3月5日、福島県の田村市役所から国道288号を40分ほど進むと、田村市の都路(みやこじ)地区に入った。2005年に近隣の町と合併するまで都路村と呼ばれていた地域は、残雪で真っ白に覆われていた。都路地区の東端、福島第一原発から20キロ圏内に自動車を進めたが、特にゲートもなく、すんなりと入れた。心なしか緊張した。
都路地区の中でも福島第一原発から20キロ圏内にある地域が、今も住民が自由に住むことができない「避難指示解除準備区域」となっている。約120世帯370人が、避難生活を余儀なくされており、2014年3月現在は市役所に届け出た人のみが宿泊可能だ。
原子力災害対策本部が3月10日に発表した「避難指示区域の概念図」
阿武隈山系ならではの勾配のゆるい丘陵地帯には雪が残っている。人が住んでいない家は屋根から雪が厚いカーペットのようにすべり落ちている。本来は帰還者用に貸し出されている線量計を田村市役所で取材用に借りたが、数値は毎時0.12〜0.15マイクロシーベルト程度と落ち着いている。
何軒か帰還している住民の家を訪ねて話を聞こうとするが「マスコミの取材には何度も答えてるので、他の家に当たってくれ」と言われるばかり。やはり3.11を前にマスコミが群がっていて、住民は取材対応に嫌気が差しているようだ。
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国道から少し入った小滝沢地区で聞き込みを続けていると、玄関に若い女性が現れた。話を聞きたい旨を言うと、「母を呼んできます」と50代の主婦が出てきた。奥からは赤ちゃんの泣き声も聞こえる。「たまたま娘が子供を連れてきてたんですよ」と笑った。除染作業員の夫と、おばあちゃん(夫の母親)の3人暮らしだという。
2013年8月以降は、地震で痛んだ家をリフォームして、すでに借り上げている解除予定地域外の家と、行ったり来たりの生活だという。おばあちゃんは「また原発が爆発したってこの家から動きたくない」と強い意向だそうだ。
8月の特例措置で、届け出さえすれば宿泊も可能になり、現在では半分程度の住宅に人が戻っているそうだ。「指定解除で何か変わりそうですか?」と聞くと「何も変わらない。今まで通りだね」と淡々とした様子だ。
「もともと国が『避難しろ』って言うから避難してたんで、今度は国が『帰れ』というから帰るだけ」と話す。「30キロ圏外の地域に避難したことあるけど、こっちの方が線量が低いんだから」と、特に心配はしてない様子だ。稲作の許可も出たので、今年は家の田んぼで自家用にコメを育てる予定だという。
「地震のときはすごい揺れで、当時は地区内の繊維工場で仕事してたけど、おばあちゃんが心配なんで、あわてて家に駆けつけた。息子が消防団にいるから、双葉郡から避難した人を都路地区の小学校で受け入れてたら、ここも危ないってことで、預金通帳とハンコだけ持って、着のみ着のままで避難したんだ」
4月1日からは、震災前と同じように普通に住めるようになるわけだが、そのときと今で変わったことはないか聞いてみた。
「前はキノコや山菜が採れたんで、美味しい山の幸がたくさん食べられたけど、今はできないね。それに前みたいに都路で仕事に就くのが難しい。車で30分かかる船引まで行けば仕事はあるけど、それも大変だ」
その上で、ちょっと笑ってこんな風に言った。「うちの旦那も、この前いろいろ聞かれたんだけど、やっぱりマスコミの人がたくさん来るようになったのが一番の違いかなぁ」。都路地区の住民にとっては殺到する報道陣をさばくのが、以前の生活との大きな違いのようだ。
子育てをする娘さんが同居する予定は、今のところはないように見えた。4月1日以降に都路地区に戻る住民も多くが高齢者。元々、過疎化が進んでいた山間の集落に、かつてのように子供たちの元気な声が響く日は来るのだろうか。
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