ジュリアン・ボンド氏死去 公民権運動の指導者 オバマ大統領「彼は英雄だった」

著名な公民権運動家で、全米黒人地位協会(NAACP)前会長のジュリアン・ボンド氏がが8月15日夜、死去したと南部貧民救済法施行機関(SPLC)が発表した。

著名な公民権運動家で、全米黒人地位協会(NAACP)前会長のジュリアン・ボンド氏が8月15日夜、死去したと南部貧民救済法施行機関(SPLC)が発表した。75歳だった。

AP通信によると、ボンド氏は短期間、フロリダ州のフォートウォルトンビーチにて死去した。

バラク・オバマ大統領は16日に発表した声明で「ジュリアン・ボンド氏は英雄であり、彼を友と呼べることを光栄に思います。正義と平等は彼の生涯にわたる使命でありました」と述べた。「彼は、この国を改善するために尽力した人物でありました。人々の記憶に残るのに、これ以上の功績がありますでしょうか」

ボンド氏はテネシー州のナッシュビル出身。ジョージア州アトランタにあるモアハウス大学に通った。在学時に彼は、学生非暴力調整委員会(SNCC)という組織を共同で設立し、若者が公民権運動で明確な意見を主張できるよう支援した。ボンド氏は広報責任者としてSNCCを指導し、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師やジョン・ルイスといった公民権運動の先駆者たちと共にデモの最前線に立ち、1960年代の抗議活動の指導者となった。

ボンド氏は98年から、50万人のメンバーを擁する全米黒人地位向上協会(NAACP)の会長を10年間務めたが、AP通信によると、2010年の改選の時、再任を辞退した。

公共放送局PBSが97年に行ったインタビューで、ボンド氏は公民権運動の成功について語ったが、同時に、さらなる前進が必要だとも認めた。

私が指導している若者たちの今と、同年代だった頃の私と比べると、彼らの人生はずっと豊かで、満ちたりています。彼らに与えられた機会はとても大きく、私の想像を遥かに超えることだって成し遂げられるはずです。そういった意味では、確かに、これは大いなる勝利であったと言えるでしょう。我々はたった5年ほどの期間で、100年近く存続したシステムを打ち負かしたのですから。

しかし我々は、差別とレイシズムを混同させました。また我々は、差別によって生じた貧困と、より広範囲な経済の構造的欠陥によって生じた貧困を混同させてしまったのです。我々は、こうしたことに対処できる戦略を未だに考え出せずにいます。ですから我々は、勝利を収めると同時に、敗北を喫したのです。

SPLCは声明で、ボンド氏は「先見の明がある人物」であり、公民権と人権のために闘った「不屈の闘士」であったと述べた。

「ジュリアンが亡くなった今、この国は最も情熱的で説得力を持った正義の擁護者を失ってしまった」。SPLCの共同創設者モリス・ディーズ氏は、17日朝の声明で語った。「彼が擁護したのはアフリカ系アメリカ人だけではない。抑圧と差別の対象となったすべての集団と個人を擁護した。なぜなら、彼は私たち一人ひとりに共通した人間性があると分かっていたからだ」

ニューヨーク・タイムズによると、ボンド氏は65年から20年間ジョージア州議会の下院議員を務めたが、白人議員たちは彼のことを議会に無理やり入り込もうとする民衆扇動家とみなしていたので、明らかに孤立していた。

ボンド氏は反戦の立場をとり、ベトナム戦争へのスタンスに対して非難を受け、彼と同僚議員との間に緊張をもたらした。

ボンド氏は他の7人の黒人議員と共にジョージア州下院議員として当選した1965年、憤慨した白人議員たちはボンド氏が議会席につくことを拒み、忠誠心がないと非難した。

彼が席を確保するためには、アメリカ合衆国最高裁判所の満場一致の裁決が必要だった。最高裁は、ボンド氏の申し立てを却下すれば言論の自由の侵害となると判断した。

1986年にボンド氏は、ジョージア州の代表として連邦下院議員に立候補したが、SNCCの共同創設者で活動家の同志だったジョン・ルイス氏に敗れた。

ルイス氏は公共ラジオ局NPRの「ウィークエンド・エディション・サンデー(WESUN)」で、ボンド氏と選挙で競合したことで2人の間に「しばらく不和が生じた」と認めたが、長い目で見れば、2人の友情が弱まることはなかったと話した。

ルイス氏は、ボンド氏を次のように形容した。「彼は素晴らしい著述家であり、詩人でした。また、素晴らしいユーモアセンスの持ち主でもあり、涙が出るほど笑わせることが出来ました。そして、とても勤勉な男でありました」と、WESUNの司会者レイチェル・マーティン氏に語った。「とにかく賢い、賢い人でした。素晴らしい人物でした」。

ボンド氏とルイス下院議員は、コメンテーターとして度々ニュース番組に出演し、メディアで指導的な役割を果たす発言者となった。2人はNBCの番組「トゥデイ」や、ザ・ネイション、そしてニューヨーク・タイムズなどに取り上げられた。

AP通信によると、ボンド氏はバージニア大学で歴史学の教授やアメリカン大学の非常勤講師も務めた。

著名な公民権活動家や人権活動家たちは16日、ボンド氏の死を悼んだ。

「人類の歴史ではほんの一握りの人だけが、ボンド氏のように、名誉、尊厳、勇気、そして友情の理想を具現化してきました」。セクシュアル・マイノリティの支援団体「ヒューマン・ライツ・キャンペーン」の代表チャド・グリフィン氏はこう述べた。「簡単に言えば、この国とこの世界がずっと良い場所となったのは、彼の人生と、すべての人に対する正義と平等を追い求めた、彼の献身のおかげなのです。未来の世代がジュリアン・ボンドの人生と遺産を振り返る時、彼らは、愛の名によって憎悪を打ち破った善の戦士を見出すことでしょう。私は、良き友であり、ヒーローでもあるジュリアン・ボンド博士の死を、心から惜しみます」

ボンド氏は、妻のパメラ・ホロウィッツ氏と5人の子供たちを残してこの世を旅立った。

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