3月14日、宮城県南三陸町の防災庁舎で、訪問者の人々に取材していたときのことだった。男性数人のグループに「観光で来たんですか?」と聞くと意外な答えが返ってきた。「会社の元同僚が津波で流された民宿を4年ぶりに再建したんで、これから泊まりにいくところなんだ」。その民宿を訪ねてみることにした。
南三陸町の中心街から2kmほど離れた袖浜地区の小さな岬に、「明神崎荘」はあった。宿の名前は、その岬の名前から採ったという。赤く染まった夕日が、志津川湾の漁船に反射してキラキラと光っていた。新築の3階建ての建物に入ると、経営者の佐々木昌則さん(48)が出迎えた。3月10日にオープンしたばかりだという。
「取材したい」と申し入れると「はい、いいですよ。元同僚から記者の人が来るかもしれないよと聞いてたんです」。慌ただしい業務の合間を縫ってインタビューすることにした。
■想像を絶した光景に「涙は出なかった」
佐々木さんは1966年、南三陸町に生まれた。高校卒業後、都内の大学に進学。仙台市で会社員をしていた。しかし、2005年に父親が亡くなったことが転機となった。袖浜地区の鉄骨2階建ての民宿「向(むかい)」の経営と、カキ養殖を引き継いだ。39歳にして、サラリーマンからの転身。全く畑違いの仕事をすることになった。
民宿の経営も、養殖業も初めての経験だったが、徐々に軌道に乗ってきた。5部屋の民宿が手狭になってきたので、併設する自宅の3部屋を宿泊用に改装した矢先だった。2011年3月11日。運命の日がやってきた。
「養殖カキを上げに行って、岸壁に船をつけてすぐでした。フォークリフトでカキをつり上げてタンクに移動中でしたから。津波が来ると思いました。これは今までとは違う、大きいの来るなと。すぐその場を離れて宿にいた母親と一緒に高台に逃げました。幸いお客さんは泊まってない日でした」
南三陸町は1960年のチリ地震で大きな被害を受けていたが、袖浜地区の被害はなかった。しかし、3月11日の津波は、明神崎の手前にある低い所から流れ込み、民宿「向」をのみ込んでいった。柱の折れる音、木が折れる音が、バチバチ、バチバチと鳴っていた。聞いたこともない音だった。強い引き潮があらゆるものを海に引きずり込んだ。
「祖父から、チリ地震のことはよく聞いてたんです。『大変だったんだ』って。うちの所有する田んぼが志津川の町内にあったんですが、そこも全部津波につかったと聞いていました。でも、袖浜は大丈夫だと思っていました。チリ地震もここに来なかったから来ないという思いは、両親もみんな持っていました」
その日、佐々木さんは近所の民宿のマイクロバスに泊まった。エンジンをつけっぱなしにしてエアコンで暖を取った。情報はカーラジオだけだった。数日後に見た民宿「向」は、壊滅的なダメージを受けていた。
「民宿自体は鉄骨の建物なので、外側は残ったんですよ。でも中に入ってみたら、もう滅茶苦茶な状態ですね。階段を支える太い柱も滅茶苦茶に折れていました。畳も剥がれていて、とても使える状況じゃなかったんです」
その光景を見た佐々木さんは、涙を流すことはなかった。「こんなことが起こるのか」と、ただ呆気に取られていたという。
「あのときは、あまりにも想像を絶したので、涙が出るとか、そういうのは本当になかったですね。何が起きたのかというだけで、悲しいという気持ちにすらならなかったです」
南三陸町の公式サイトによると、震災前の人口は約17000人だったが、町内の死者は620人。行方不明者は213人に上った。町民の約4%が犠牲になった。
■広島への転居 故郷への募る思い
親戚を頼って広島県に向かったところ、広島市営住宅が、被災者への仮設住宅として貸し出すという話を聞いて、入居を決めた。
市の嘱託職員や道路工事の警備員をして、生計を立てた。しかし、佐々木さんの脳裏からは、南三陸に残った人たちのことが離れなかったという。
「別世界に来て、ふるさとから離れてしまったという感覚はありましたね。ふるさとを捨ててしまっていいのかな、という気持ちが強くなってきました。南三陸の土地の権利も中途半端だし、家の流された土地だって、そのままでした。放置した状態で広島に逃げてきたようなかたちで、後ろめたさがあったんです」
南三陸町に立ち寄った佐々木さんは、宮城県が中小企業向けに施設の復旧を補助する「グループ補助金」制度があることを知る。それが転機となった。申請が認められれば、県が4分の3を補助してくれる。諦めていた民宿の再建が実現できるかもしれない。居ても立ってもいられなくなった。
「何でこっちに戻ったのかというと、後悔が嫌だったんです。あのまま広島で暮らしていたら、後ろめたい、責任を果たさなかった、逃げた、という気持ちをずっと引きずることになるだろうと思いました。それは嫌なので、ふんぎりをつけました」
2013年2月、単身で南三陸に戻り、母親の住む仮設住宅に同居しながら、民宿を再建するために奔走した結果、半年後には許可が下りた。新しい民宿は、以前の場所から80mほど内陸に移動。東日本大震災の津波も来なかった高台にした。
当初は漁業はしないつもりだったが、朝晩の食材を仕入れると高価だ。震災後に引退した漁師から中古船を買い、カキ養殖も再開することにした。震災前と気持ちは違うのだろうか。
「震災前は、亡くなった父の跡を継いで、ただ自分の仕事をやっていくという意識が強かったんです。でも震災以降、いろんな人の協力をいただいて、精神的にも、物理的にもお手伝いがあって、ここまで来られました。今度はこの地区のため、南三陸町の観光業のためにと、以前より大きい意識を持てるようになりました。自分のためだけじゃなくて、何か観光業に貢献したいと思ってます。小さい民宿ですけど、そういう思いは以前と違いますね」
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