「アメリカのフライング・タイガースに感謝する」とチェン・ウェイパンは言う。(YUYANG LIU/THE WORLDPOST)
中国・成都市 —— リビングに足を踏み入れると、チェン・ウェイパンは木製ソファに血管の浮き出た手をついて、身を起こそうとした。そして、少し時間はかかったもののビシッと背筋を伸ばし、立って私たちを迎えた。99年間、この地球上にあったその足で。
訪問者に敬礼しながら、チェンは言った。
「アメリカのフライング・タイガースに感謝する」
フライング・タイガースとは、中国空軍を支援したアメリカ義勇航空部隊のことだ。アメリカの戦闘機パイロットたちの支援を受けて、チェンが日本の滑走路に夜襲をかけたときから73年になる。チェンと仲間たちは基地を取り囲む電気柵をくぐり抜け、アメリカの空爆を見計らってゲリラ攻撃を仕掛けた。そして、日本の戦闘機を2機、破壊した。
その連携攻撃は米中関係が最も良かった時代の象徴だ。アメリカの指揮官やパイロット、技術者たちは、1937年から中国国民党軍を支援していた。当時、国民党軍は中国南西部とビルマのジャングル奥深くで、日本軍による容赦ない攻撃を受けていた。
真珠湾攻撃の4年前、日本は野蛮にも中国へ侵略し、占領を開始した。そのことは今でも、中国人の記憶に深く焼きついている。日本軍は中国北東部から東部沿岸地域全体へと攻撃を展開。そのなかで日本軍は、民間人の大量虐殺や、細菌兵器の利用、性的奴隷制などの行為を行った。
9月3日に北京で行われる超大型軍事パレードでは、1945年の日本の降伏を記念した式典が行われる。習近平国家主席は、中国の最新兵器を誇示し、チェンほか第二次大戦の退役軍人たちに勲章を授与する予定だ。
チェンら国民党軍退役軍人たちの評価は、中国では長年の懸案となっている。中国共産党と国民党とは、第二次世界大戦の前も後も膠着状態にあったためだ。1949年に共産党が勝利して以降も数十年にわたり、戦争で国民党員たちが果たした役割は極めて矮小化され、中国に残る退役軍人たちは「政治的背景」を理由に何度も何度も迫害にさらされてきた。
だが今回、国民党軍の一部の退役軍人(その後の内戦で共産党と戦わなかった者)に対し、与えられるべきものが与えられることになった。地元当局はチェン・ウェイパンのもとを訪れ、北京への旅に十分な健康状態にあるかどうかを確認。チェンは習氏から名誉勲章を授与される。
地元当局はチェン・ウェイパンのもとを訪れ、北京への旅に十分な健康状態にあるかどうかを確認(YUYANG LIU/THE WORLDPOST)
誓いを立てたとき、チェンは23歳だった。
「妻や母を残し、戦場に出かけることを誓います。東北部に侵略して盧溝橋を略奪した、野蛮な日本人を憎みます。日本人が全滅するまで、私たちはけっして戦場を離れません」
その宣誓をもって、チェンは山西省中央部への「わらじ行軍」に参加した。そこでは、日本軍やって来ると、野畑で作業をしている女たちは秘密の中国軍野営地に逃げ込んだ。中国軍の反撃によって日本軍は逃走し、途中でヘルメットを落とす日本兵もいた。チェンと仲間たちはヘルメットを鍋代わりにして粥を茹でた。
そのように積み重ねた小さな勝利も、ある裏切りによって台なしとなった。チェンの小隊は撤退を余儀なくされ、我も忘れて沼地を通り抜けた。泥のなかで「司令官様、助けてください!」と叫びながら溺れていく女性兵士の声を、チェンは今でも覚えている。
のちにチェンは中国南東部とビルマに送られ、中国で唯一現存していた補給陸路であるビルマ公路を再開させるべく戦った。拉孟の戦いでチェンと300人の同士たちは、砲火の雨に突入した。
「弾丸が頭の真上をビュンビュン飛んでいました」とチョウはワールドポストに語った。「私は恐怖に駆られていましたが、歯を食いしばって突撃するしかありませんでした。やらなければ、自分がやられるのです」
あちこちで仲間たちが倒れていくなか、チェンは死んだ兵士の身体で自分を覆い隠し、バッタだらけのトウモロコシ畑へと這った。300人の兵士のうち、この戦いを生き抜いたのは、たった53人だけだった。
チェン・ウェイパンは23歳の時に国民党軍に入隊した。今年チェンは100歳になる。(YUYANG LIU/THE WORLDPOST)
チェンがビルマ公路の北端を開通させようと戦っていたころ、スン・ツーリャンは南端を拡張するレド公路を建設していた。
スンは成都南西部の都市で1925年に生まれた。日本が中国北東部を占領する6年前、そして全面的な侵略を開始する12年前のことだった。スンの父親はタバコの葉を売り、スンは日本の侵略についての歌を歌って育った。
同胞たち
来て聴きなさい
東方に日本がいる
何十年もやつらの軍隊は訓練してきた
アジア全体を統治しようと
中国撲滅が奴らの目的
両親の反対を無視して、スンは17歳で国民党軍に入隊。ヒマラヤ山脈を越えてインドに抜ける「ハンプ越え」で、最初の飛行を行った。そこでスンは、アメリカのジョセフ・スティルウェル将軍のもとで訓練を受けた。スティルウェルはその激しい気質のために「ビネガー・ジョー(気難しいジョー)」とあだ名をつけられていた。
銃の撃ち方とブルドーザーの運転を学んだのち、スンはつづら折りの山岳道路と危険なジャングルを横切る道路を建設するため、アメリカ人とともに働き始めた。スンが中国人以外の誰かと関わりを持ったのは、このときが初めてだった。彼らの小さな優しさは、スンの心にいつまでも残っていた。
国民党軍に入隊したとき、スン・ツーリャンは17歳だった。(YUYANG LIU/THE WORLDPOST)
「私はアメリカの作業員たちに、とても感謝しています」とスンは語った。「毎日、私たちにタバコとマッチを分けてくれたのです」。
チェンには戦いの記憶が、身体に刻み込まれている。地雷でつま先を失い、鼓膜は破れ、腹部には榴散弾の痕が十字模様に残っている。榴散弾を取り出す手術では、麻酔を打つ代わりに、両腕を二人の看護師に押さえられた。
そのような辛い記憶は、今となってはチェン個人には誇りだ。しかし、国の歴史のストーリーのなかでは、未だ緊張の原因となっている。
国民党軍に勝利した中国共産党は、自らを「屈辱の世紀」に終止符を打った国家救世主と歓呼した。この「屈辱の世紀」とは、アヘン戦争に始まり1949年まで続く外国からの侵略と内戦の時代のことだ。日本に対する勝利の栄誉は、毛沢東の反政府軍に惜しみなく与えられた。一方で国民党軍は「帝国権力のご機嫌取り」と蔑まされた。
その後30年間は、かつての地主や知識人、敗北した国民党軍人に対する暴力的な「階級闘争」が次々に押し寄せてきた。
スン・ツーリャンは戦争関連のニュースを切り抜いたスクラップブックを成都の自宅で保管している。(YUYANG LIU/THE WORLDPOST)
チェンもスンも、この頃のことについては記憶が曖昧になる。二人とも、その後の内戦では戦うことはなかったと言い、また、二人とも文化革命中の迫害については、触れることはなかった。スンは戦時中に身につけた技能によって、トラックドライバーの職を得た。チェンは肉屋として働き、その後、建設業界に入ったが、昇進者リストが掲示されても、そこにチェンの名前が載ることは決してなかった。
戦後の迫害によって共産党に対する感情が悪化したとしても、チェンは決してそれを表に出さない。
「習主席に会ったら」と、チェンは断言する。「私は『習主席万歳! 共産党万歳!』と言いたい」
現在、チェンは故郷の成都にある小さなアパートで、娘と孫娘とともに暮らしている。耳が遠くなり、話しかけるときは、かがんで耳に近づき、ほとんど叫ぶようにしなくてはならない。だがチェンの心は柔かくで、話は生き生きとしている。チェンは毎朝、ちょっとした散歩に出かけ、暇なときは携帯ラジオで地元のオペラを聴いて過ごしている。
1世紀にわたる時代を生きて、チェンは祖国が腐敗した帝国の殻を破って出てくるのを見てきた。中国最後の王朝が幕を閉じてわずか4年後に生を受け、軍閥割拠時代、侵略、内戦、アメリカとの戦争、歴史上最大の飢饉、文化大革命、そして30年にわたる経済の奇跡を、チェンは生き抜いてきた。
「政府はただ民衆を食べさせるだけでは問題ですし、人々に対して良いとはいえないです。大学に行こうという考えすら、浮かばないでしょう?」。チェンはワールドポストにそう語った。「あのころ、私たちは貧しかった。私は私立学校に3年通いましたが、それ以上の学費を払うことはできませんでした。何もできなかった。だから私は無教養なのです」
成都のスンのリビングの壁には、彼の兵役を讃える写真と証書が掲げられている。(YUYANG LIU/THE WORLDPOST)
フライング・タイガースに助けられて以来、米中関係には何度も試練があった。共産党の勝利により、外交は23年間も途絶えた。友好関係ができてから何十年かが経った今でも、ハッキングと領土問題によって、再び両国の関係が冷え込もうとしている。
しかし、90歳のスンにとって、今でも一番仲が良かったと思えるのは、ビネガー・ジョーとフライング・タイガースの時代だ。
「私が思うに、アメリカは私たちに友好的だった。だから私はいつも、アメリカ人を敬服してきました」とスンは語る。「もしアメリカが私たちのためにそこにいてくれなかったら、この戦争に勝利するのは困難だったと思います」
この記事はハフポストUS版に掲載されたものを翻訳しました。
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