10カ国語に翻訳されているロングセラー絵本「ぐりとぐら」シリーズ、小学校の国語の教科書に載っていた「くじらぐも」、映画「となりのトトロ」のテーマ曲「さんぽ」。今の日本で育った大人たちなら、中川李枝子さんの作品にまったく触れてないという人の方が珍しいだろう。
保母として働きながら育児にも奮闘し、のちに日本を代表する童話作家となった中川さんは、「専業主婦という選択肢は全然なかった」と自立心旺盛だった少女時代を振り返る。戦争の思い出を聞いた第1回に続いて、20歳で新設の「みどり保育園」の主任保母となった理由や、働きながら子育てした日々ついて話を聞いた。
みどり保育園は現在の駒沢オリンピック公園内にあった、当時できたての無認可園。41万3600平方メートルもの見渡す限りの原っぱの片隅に、ぽつんと建つトタン小屋の倉庫のような園舎だった。
このみどり保育園と広大な原っぱこそが、のちに「ぐりとぐら」が誕生した場所だ――。
■卒業したらセーラー服をビリビリに裂こうと思っていた
――戦後にいい本と出会ったことが、「保育」の仕事を選択することにつながったのでしょうか。
そうね。子どもに興味があるのと同時に、大人や社会への不信感もあったから。だって軍国主義一色だったのが、いきなり民主主義の世の中になったわけでしょう。それでも結局は子どもの本の魅力に惹かれてしまったのよね。
それで福島から東京に引っ越して、親戚が先生をしていた実践女子学園高校に編入したの。両親は私の進路に関して何も言いませんでしたけど、「そのまま実践女子大学を出て、しかるべきところにお嫁にいけばいい」と思っていたらしいわね。
実践はいい学校だったのよ。でもね、私の嫌いな“良妻賢母”の育成を掲げる学校だったのよねぇ(笑)。しかも当時は大学なのに制服があったのよ。卒業後はセーラー服をビリビリに裂いて捨てちゃおうかと思ってた私には到底無理だった。
そんなときに雑誌の記事で高等都立保母学院のことを知って、『家なき子』が好きだったからそういう(子どもに関わる)職業もいいなあって。村岡花子さんが翻訳した『ジェーン・アダムスの生涯』にも影響を受けたわね。キュリー夫人も憧れたけど、あちらは理数系秀才でしょう。だから私はアダムスのような生き方がいいかな、と思って子どもに携わる保育の職業を選んだんです。
――豊かな読書体験を通じて、「自立した女性」のロールモデルにたくさん出会っていたんですね。
そうそう。それで『ドリトル先生の楽しい家』のような日本一の保育園を作りたい、日本一の保育をしたい、というのが私の夢になったの。
■「絵描きとなら結婚してもいいわ」と言ってみたら
――みどり保育園に就職を決めるとき、「卒業したての新人をいきなり主任保母にする保育園なんておかしい」と周囲は猛反対だったそうですね。
もちろん、みんなに反対されても私は聞く耳持たずよ(笑)。学校の求人票が並ぶ中で「求む、主任保母」と書かれてあるのを見たときに、「これぞ私の行く道だ!」って思ったのよね。何しろ日本一の保育を目指していたから、「主任」っていう肩書きが気に入ったの。
――みどり保育園を立ち上げたのは、当時まだ30歳だった天谷保子さん。園長は天谷さん、主任保母は中川さん。職員2人だけで始まった小さな園だったと聞きました。
無認可の保育園を始める人なんだから、私はてっきり天谷先生はジェーン・アダムスみたいな大金持ちの娘なんだろうと思っていたのよ。ところが、初対面の面接で「この保育園はお金がありません。一円一銭、無駄にできません」って言われてね。多分お給料も(他の園と比べると)一番安かったでしょうね。
でもそんなことはどうでもよかったの。だって遊べる敷地が41万3600平米なんですよ。そこで毎日一緒になって園児と遊ぶんだから、面白くて面白くて。何しろ私は広い原っぱに行きたかったんだから、ほかのことはどうでもいいのよ。
でもね、あたしは自立した女になったつもりでいたのに、周囲の人たちが認めてくれないのは癪に障ったわね。父が「お前ね、あんなんでお給料もらっちゃ悪いよ。お前も園長先生に保育料払ったほうがいいよ」なんてひどいこと言ったのよ(笑)。
――勤め始めてから3年後、23歳で美術家の中川宗弥さんとご結婚されていますね。
結婚するつもりなんか全然なかったんだけどね。馴れ初め? たいしたことないわよ。
私は「結婚する気なんかない」ってずっと言ってたんだけど、両親としては一刻も早くいい人を見つけて、娘を嫁にやりたかったわけ。それで母があんまりうるさいから色々考えて「会社員はいやだわ。そうね、絵描きならいいけど」って言ってやったの。絵描きの知り合いなんか絶対いないだろうと思って。
そしたら「弟が絵描きっていう人がいたわよ」ってご紹介があって。まさかいるなんてねえ(笑)。でもまあそれで結婚しちゃったんですよ。
うちの親は「このご縁を逃したらこの子は一生嫁にいかない」と焦っていて、向こうの親も「この機を逃したら絵描きの嫁になる子なんていない」と思っていたらしいから、そのあたりが一致しちゃったのね。
――1960年代の日本では、結婚した女性は専業主婦になるのが主流でした。家庭に入るという選択肢はありませんでしたか?
全然ないわよ。もうね、通勤時間を節約するために、園の近くに家を見つけて引っ越したくらい。通勤時間が5分に縮まったのよ。
――翌年には長男を出産。息子さんが生後8カ月のときに職場復帰。みどり保育園に一緒に連れて行き、園児たちと一緒に面倒をみていたそうですね。ワーキングマザーとして多忙な日々だったと思いますが、家事・育児の分担はどんな風にされていましたか。
私、息子をお風呂に入れたことなんかほとんどないわよ。おむつだって夫のほうが先にさっと変えてくれたから。夫はそういうのが好きな人で、おだてておけば何でもやってくれたの。だから私の担当は料理だけ。ひとつくらいは私がやるわ、って(笑)。
――新刊『子どもはみんな問題児。』の中にも「お母さんの得意とするものがひとつあれば十分」と書かれていますね。
そう、これは私が全責任を持つと決めたのが「料理」なの。家族全員が毎日おいしく食べられる食事をきちんと用意して、栄養失調にも食中毒にも肥満にもしないこと。毎日の食事に関しては私が全責任を持つ、そう決めていました。
人によってはお裁縫が得意な人もいれば、趣味のいい服を着せるのが上手なお母さんもいるでしょう? 得意なものはひとつあればいいのよ。それが私の場合は料理だったの。
(次回は、8月9日掲載予定です)
中川李枝子(なかがわ・りえこ)
1935年、北海道生まれ。都立高等保母学院を卒業後、みどり保育園に17年間勤務。主任保母として働くかたわら絵本の創作を続け、1962年に出版した『いやいやえん』で厚生大臣賞、NHK児童文学奨励賞、サンケイ児童文化賞、野間児童文芸賞推奨作品賞を受賞。「ぐりとぐら」シリーズ、『ももいろのきりん』など著書多数。
中川さんの最新刊、毎日がんばるお母さんへ向けて語り下ろした『子どもはみんな問題児。』(新潮社刊)が発売中。
(阿部花恵)
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