1915年4月24日、オスマン・トルコ帝国の当局は、当時の首都コンスタンティノープルで200人あまりの知識人グループを率いていたアルメニア人詩人ダニエル・ヴァルジャンを強制連行した。崩壊しつつあるオスマン帝国にとって、詩人、画家、作家、書店、政治家は、独立の気運が高まるアルメニア人コミュニティの中で脅威となっていた。
ほどなくして、オスマン帝国内のアルメニア人キリスト教徒の多くが標的となり、ロシアと結託して帝国への対抗を企てたと非難され、ほぼ殲滅されることになる。アルメニア人の多くは、この大虐殺はたった数名の行動をきっかけにした集団処罰だったと語る。
同年8月、国外退去の波で何十万ものアルメニア人がシリア砂漠へ向かって容赦ない死の行進を強制された。当時の目撃者によると、ヴァルジャンは拷問の末殺害されたという。しかし、ヴァルジャンは命を落とした多くの男性、女性そして子供の中の一人に過ぎなかった。
2015年4月24日、世界各国からアルメニア人がイスタンブールに集まり、その時に亡くなった150万人のアルメニア人を追悼した。この出来事は、後世になって多くの人からアルメニア人大虐殺として知られることになるが、トルコ、アメリカとその他数カ国は認めていない。1世紀が過ぎてなお、殺戮(さつりく)は過去のものになっておらず、地政学的にも微妙な問題を含んでいるため、未だに論争は白熱している。
ここに、この悲劇の規模と範囲を解説したいくつかの数字がある。
1915年から1917年の間に殺害されたと考えられるアルメニア人の数
「レイプとリンチは当たり前のように行われていた」。歴史学者、デイヴィッド・フロムキンはオスマン帝国の没落について書いたピューリッツァー賞受賞作品「平和を破滅させた和平」の中で記した。「その場で殺されなかった者は山や砂漠に食料、水、避難施設も無しに追いやられた。何十万ものアルメニア人が最終的には行き倒れるか殺された」。
学生時代に自分の家族がアルメニア人だと知ったイスタンブールのある男性は、両親から伝え聞いたある話をハフポストUS版に語った。彼の祖父はシリア砂漠への死の行進で疲労困憊し、もう少しも歩けないと進むことを拒否した。死ぬためにもう1マイル歩くより溺れたほうがましだと思い、オスマン帝国兵にそう言った。そして彼によると、兵士たちは彼の祖父が息耐えるまで水の中に押さえつけたという。
1915年4月24日、コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)でオスマン帝国に捕らえられたと伝えられる知識人の数。これにより、大量の逮捕、国外退去、殺戮が始まった。こうしたアルメニア人の多くは後に追放され、ほとんどが殺害された。アルメニア人は虐殺の記念日として毎年4月24日に追悼を行う。
「彼らは集団から優秀な知識人たちを奪って行きました」。パン屋だった父親が逮捕された時、コンスタンティノープルに住んでいたという、アルメニア人出版業者はハフポストUS版にこう語った。「彼らは頭脳だけを奪って、手足となる人々は残して行ったのです」。
現在のシリア北部にあるマスカナの共同墓地で、発見されたと伝えられる死体の数。アレッポ駐在のアメリカ領事であるジェシー・B・ジャクソンは「見える限り、塚には200から300の遺体が地中に埋められている」と、ワシントンへの外電で伝えた。
トルコ政府が主張する、この時期に「戦争や病気で」死亡したというアルメニア系住民の数。トルコ政府は、150万という数字を否定している。
現在トルコで高校生に支給される教科書には、「30万人のアルメニア人が戦争や病気で命を落とした。しかしその間、60万人のトルコ人がアルメニア人によって殺害され、50万人のトルコ人が彼らの土地から立ち退かされた」と記載されている。
1914年以前にオスマン帝国に住んでいたアルメニア人の数。数字はミネソタ大学のホロコースト・虐殺研究センターによる。
1922年時点でオスマン帝国内に残っていたアルメニア人の数。
公式にアルメニア人虐殺を認めている国の数。リストにはアメリカ、イスラエルなどの国は含まれず、これらの国は100周年でもこの殺戮を虐殺と分類することに反対している。ドイツではようやく、これを公式に虐殺として認識すると見られている。
アルメニア人虐殺は現在でも最も論争の的となっている出来事の1つで、特にトルコではオスマン帝国の過去を激しく擁護する動きがある。
もしオバマ大統領が1915年の殺戮を虐殺だと認めればトルコとの関係は悪化するかもしれないが、両国の関係はすでに緊迫している。トルコにはシリアに近い南部に米軍の重要な空軍基地がある。トルコ、アメリカ両政府はシリア危機について角を突き合わせていて、アメリカ主導の連合軍でイスラム国の過激派を標的にしている。
一方でトルコ側は、軍事的努力はシリアのバッシャール・アサド掃討にも向けられるべきだと主張している。170万人を超えるシリア難民を受け入れているトルコに対して、アメリカは同国が過激派を十分に迎え撃つことなく、シリア国境を簡単に越えさせていると指摘した。
ホワイトハウスは、怒る相手を間違えたくないため、「虐殺」という不吉な単語は使いたくない。これは、大量殺戮を虐殺と認めるか否かの議論が増す中で、4月21日に当局者が語ったことである。
アメリカ政府は、殺戮を虐殺と認めないとした決定の中で「地域的な優先順位」を指摘、「事実を十分に率直で公正に認める」よう促すと主張した。これはホワイトハウスが声明で発表した。
この決断は国内外で多くのアルメニア人の怒りを買った。アルメニア人の多くはオバマ大統領が100周年を機会にトルコによる殺戮を虐殺と認め、任期中の業績として残すことに期待していたのだ。
トルコ政府は、1915年の殺戮を虐殺と認めることによって賠償金を求められることを懸念している。
忠実な政府擁護発言で知られるトルコ紙、「デイリー・サバ」に最近投稿されたコラムでは、「アルメニア人が主張する虐殺は、トルコにいるアルメニア人離散民や子孫による策略で、国を二分しトルコ領を占領しようとしているだけである」とまで書かれた。
一方で近年トルコでも、このアルメニア人殺戮の扱いでより融和的な前進がある。トルコのレジェップ・タイイップ・エルドアン大統領は昨年、革新的と思われるスピーチを行った。そこで大統領は、殺害された被害者の子孫に哀悼の意を伝えた。それ以降、温和な空気は広がってきている。
100周年記念祭の下準備と共に、トルコは虐殺との主張から猛烈に自国を防御してきた。組織的な虐殺だと広く見られていることへの見解について、ローマ教皇や欧州議会にも抗議している。
「悪を隠したり否定することは、傷に包帯をすることなく、血が流れるままにしておくようなものだ」。ローマ教皇フランシスコは今月初め、この殺戮を20世紀最初の虐殺と呼んだ後、こう話した。
トルコのエルドアン大統領は、欧州議会が4月15日にこの出来事を虐殺と呼ぶことを投票で決定するや否や、虐殺の議論を退けた。25日、トルコは議論に関してオーストリアに駐在中の大使を自国に引き戻すと発表した。
トルコ側はアルメニア人の死者がいたことは認めているが、あくまでも戦争、病気、当時の混乱による犠牲者だとし、声明でも死亡は系統的にアルメニア人一掃を計画したものではないため、虐殺には当たらないとしている。
エルドアン大統領は先週、「トルコ側に虐殺と呼ばれるような汚点は影すらもないことには質問の余地はない」と述べた。
この記事はワシントンD.C.のニック・ウィングとイスタンブールのブーラック・セイインが取材協力しました。
この記事はハフポストUS版に掲載されたものを翻訳しました。
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