2010年6月のサッカーワールドカップ・南アフリカ大会。日本代表に選ばれたDFの内田篤人(うちだ・あつと)を待っていたのは、屈辱の日々だった。
攻撃力を買われて、アジア予選で右サイドバックの主力を務め上げた。しかし、岡田武史監督は本大会直前に守備を重視する戦術に転換。体調不良も重なって、南アフリカの競技場では、1試合も出場することはできなかった。内田は当時の悔しさを、こう振り返る。
「岡田監督(当時)にずっと使ってもらってきたのに最後までもたなかった。チームが勝てなくなり、戦い方が守備重視に変わった時、監督が求める守備力が僕にはなかった。大会後、多くの方に祝福していただいたけど、僕は何もしていないんだっていう悔しさは消えなかった。あんな経験、二度としたくはない」
(朝日新聞デジタル「内田篤人スペシャルインタビュー」)
帰国直後の2010年7月、内田は古巣の鹿島アントラーズから、ドイツのブンデスリーガの名門チーム「シャルケ04」に移籍した。当初は代表戦での負傷もあり低調な滑り出しだったが、秋には右サイドバックのレギュラーに定着。2010年末の欧州チャンピオンズリーグでは、シャルケ史上初のベスト4入りに貢献した。
欧州での活躍で、ザッケローニ監督の目に止まり、ワールドカップのアジア予選では主力メンバーになった。順風満帆に見えた内田だが、念願のブラジル大会目前の2014年2月。またもや運命が彼の前に立ちはだかる。
足を負傷して戦線離脱し、シーズン内にチームに復帰することはできなかったのだ。右ひざ裏の腱損傷で全治3カ月と診断された。手術をしたらワールドカップに間に合わない。すぐに帰国し、古巣のアントラーズのチームドクターを務める香取庸一氏や、日本代表の医療スタッフに治療を依頼。彼らの尽力もあり、再び日本代表に返り咲いた。彼は、こう決意を新たにする。
「これで(W杯は)自分だけの問題じゃなくなった。色々な人の思いを背負って戦うことになる。自分がW杯のピッチに立つ姿をみせないとね。リハビリを一緒にやっていた他競技の仲間や、ドクター、スタッフの人たちに、その姿を見せたい」
(Number2014年7月17号「日本代表23人に問う。」)
■「日本のベッカム」と呼ばれて
内田は1988年生まれ、静岡県出身の26歳。清水東高校を卒業したばかりの2006年に鹿島アントラーズに入団。Jリーグ開幕戦ではチーム史上初の高卒ルーキーでのスタメン出場を果たすなど、プロデビュー当時から「近未来の日本代表」と期待されてきた。スピードと高い技術を兼ね備えた右サイドバックに定評がある。
甘いルックスとひたむきな性格から、日本代表の中でも特に女性人気が高い。シャルケのチームメイトであるGKのラルフ・フェールマンは、「日本のデイヴィッド・ベッカム」と言って本人をからかっていると明かした。
2日に行われたトレーニングに日本から約250人のファンが訪れたようで、フェールマンは、「すごかったよ。ランニングしている時は、ちょっと旅に出ているみたいだったね。ウシ(内田の愛称)が母国でどれだけ人気があるか分かったよ。ロッカールームでは、『日本のデイヴィッド・ベッカムだ』ってからかっているんだ」と、当日の様子を語るとともに、内田のエピソードについて触れた。
(サッカーキング『シャルケGK、同僚内田篤人の人気に驚き「日本のベッカム」』2014/02/04 10:55)
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