サッカー・ワールドカップ直前、最後の親善試合のザンビア戦で終了間際に決勝ゴールを決めた大久保嘉人(おおくぼ・よしと)。5月12日の代表選手発表の際には、2年半ぶりの選出に、「サプライズ」と言われた。
大久保は32歳のベテラン。名門・国見高校の時代から点取り屋として頭角を表し、卒業後プロ入り。セレッソ大阪、ヴィッセル神戸などJリーグにとどまらず、スペイン、ドイツとヨーロッパのクラブでもプレーした。
日本代表には2003年から選ばれているが、ワールドカップに出たのは2010年の南アフリカ大会が初。全4試合に出場し、左サイドハーフとして活躍したが、大会直前に日本代表が守備的な戦術に切り替えたため、守備に追われるシーンが多く、ゴールはなかった。大会後はヴィッセル神戸に所属するが、怪我も多く、チーム戦術もあって、ゴールからは遠ざかる。2012年には所属するヴィッセル神戸がJ2に降格。代表からも選出されなくなった。
転機となったのは、2013年の川崎フロンターレへの移籍だ。ボール保持と、攻撃を重視する風間八宏監督のもとフォワードとして起用されると、再び輝きを放ち、J1リーグで年間26得点を記録。得点王となる。メディアの露出も増えた大久保は、「代表に入りたい」と猛烈にアピールした。
しかし2013年は、大久保にとって復活の年でもあったが、悲しみの年でもあった。
5月、闘病中だった父を亡くす。代表に入り、もう一度ワールドカップに出ることは、父の望みだった。
亡くなった後も克博さんは大久保の将来を見つめていた。死後、病室から見つかった遺書にはこう書かれていた。「日本代表になれ 空の上から見とうぞ」
(MSN産経ニュース「【サッカー日本代表】大久保復帰 「空の上から見とうぞ」亡き父との約束果たす」より 2014/05/12)
父が2010年南アフリカ大会の主力だった息子の代表復帰を望んだのは、Jリーグは地上波でほとんど放送されないが、代表戦なら病室のテレビで見られるからだ。電話で「もう一度代表に入れ」と言う父に「選ばれないんだから仕方ない」と言い返したこともあった。
昨年5月。父は危篤に陥る。「俺が死んでも試合を優先しろ」という言葉を守って、同11日のJ1セ大阪戦で2得点し、同市内の病院に急行した。意識不明だった父は「おお、嘉人、来たか」とぽつり。医師からも奇跡的と言われた。
今月11日。同市内に眠る父の墓前で「選ばれたらいいな」と伝えた。そして代表選出。「父は『嘉人、良かったな』って言うんじゃないんですか。実感はまだ。ぐっとくるのはこれからでしょう。一人になったときになるんじゃないかな」
(毎日新聞「ブラジルW杯:父の死から1年 大久保、遺言通り代表復帰」より 2014/05/12 21:53)
ターンしてディフェンダーを交わす技術と、パンチ力のあるミドルシュートが持ち味のベテランは、大迫勇也、柿谷曜一朗とワントップのポジションを争う。
サプライズとして代表に入った今大会では、常連組とは違った役割も求められている。ザンビア戦では声を荒らげて、チームメイトにシンプルにプレーするよう要求するシーンも見られ、カンフル剤としても期待されている。
最後の最後、手繰り寄せたワールドカップへの切符。大久保嘉人から目が離せない。
【ワールドカップ関連の記事】
ハフィントンポスト日本版はFacebook ページでも情報発信しています。
ハフィントンポスト日本版はTwitterでも情報発信しています。@HuffPostJapan をフォロー