名前を心の中で何度も呼びながら手紙を書くこの瞬間、涙はとめどなく流れます。その嬉しさに、この世を去った母、父の思いが重なり、心ここにあらずです。あまりに長い月日が流れ、新しい世代が育った今日、近況からお伝えします。
父は1975年7月2日0時30分、肺がんでこの世を去りました。父の一生は党と祖国への忠誠で一貫しており、私たちの素晴らしい父であり師匠でした。母は1983年9月27日、脳血栓でこの世を去りました。母は普段、『私が死んだら、兄が以前送ってきた灰色の布で作った朝鮮服を着せてくれ』と言いました。死んでも兄を忘れられず、その服を着て旅立ちました。父、母は兄弟山区域のモロリというところに合葬しました。(中略)廃墟から立ち上がった私たちの平壌が、どれほど美しくよみがえったか、おそらくソン先生からお聞きになったと思います。妹シンオク 1987. 6.7」
1992年11月、ハン・ジンは胃がんと診断された。ソ連が解体し、政府の支援は打ち切られ、劇場も財政難に直面した。ホ・ジンがハン・ジンをモスクワの病院に入院できるよう尽力した。
1993年3月、カザフスタン・アルマトイの自宅に帰ったハン・ジンは、ベッドの中で最後の作品を構想した。1990年に韓国とソ連が国交を結んだ。韓国について書きたいと思った。ハン・ジンはタイプライターを胸に最後の作品「ソウルのお客さん」を書き始めた。
ジナイダはハン・ジンの最期を回想した。「いつも『寒い』と言っていました。服をかけてあげてもだめだったので、やさしく抱きしめました。1993年7月13日、彼は突然口を開けて、息を引き取ったのです」
この記事はハフポスト韓国版に掲載されたものを翻訳、要約しました。