「今でもチャレンジする年齢です」八木沼純子の"ジョブチェンジする働きかた"【Woman's Story】

プロスケーター、キャスターへと「ジョブチェンジ」していった八木沼純子さん。華やかなキャリアの舞台裏で、その時に抱えた苦悩と決断を語った。
福岡諒嗣

プロフィギュアスケーター、キャスターの八木沼純子さんをゲストに招き、ハフィントンポストイベント「ジョブチェンジする働きかた~選⼿からキャスターへ~」が8月13日、東京・神田のcafe 104.5で開催された。5歳からスタートして22歳まで続けたフィギュアスケート選手としてのキャリア、そしてその後、プロスケーター、キャスターへと「ジョブチェンジ」していった八木沼さん。華やかなキャリアの舞台裏で、その時に抱えた苦悩と決断を語った。

■ 5歳から始めたフィギュアスケート

5歳でスケートを始めたきっかけは、その頃住んでいた家から通える距離に品川プリンスホテルのスケートリンクがあったことが一番大きかったですね。一般開放しているリンクの片隅で幼児のスケート教室をやっていたことから、母親に連れられて始めました。

当時、品川プリンスホテルのスケートリンクはアイスホッケー用、フィギュア用、一般用と3つありました。すごく恵まれた時代でしたね。

そこで、プロ・アマ通じてずっとお世話になっている福原美和先生と出会いました。福原先生との出会いがあったからこそ、私がフィギュアスケートと深く、ずっと関わっていくことになったと言えます。出会っていなかったら、すぐ辞めていたでしょうね。

スケート教室では、転んでは泣くことを繰り返す生徒でした。先生から見ても、すぐに辞めるだろうなと思っていたようです。でも、先生はいつも「痛い」とか「怖い」といった嫌な気持ちを取り除いてくれて、最後は笑顔でまた来週ね、と言って練習を終わらせてくれるのです。アメの使い方がとても上手で、子供の教え方が、とてもうまい先生でした。

私は、福原先生一筋で師事しました。個人スポーツは、先生と1対1で一緒に練習し、競技に臨んでいくものですから、先生との相性は重要です。私もアメリカに留学しようか、外に出てみようかと思ったことはありましたが、「やっぱり福原先生じゃないとうまくいかないな」と思ってしまうのです。

■ 14歳でオリンピック選手に

今は15歳以上でなければオリンピックに出場できないのですが、私が出場した1988年のカルガリー・オリンピックのころは、14歳からの出場が認められていました。その時、私はまだジュニアの選手でした。1987年12月にオーストラリアで行われたジュニア選手権で2位に入って表彰台に上がることができたことから、翌年1月の全日本選手権に出場しました。そこで伊藤みどりさんに次いで2位になり、オリンピックに出場できたのです。

オリンピックは、あっという間の出来事でした。竜巻の中に巻き込まれて、気がついたら全て終わって成田空港に戻っていたような感じでした。結果は14位でしたが、自分で消化しきれないくらいの、あまりに大きな舞台でした。伊藤みどりさんからもたくさんのことを教わり、最高のオリンピックでしたね。

■競技生活を離れ、プロスケーターへのジョブチェンジ

競技生活は大学4年生、22歳まで続きました。私たちの時代は、「フルタイムアスリート」でいられる環境が整っていませんでした。そして、新卒でないと大学卒業者は就職できない時代でもありました。競技生活最後の年は体と気持ちのバランスがとれ、スケートのコントロールも出来てきていたので、「もう1年やろうかな」という気持ちにもなったのですが、「ここまでやった」という達成感もあったので、次のステップに進もうと思いました。

幸いにも、フィギュアスケートの場合は第2のステージが用意されています。それが、アイスショーです。小学校1年のときに品川プリンスホテルで行われたアイスショー「VIVA! ICE WORLD」を見て、「いつかここで滑りたい!」という気持ちが、競技生活時代を通じてずっと頭のなかにありました。私にとってアイスショーは1年に1回夢を見せてくれる場でもあり、自分の中で気持ちをリセットしてフィギュアスケートと向き合わせてくれる場でもあったのです。そしてスケーターとして、プロの技術を得る場でもありました。

大学を卒業する時に、違う業界の仕事につくことも考えたのですが、小さい時からの夢を叶えたい、という気持ちからプロスケーターの道を選びました。

この時は、誰にも相談せず一人で決めました。ただ、父親は反対しました。小さい時からスケートしかしていない私に対して、「お前はスケートしか知らないから、お茶くみでもなんでもいいから1回外に出て仕事をした方がいい」と言いました。でも、私には「人生は一度しかないから、自分の直感は大事にした方がいい」という思いがありました。

アイスショーは競技と違って点数が出ませんが、お客様の拍手が採点の代わりになります。お客様はシビアですね。会場によって拍手が起きる場所が違いますし、お客様が拍手をしながら乗ってくれて「ああ、同じ空気になったな」という一体感が生まれる時があります。毎回反応は違ってくるので、自分で演技のマイナーチェンジをしなければいけません。

プロ転向して1年目は、競技生活から離れて間もなかったので、3回転ジャンプを飛びまくっていましたし、失敗しちゃいけないという気持ちが強かったですね。飛べる時に飛ばないと、と思って必死でした。でも、福原先生がその時、「お客様を全く見ていないよ」とアドバイスしてくれたのです。私も見ているつもりだったのですが、それでも「距離が遠い。ちゃんとお客様と呼吸を合わせて滑りなさい」とおっしゃっていました。つまり、お客様を引き込みなさい、ということですね。誰かと話をしている時に、相手の目を見て話をするのと同じく、お客様と同じリズムで滑ることを心がけるように言われました。むやみやたらに飛ぶだけではいけない、ということですね。お客様を楽しませる、会場を見渡して空気を読む、といったところまで思いが至りませんでした。

■ スポーツキャスターへの道

プロに転向して1年目に、フジテレビの「スーパータイム」という夕方のニュースで、スポーツコーナーのアンカーをやってみないかというお話をいただきました。

やってみて、その難しさを身にしみて感じました。毎日学校に行っているような気分でしたね。アナウンサーの方について1週間特訓した後、すぐに番組に出演したので、原稿の読み方などで、デスクにはさんざんに注意され、トイレでたくさん泣きました。「自分は本当にダメだなあ」と思いながら。

でも、ダメだったら半年で交代させられるから、できるところまでやってみようと思いました。プロとして自分が何をできるか、これもスケートの勉強にもなると思って続けました。全く関係ない仕事かもしれませんが、自分に何が出来るだろうというチャレンジにもなりましたね。そうすると、「意外なことが自分にできるかもしれない」と気づくことがあるのです。

みんなで一つのものを作り上げる。競技も、アイスショーも、テレビも一緒でした。出演者だけで成り立つものではなく、裏方のスタッフ、全体を取りまとめるプロデューサーなど、みんなの力があってはじめて一つのものが生まれるのです。ですから、スポーツ選手の側と、報道する側と両方の立場をよく理解できるようになりました。

最初の頃にお仕事したディレクターさんやスタッフの皆さんからは「誰だかよくわからないキャスターなんかと、やってられるか。俺たちは俺たちでやる」と思われていたようです。初対面は怖くて近寄りがたい人たちでしたが、私は彼らと仕事をしたことで、テレビがとても好きになりました。

他の仕事でも言えると思うのですが、全く関係ない人や何とも思っていない人が、話してみると面白さや考え方がわかってくるものです。苦手だなあ、嫌だなあと思っている人でも仕方ないから仕事をすると、朝から晩まで一緒にいなければいけないわけですから、嫌だけど懐に入っていって、話してみてコミュニケーションが深まるとその人の人柄が納得できるかと思います。心の中では9割は嫌なんですが、1割はそう思うようにします。

自分でも「やらされている」「やらなければいけない」と思っていることが「こういう風にやってみたい」と思うようになります。

自分がいったい何がしたいのか、この仕事について自分はどう考えているか、をいつも心に留めておくようにしています。「考えすぎていたな、もっと気楽に考えればいいな」と思うことは今もしょっちゅうあります。今でもチャレンジする年齢だと思っています。

■ジョブチェンジで一番悩んだのは今年

実は、ジョブチェンジで一番悩んでいたのは、今年になってからかもしれません。

5月のゴールデンウィークから、スケーティングディレクターという仕事に回り、制作側の仕事をしています。アイスショーの各会場に帯同して、チーフディレクターと一緒に毎日スケーターの練習や本番を見ながら指導をしていく生活が7月の半ばまで続きました。

体力的な問題で単発のショーはできるけどツアーは難しくなっているし、40代になったことから、ディレクター側に回りました。

じゃあ、自分はディレクターとしての仕事をどうすればいいのかと考え、上司にあたるチーフディレクターについて学んだ上で、自分の演技の映像を見て、これまでストックしていた技術を伝えようとするのですが、「本当にこれでいいのか。私の道はこれでいいのか」という迷いが大きかったんです。

これまでずっと迷いなく進んできたのに、なぜかこの段階で迷ってしまったんです。

自分の中で全く整理がつかなかったので、これは誰かに相談しなければ…と思いました。でも、マネージャーにも、夫にも、親にも話せないんです。おそらく、彼らにはわからないだろうから。話は聞いてくれると思うのですが、結局「あなたがやりたいんでしょ?」という答えが帰ってくるでしょうし、夫は「じゃあ、やめれば?」ときっぱり言うでしょう。そう言われるとこちらも競技選手魂がメラメラと燃え上がって、「じゃあ最後までやってやろうじゃないの」と思ってしまうんです。

考えに考え抜いて、幼稚園の先輩に相談しようと決めました。元シンクロナイズドスイミング選手でソウル・オリンピックの銅メダリストの田中ウルヴェ京さんです。

「すみません、姉さん。話を聞いていただけませんか…?」と田中さんに切り出し、今の自分の悩みを話したところ、田中さんは、テーブルの上に私の疑問点とやりたいこと、将来どうするのか、といったことを書き出して並べてくれました。

話をしたらすっきりしてしまって、「あ、そうか。迷っていてもしょうがないな」と思うようになったんです。田中さんは「やりたいようにやったらいいよ。でもね、あなた40代でしょう? まだまだ悩む年なんだよねえ」と言ってくれました。

私は甘かったんですね。まだ自分は落ち着く年じゃない、ということに気づきました。考えを凝り固めてはいけない、ということなんです。まだまだこれからも苦悩し、苦労し、チャレンジしなくてはいけないし、いくべきなんです。田中さんから言われて、自分の中でストーンと腑に落ちました。

■ 夫とは「とことん話し合ってお互いやりたいことに進む」

人生の中で迷ったことがもう一つあるとすれば、結婚ですね。私は36歳で結婚したのですが、その頃は仕事も軌道に乗ってきて、自分の中でも仕事に手応えを感じてきていました。「これで結婚したらどうなるかな…?」という不安はありました。そこは夫と徹底的に話し合いましたね。自分がこの先どうしたいか、どんな仕事をしていきたいのか、どんな人生を考えているのか…そんなことをとことん話しました。最初に考えていたことと違って、結婚してみたら「あれ?」と思うようなこともあると考えたので、まずはお互いの考えを話し合う、という機会をたくさん持ちましたね。だから、今でも話し合いはするようにしています。たとえば、結婚した時に自分の夢を話したとしても、今は違うことをしている。そして2、3年先はさらに違うことをしているかもしれない――そんなときに、改めて「自分はこうしたい、これを現実化したい」ということを話すのです。新しい仕事が始まった時や、始まろうとする時には話すようにしています。

一人で何でも突き進むわけにはいかなくなったので、2人で共同生活している中で、お互いに「これをやりたい」ということを話し合うんです。散々話し合って、理解を得てから進むようにしています。

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