東日本大震災の大津波で、多数の友人や恩師を亡くした宮城県石巻市の大川小学校の卒業生達が4月6日、仙台市で「母校の校舎を遺して」と意見表明を行った。子どもたちの学習支援を通じて心のケアを行ってきたNPOが主催した。
石巻市では震災伝承検討委員会を設置し、2013年11月から3回の会議で、震災の記憶を後世に伝える施設を検討しているが、大川小は事故検証が続いていたことから、検討の対象から除外されていた。市の復興政策課によると、今年3月に一部遺族から市や県を訴訟した動きに絡み、引き続き同委員会では扱わず、「状況を見守りながら、別途検討する」としている。
大川地区は被災の程度が大きく、感情が複雑に絡み合い、大川小学校の被災の話題を地域で口にすることは、大人でも難しい。今回意見表明を行った卒業生5人のなかには、初めて公に出て思いを話した子もいる。全文を紹介したい。
トップバッターは、津波をかぶり、意識を失いながらも、奇跡的に助かった只野哲也君。当時大川小の3年生だった妹を亡くした。只野君は、震災直後から周囲に校舎保存を訴えてきた。今回の意見表明会の実現は、こうした只野君の思いに、4人が「私も同じ」と応えたことがきっかけとなっている。
<只野哲也君 14才>
震災当時の学年は5年生でした。今は中学校3年生です。当時の住まいは、自然に囲まれた、周りが田んぼでいっぱいの谷地中(やちなか)という所に住んでいました。
震災のことについては、「僕の人生が変わった日」だと思っています。そして、それと同じくらい「たくさんの人との出会いがあった日」というのでもあります。
学校については、これからも校舎を残していって欲しいと思っています。
僕はいままで、新聞やテレビなどを通じて、たくさんの人に自分の体験を伝えてきました。これからのことについては、写真を通じて大川のことを伝えていきたいと思っています。
次に、自分なりに大川地区のことをまとめてみました。
大川地区はとても緑豊かで、大川地区に住んでいると、景色で自然を感じることができるほど、とてもいい所です。すぐ近くには北上川が流れ、そこではハゼやスズキ、サクラマスなどの魚が生息していて、釣りに来る人も多くいました。
僕のおじいさんはシジミ漁をしていました。海水と真水の混じる汽水域で生息するベッコウシジミは、アサリと同じくらい大きくて、とても美味しいシジミです。他にもたくさんの、田んぼで取れた米や地元でとれた野菜などで、自給自足ができるほど恵まれた地域でした。そんな地域にあったのが、大川小学校です。
大川小はいつも地域の中心でした。学校行事があるたびに地域の方々が集まって、地域全体で盛り上げていました。「僕はここに生まれてきて本当に幸せだ」と、いつも思っていました。
しかし2011年3月11日。東日本大震災により、私たちの故郷、友達、先生方、大好きだった地域の方々が、たくさん亡くなってしまいました。
僕はこんな思いを、もう二度と他の人に味わって欲しくない。そう思い、僕は新聞やテレビを通じて多くの人に伝えようと、活動してきました。そして今日、このような場所をお借りして、皆さんに伝えることができています。最後に、私たちの思い出がこれ以上壊されることのないように願っています。
司会:どうですか? この場で話をしてみて。
只野哲也:僕が思っているのは、 10年後……ま、もっと経つかもしれないんですけれども、登米市の明治村(「みやぎの明治村」)っていうところがあるんです。明治時代の校舎だったり交番があって、行けば当時のことがそのままわかる、歴史や文化がわかるような、簡単でわかりやすく理解できるように伝えられるような街になっています。そういう風に、大川小も、行けば地域の文化をわかるように、初めて来た人でも「大川はこういう所だ」っていうのを知ってもらえるような所になっていけばいいなと思っています。
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次の3人は、当時卒業式を控えた6年生だった。進学した中学校が、2012年度で閉校・他校に合併となったことも、辛い事実として語られている。思いの詰まった場面で、言葉が所々途切れそうになりながらも、丁寧に言葉をつないだ姿が印象的だった。
<成田涼花(すずか)さん 15才>
震災当時の学年は、大川小学校の 6年生でした。現在は、高校1年生になります。当時の住まいは、長面(ながつら)という海のすぐ近くにある地域です。現在は、仮設住宅に住んでいます。
震災で大事な人を失って、つらいなか、大川中学生として入学はできたけれど、校舎は他の中学校の校舎を間借りしての生活でした。大川中学校が閉校になって、河北中に統合して、慣れない生活で、すごくつらい時期もあって……。それでもいろんな人と出会って、前向きに物事を捉えるようになりました。
震災前の大川小学校は、海や川、山などの自然に囲まれた学校でした。春から冬にかけて草木を地域に植えたり、秋の校庭にはヒメユリが揺れていました。
このように、大川小学校があることで みんなと楽しく過ごした場所、思い出が蘇ってきます。
そして、広島の原爆ドームみたいに、見るだけで震災の辛さを伝えられると思います。
また、5年後10年後には、大川小学校の中庭に、元々卒業制作で作る予定だったもの(筆者注:ビオトープと、照明や維持管理のためのソーラーや風力発電の装置)を作りたいです。
司会:5年後、20歳になっていますが、どんな大川小学校をイメージしていますか?
成田涼花:自然が……桜とか、いっぱい戻って、自然があふれる大川小学校になってるといいなと思います。
<三條こころさん 15才>
震災当時は、大川小学校6年生で、現在は高校1年生になります。当時の住まいは、涼花さんと一緒で、長面に住んでいました。
震災は私にとって、友達、家族を失って、毎日生きることで精一杯で、つらくて毎日泣いている時もあり、生きるのに必死でした。でも、家族や友達と会って喋ることで、生きる実感が湧きました。いろんなボランティアや支援で前に進めました。
大川の同級生と一緒に泣いてつらい時もあったけれど、いっぱい笑って頑張ってこれました。これからは、震災の時、ボランティアや支援されたことをいろいろな形で、恩返しして、いろんなことに感謝していきたいと思っています。
そして、大川小学校を残して欲しいのは、大川中がなくなり、大川小しかないので、大川小がちゃんと残って欲しいからです。大川小はみんなと過ごした母校だし、大川小がなくなったら、みんなと過ごしてきた思い出もなくなってしまうので、残して欲しいです。大川小に行くと、亡くなった友達も思い出します。だから、大川小を残して欲しいです。
<浮津天音さん 15才>
当時の学年は小学校6年生でした。今は高校1年生になります。当時の住まいは、大川小学校から2キロほど離れた場所にある、谷地というところに住んでいました。
震災当時、卒業をあと1週間に控えた最高学年の6年生でした。私を含め、3人(筆者注:成田さんと三條さん、浮津さん)は、学校で被災しました。私は校庭に避難後、母の迎えで学校を後にしました。
一旦家に帰りましたが、堤防を津波が越えてきたので、車で津波に追われながら、大川の針岡という山側の地区で一時避難しました。そこから夜が明けてみると、瓦礫と海水で、家は流されていて、避難することができませんでした。
自力で(北上川の)堤防まで船で地域の人と行って、そこから消防の救助で河北総合センターまで避難しました。そこから避難所生活が始まりました。
ライフラインの寸断があったり、食べ物や飲み物も十分ではなかったんですが、一緒に避難してきた人と協力したり分かち合ったりすることで、なんとかすることができました。
その中で、私はずっと大川小学校と大川のことが気がかりでした。情報が全く入ってこなかったからです。針岡に避難したときに、「大川が全滅だ」と聞いて以来、何も情報が入ってきませんでした。
河北総合センターへ入ってすぐに、友達の両親を見つけました。廊下の角で泣く姿や、掲示板で必死に友達の名前を探す姿、長靴にリュックで子供を探しにいく姿を見て、私は何も言えませんでした。
3、4日経って情報が入ってきましたが、それは全て悲しいお知らせでした。何も言えなくて、遺族の方々の前では素直に泣けない、どうしようもない喪失感のなか、避難所生活をずっとしていました。
1週間が過ぎても、友達や恩師が亡くなったという実感が湧かない日々でした。そんな時に、大川小学校の卒業式を開いてくれました。行ってみると3人で、その時に友達が亡くなった現実を感じました。
1ヵ月が経ちました。いまだに大川だけが気がかりで……避難してからまだ1度も見ていなかったからです。何とかして大川に行けるということなので、大川に行きました。
そこで見たのは灰色の風景でした。瓦礫や海水で、道もない。田んぼもない。ここはどこなんだろう? って、大川はもうないんだ……って、心にぽっかり穴が開きました。
そこから、自分がどこにいるのかわかんなくなっちゃって、いつの間にか中学校に入学して、もう卒業してしまいました。
学校も間借りや統合できつい状態でした。避難所にも、仮設住宅にも、学校にも馴染めることができませんでした。休めないし、みんなギリギリの状態でいました。ですが、そんななか、いろんな人の支えがあって今まで何とかやってこれました。
そんな学校生活の中で、よくみんなと話すのは「if」話でした。「もしもこの場所に○○ちゃんがいたら」「○○くんがいたら、こうなっていたんだろう」っていう話をしました。その話はすっごい楽しくて、でも、友達を思い出すのでつらいこともありました。
いつも思い出すのは、みんなのことだし、大川のこと。海や川、山、田んぼ……いろんな色に囲まれた大川のことずっと思い出していました。
そして、3年が経ちました。今回、大川小学校を「遺すか、遺さないか」という話になりました。私はすぐに「遺したい」と思いました。大川小学校は、大川で残った唯一の形ある場所であって、唯一私たちの心が休まる場所だからです。ちゃんと手を合わせることもできます。いわば、私たちの唯一の「心の居場所」なのです。
大川小学校がなくなったら、どこに行けばいいのかわからないです。私たちは今までそれぞれ、いろんな状況の中を頑張ってきました。これからも背負っていきます。だからせめて、大川小学校という居場所が残っていたらいいなと思いました。卒業制作の話や残したい場所、いろんな思い出がたくさんあるので、私たちの心の居場所としてずっと残っていてくれたらいいなと思いました。
浮津さんは、司会者から、「大川小学校のイメージの色は緑色?」と聞かれると、何度も大きく頷いて、笑顔を見せた。
<佐藤そのみさん 17才>
震災当時は、大川中学校の2年生でした。一学年上の先輩たちの卒業式を午前中に終えて、午後から自宅にいました。地震が来た時は、趣味のギターを弾いていた時でした。現在、石巻市内の高校に通っています。今月から3年生になります。
震災では、当時大川小学校の6年生だった2歳下の妹を亡くしました。妹は1週間後に卒業式を控えていました。
震災があってから、本当に実感がわかなくて、何にも向き合う気力がなかったんですけど、たくさんのボランティアの人と出会って、いろんな話をして、次第に勉強とか自分の好きなことに向き合えるようになって。
間借りの中学校の校舎では、勝手にラジオ番組を作って流したりとか、高校に入ってからは、友達を巻き込んで石巻市内で今映画を作ったりとか、好きなことをやって、自分で回復していったなぁ、という感じです。
大川小のこととしっかり向き合えるようになったのはけっこう最近で、私が今回、「大川小学校を遺したい」って思ったのには、2つの理由があります。
ひとつは、「自分たちの大切な居場所である母校を失いたくない」ということからです。もうひとつは、「大川小学校で起きたことをこれからも伝え続けていきたい」から。この2つの理由があります。
まず「自分たちの大切な居場所である母校を残したいから」ということについてなんですけれど、大川小は、私が6年間通った母校で、本当にいい思い出ばかりで、中学生になってからもみんなで放課後に遊びに行ったり、行事に参加したりしていました。
全校児童が少ない分、どの学年のどの子も、名前も顔も分かっていて、本当に仲良しの学校でした。先生方も大好きで、尊敬できる人たちばっかりでした。
今でもあの校舎に入ると、「ここでこんなことがあったなぁ」とか、6年間のことが思い出されます。私のように、校舎に思い入れのある卒業生がたくさんいるはずです。もちろん、犠牲になった子たちを含む当時の在校生のみんなも、この校舎で授業を受けて、たくさん遊んで、笑ったり泣いたり、他の何にも変えられない時間を過ごしてきたと思います。
たくさんの人が大川小に持つイメージカラーは、砂ぼこりの色だったり、空の灰色だったり、決して良い色ではないと思います。だけど、私が持っている大川小のイメージカラーっていうのは、校舎の屋根の赤色と、空の青と、豊かな自然の緑と、子供たちの笑顔と明るい声の黄色。本当にカラフルで、たくさんの色があって素敵な学校でした。
大川地区が大好きで、小学校の頃、友達と遊ぶときはいつもデジカメを持っていたんですけど、ちょっとその写真をいくつか紹介したいと思います。
(小学生の頃に自ら撮りためた、校舎や校庭、学校のあった釜谷地区や自宅近くの写真20枚程を見せて説明:スライドショー参照)
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このように大川小学校には桜がいっぱいあって、桜並木が綺麗にあったんですけれども、もし大川小を残せるのなら、このように桜の木を植えて、かつての様子を少しでも取り戻せたらいいなって思っています。
そしてもう一つの理由、「大川小で起きたことを伝えていきたい」っていう思いなんですけれども、震災でたくさんの児童や先生方が犠牲になったからこそ、この学校伝え続けていく意味があると思います。
写真や映像で語り継いでいくことはいくらでも可能なんですけど、それでも校舎があるのとないのとでは、伝わりかたが全然違うと思います。校舎を壊してしまったら、本当にあそこはただの更地になってしまうと思います。
大川は本当に素敵な地区で、震災の1年くらい前、中1の時に、「将来は大川を舞台に映画を撮ろう」って勝手に思ったりしていました。あの校舎は、そんな美しい大川のシンボルでもあり、同時に大川小の子供たちが生きた証でもあると思います。
子供たちの元気な姿や笑顔っていうのは、地域にとって最高の癒しだと思うし、元気をもらっていた人がたくさんいると思います。登校中は笑顔で地域の人に挨拶をして、休みの日には外を駆け回って友達と遊んで……っていう大川小の子どもたちは、大川地区の人たちにとっては宝物のようなものだったと思います。
校舎を「見るだけでつらいから壊してほしい」って言う人や、報道関係の人や遠くから来る人がたくさんいて、「校舎が見せ物になっているのが嫌だから壊して欲しい」という人の気持ちもよくわかります。あの場所には悲しい気も記憶がたくさん詰まっているし、大川地区自体、たくさんの人が犠牲になっています。
私自身、震災後大川小に関わるさまざまな出来事に苦しんだこともあります。例えばいろいろな報道や、いろいろな人の声を聞いたり、ネットの掲示板で嫌な書き込みを見ちゃったりとか……すごい苦しいこともあったんですけれど、でも、むしろ校舎がなくなって慰霊碑だけという形になってしまったら、そういう光景を見たら、余計につらくなってしまうのではないかなと思っています。
遠くから来る人の中には、もしかしたら最初遊び感覚で来ている人もいるかもしれません。だとしても、あの校舎を実際に見れば、それまでの考えも意識も変わるのではないかと思います。私はむしろいろいろな場所のいろいろな立場の人に、大川小を知ってもらいたいです。
私はこの3年間、一瞬たりとも大川小の事を思い出したくない、忘れたい、などと感じたことはありません。
どうしても自分自身の気持ちにばかり寄り添った言い方になってしまうけれど、大川小で犠牲になった子供たち先生方のことは、忘れ去られてしまうのは本当に嫌です。
時間が止まらない限り、風化っていうのはどうしても避けることができないんですけれど、それでもその校舎があるだけでも、その風化をちょっとだけ妨げることができると思います。
最後に、“遺す・遺さない”について決定するまでには、長い時間が必要になると思うんですけれども、とりあえず今は、あの校舎を壊さないでそっとしておいて欲しいです。壊してからでは、何もかも手遅れだと思います。
校舎を遺していくにはお金がかかるし、やはり様々な意見は尽きないはずです。それらを承知の上で、私はこれからも、「大川小の校舎を遺したい」と言い続けていきたいと思います。
5人が語ったのは、「震災遺構」というよりは、あくまでも「母校」への思いだ。悲しい出来事のあった場所をして記憶していく覚悟を語る子もいた。それぞれの言葉からは、友だちや地域の人たちと過ごしたかけがえのない時間や美しい景色が、鮮やかによみがえった。
(ジャーナリスト・加藤順子)
市教委との説明会を中心としたやり取りや、検証委員会についての動きは、「大津波の惨事「大川小学校」~揺らぐ“真実”~」 (ジャーナリスト池上正樹との共同連載)で紹介している。
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