日本テレビディレクター、武澤忠。東京のテレビ局で多忙な日々を送る中、2011年3月11日に発生した東日本大震災により、福島県相馬市の実家で母・順子が被災する。「阪神大震災」「地下鉄サリン事件」「雲仙普賢岳噴火」などさまざまな災害や事件事故を最前線で取材してきた忠が、順子を追い続けた『ディレクター被災地へ帰る 母と僕の震災365日』(2012年3月放送)は、異色のドキュメンタリーとして大きな反響を呼び、順子との共著による震災日記『生きてやろうじゃないの!』も刊行された。
震災から3年を迎える今、あらためて忠は『リアル×ワールド ~3years…母と僕の震災日記~』(3月8日10:30〜日本テレビで放送)で、「母・順子の本音」と「被災地の真実」に迫る。
テレビマンとして、息子として、追い続けた被災地の母は彼にどのように映ったのか。忠のライフストーリーから、東日本大震災発生から3年が浮かび上がる。(文中敬称略)。
■亭主関白の父に反発した少年時代
武澤忠は1964(昭和39)年8月31日、仙台市青葉区にある仙台鉄道病院(現在のJR仙台病院)で生まれた。父・豊は国鉄の職員、母・順子はヤクルトの配達員を務めていた。忠には4歳上の姉・とくがいる。
父方の祖父母の実家は福島県相馬市にあった。母の実家は旧満州に渡り、順子は旅順で生まれている。順子の父は講道館8段で、警察学校の柔道師範を務めていたが、敗戦により無一文となり、引き揚げで父の生家がある相馬から2駅離れた新地町に居を構えた。順子は旧満州にいた13歳頃まではお嬢様のような暮らしをしていたが、一転して田舎でゼロからのスタートとなり、自給自足の農家の暮らしで大変苦労したという。
父・豊は明るい性格だったが、良く言えばマイペース、悪く言えばあまりにも自己中心的な人間だった。酒グセが悪く、まさに亭主関白。母に「ツケ」で酒を買いに行かせることもあった。
「子供の頃は正直言って父が嫌いでした。母に手を上げたこともあるし、給料を家に入れない。ほんの少しだけ生活費を母に渡して、残りは全部使ってしまう。だから家の生活は非常に苦しかった。母がヤクルトの配達をして、姉と僕の3人の生活を支えていたんです」
仙台の県営アパートは6畳2間で、家族4人が暮らすには非常に狭かった。1間は豊が占領し、残りの1間で母と姉弟が押し込められた。その1間で食事し、寝るときはちゃぶ台を廊下に出して隙間のない状態で3人で寝る――それが忠の少年時代の家庭環境だった。
両親は共稼ぎで、姉も少し年が離れていたから下校時間が遅く、家に帰ると一人きりになる「鍵っ子」だった。親の帰りを待ちながらマンガを描くのが好きで、一人ぼっちの寂しさを紛らわせるため、空想を広げながら物語を作る毎日が忠の原点となったという。
「『巨人の星』の放送がちょうどいい場面で終わると、翌週の展開を自分なりに考えてマンガにしたり、自分でオリジナルキャラクターを作ったりしました。自分で同人誌みたいなマンガ冊子を作って小学校の友達に見せたりもしました。空想の世界に逃げることによって現実とのバランスをとっていたから、小学校時代はグレずに済んだのでしょうね」
内気でおとなしい少年だったが、力は強かった。柔道8段の孫だから、喧嘩になっても負けることはなかった。
しかし、中学生になると荒れ始めた。思春期を迎えたのに母と姉と狭い1間で缶詰状態になっていることの抑圧感、そして傍若無人に振るまい、母にもひどい仕打ちを続ける父への反発。包丁を握ったこともあったという。
豊との対立はエスカレートするばかりだった。このままでは殺し合いになりかねないくらい険悪な状況に陥った時、高校を出てすぐに就職した姉から「お願いだから出て行って」と、泣きながら下宿代を手渡された。高校2年の16歳、実家から10分くらい離れた場所で四畳半の下宿暮らしが始まった。食事は実家でとっていたが、父親が帰宅する頃にはすれ違うように下宿に戻る生活だった。
■8ミリ映画を仲間と制作
その一方で物語を作ることは相変わらず好きだった。自分には絵の才能がないことに気づき、漫画家よりも『巨人の星』『あしたのジョー』の梶原一騎みたいな原作者になろうと決心した。集英社で当時創刊されたばかりの『ヤングジャンプ』の原作募集に応募し、最終選考まで残った。
「その時、集英社の編集者さんからお手紙をいただいたんです。『あなたの作品は創造性に富んでいるから続けたほうがいい』という内容でした。すごく励みになりましたね。そこから次第に映画の世界に憧れるようになったんですが、内向的だったから自分が監督になって映画を撮ることは想像できなくて、脚本家になろうと思ったんです。当時は『ふぞろいの林檎たち』の山田太一さんや『北の国から』の倉本聰さんといった脚本家の方たちの全盛期でした。脚本家だったら人と接することもないだろうし、一人でも紙の上で物語を作れる、と思ったんですね」
豊が道楽で買っていたものの、全く使っていなかった8ミリ映写機を下宿に持ち込み、忠の下宿に入り浸るようになった仲間たちと「映画部」を結成し、下宿部屋を部室代わりに8ミリ映画を制作し始めた。
「性格的に、自分が人を動かしてものを作れると思っていませんでした。でも、映画製作に誘ってくれた仲間が演劇部に所属していて、『俺が監督をやるからお前が脚本をやれよ』と言ってくれたから、それならやれるかなと思って映画を始めたんです。元々あった高校の映画部は実際には活動していませんでしたから、人を集めるところから始めました。演劇部で役者を勧誘したり、映画が好きそうな人間を図書館で声をかけて誘ったりしました。自分がリーダーになって人を集めてものを作るのは、それが初めてでしたね。
でも、演劇部だった仲間とは方針が合わず次第に対立するようになり、結局監督を降りてしまったんです。僕は映画を作ることが第一だから、自分がイニシアティブを取るしかないと思うようになっていました。その頃から自分の性格が劇的に変わりましたね。どんなに嫌われようがやりたいことをやるんだ、と自分に言い聞かせて、性格を変えたと言ってもいいですね」
『月刊ドラマ』というシナリオ専門誌に応募し、当時の最年少記録で佳作入選を果たす。この頃から、忠は脚本家の道で生きていきたい、ものを創って人に伝える仕事をしたいという自分の将来像を描いた。
地元で普通のサラリーマンになるより、上京して映画やテレビの仕事をしたい――そんな忠の思いに、当然親は大反対した。豊は道楽者ながら大学出で公務員となり、皆勤賞をもらうくらいコツコツと働く人間でもあった。豊は「そんなことを言うなら金は出さない。地元に大学に行くのなら援助するが、上京して自分の好きな道に行くというなら俺は知らない」と、忠を突き放した。
■映画のスペシャリストを目指して上京
日本大学の芸術学部に進学するという道も考えたが、学費が高いので、奨学生制度の学費割引を利用して、映画監督の今村昌平が開校した横浜放送映画専門学院(現日本映画大学)映画科に映画のスペシャリストを志して入学した。父の反対を押し切り、勘当同然で上京したため親の援助は一切受けられなかったが、「お前は必ず成功する」と信じてくれた母方の祖父が学費を援助してくれた。同期には、演劇科で入ったウッチャンナンチャンがいる。
「自分で逃げ場を作らないようにしたんですね。地元の大学を受けていたら、普通に就職して地元で人生が終わるだろうな、と分かっていましたから。だから大学は一切受けずに、この道しかない、と自分を追い込ませたんです」
しかし、上京してみて、現実の壁にぶち当たる。
「諸先輩を見ていても、純粋に映画だけで食っていける人は少ない、ましてや監督や脚本家で身を立てている人なんてごく僅かなんだという現実を目の当たりにしたときに、自分はやっていけるのかな…と不安になりましたし、商業映画だから、自分が表現したいことよりもヒットすることが優先される。つまり映画もビジネスなんだと改めて気付かされましたね。もちろん、『寅さん』は好きでしたが、自分が商業映画を作ることに興味はない。どちらかと言うと文芸坐ル・ピリエ(現新文芸坐)でやるようなもので、でも見た人の心にはぐさりと刺さるような映画を志向する、どちらかというとマイナーなクリエイターを目指していたので、それが果たして職業して成り立つのだろうかという疑問を持っていました。
高校生時代に佳作を取ったりして変にプライドだけは高くなっていたせいか、学内でも異端児で、喧嘩早かったですね。田舎から上京していたコンプレックスから、なめられてたまるかという反骨心が強かったんです。自分に鎧をかぶせていましたし、一番とんがっていた時期ですね」
2年になって専攻課程に入り、監督コースや脚本コースなどさまざまな課程がある中で、忠はあえて学内でもっとも倍率が高い「編集コース」を選択した。
「監督や脚本なんて人に学ぶものではない、と思っていましたし、編集という技術は映画の根本ですからそれを学びたかった。それに編集コースの先生が浦岡敬一さんだったことも大きかったですね。浦岡先生はドキュメンタリー映画『東京裁判』の編集で文部大臣賞を受賞するなどの大御所でしたから、この方から直接指導してもらえるのはとても名誉なことでした。
雲の上のような存在で、とてもワンマンな先生だったのに、僕はとんがって反発するし、先生の言った通りにやらないものだから、いつも怒鳴られていました」
卒業制作の映画作品は10人くらいの生徒がチームになって行うが、監督は一人しかなれない。浦岡は生徒による選挙で監督を選ぶシステムを採用した。忠は学内一の嫌われ者を自覚していたから、監督に選ばれる可能性は低い。そこで、怒られるのを覚悟しながら自分の持ち票である3票すべてに自分の名前を入れて投票した。浦岡は、忠の投票をすべて有効にしてくれ、忠は監督に選ばれた。
「そのとき、浦岡先生は『武澤みたいに生意気な奴が監督をやったときにみんなは付いていけるか? 私は皆に嫌われている武澤がどうやってチームをまとめていくかを見てみたい』とおっしゃってくれたんです。浦岡先生は僕にとって最初に師匠と言ってもいいですね。
ところが、忠が監督となって制作した作品がまた物議を醸した。
「普通のものを作っても面白くないと思って、ポルノ映画を制作したんです。以前から10代のうちにポルノ映画を作ろうと考えていました。学校の女の子やAV女優を出演させたんです。学校には事前に企画を伝えていましたが、まさか本格的なポルノをやるとは思っていなかったらしく、『品位に関わる』と言われて大目玉を食らいました。ストーリーは女性を心から愛せない男の子を主人公にした青春ものだったんですけど」
学内の先生からは酷評を受けたが、卒業式で校長の今村昌平監督から特別賞を受賞した。
「どうやら浦岡先生が推薦してくださったようですね。バブル目前の時期で活気がありましたし、ましてや僕は失うものが何もなかった。親の反対を押し切って上京しているから、この道で食っていくしかないから開き直れたんです」
■サバイバル生活を送る番組で生涯最高に過酷な海外ロケ
卒業してさまざまな進路が考えられたが、映画撮影所の助監督になると一人前になるまで何年かかるか分からない。忠としては早く自分で撮れるようになりたいという思いから、テレビの道を選択する。
「ものを作るという意味ではテレビでも同じだから、どうしても映画に、という思いはそれほどありませんでした。いずれは映画に、とは思っていましたけど、テレビドラマでも自分のやりたいことは実現できるだろうと」
学校推薦でテレビ制作会社の武市プロダクションに入社し、アシスタントディレクター(AD)となった。ここからかつてない「地獄の日々」が始まる。
「入社した翌日、『僕はこういう番組をやりたい』と言って社長に企画書を出したんです。そうしたら先輩方から『お前は生意気だ』と目をつけられて。そうしたら社長が『武澤君、君には先に学ぶことがある。それを先輩から教わりなさい。企画書は目を通しておくから』と諭されました。そうしたらその4日後くらいに、同期では最初に海外ロケの仕事が決まったんです。やる気は認めてもらったんですね」
その海外ロケが過酷を極めた。
「元日本兵で昭和47年に日本に帰ってきた横井庄一さんが女子大生たちとサバイバル生活を送るという人気シリーズで、当時20%くらいの視聴率をとっていたテレビ朝日『水曜スペシャル』の『絶海の孤島!7人の美女・横井庄一式サバイバルに挑む!!』という番組のロケでした。横井さん自身はリタイアされて、”和製ドラゴン”と言われたアクション俳優の倉田保昭さんが横井さんの命を受けて、7人の美女に加えて2人の経験者を連れてミクロネシアの無人島で1ヶ月のサバイバル生活を送る、というロケでした。
その時のディレクターは、僕が尊敬してやまない後藤和夫さん。現在『報道ステーション』を担当されていますが、なんだかんだ言っても大学卒が幅を利かせている会社の中で、後藤さんは高卒の叩き上げで、大島渚監督の映画に主演するなど役者もやっていたという変わり種でした。だから僕みたいな専門学校出で、頭脳はないけど体力はある人間を抜擢してくれたのだと思います。
このロケが尋常じゃないほど体力的にきつかった。毎日が40℃で灼熱の暑さ。そして仕事はひたすら体力勝負。スタッフはディレクター2人、AD3人にカメラマンとビデオエンジニア(VE)だったんですが、全員男で、その中で僕は一番年下だったから、あらゆる注文と文句とストレスが僕に降りかかってきました。
横井さんがジャングルで生活していた時の竪穴式住居を再現しようとしたんですが、ADである僕が一人で穴を掘るんです。スコップ1丁だけ渡されて、掘り続けました。
このロケの撮影をしていたカメラマンの渡辺さんは、「鬼のナベさん」と言われるくらい厳しい人でした。ナベさんは1、2日くらいじゃ掘れないほどの穴を掘り続けている僕を見て「なんでこんな穴すぐに掘れないんだよ!」と怒鳴りまくっていました。他にも「なんで缶ビール冷えてねえんだ!」なんてよくわからない理由で怒鳴られたり…。僕以外のADの先輩からもひっきりなしに命令されました。
僕はサバイバル生活を送っている女性たちの見張り役だったんですが、女性たちと一緒に寝るわけにいかないので、毎日ジャングルの地べたに寝袋で寝ていたんです。南国の島なので、夜中に激しいスコールが降ると、女性たちはお手製で作った家で屋根があるから雨をしのげるけど、僕だけがダイレクトにスコールを浴びるんです。すると、だんだん虚しくなってきて『俺はこんな南の島で何をやっているんだ』と、スコールの雨が涙と混じって…。その時初めて『田舎に帰りたいな』ってホームシックにかかりましたね。
悔しくて悔しくて、冗談抜きで『みんなぶっ飛ばして、いかだを作って一人で帰ろうか』と思ったくらいきつかった。でも、その怒りのパワーで穴を掘るスピードは加速しましたけど。そうしたら、ナベさんが『なんだ、タケちゃんマン(当時の僕のアダ名)、やればできるじゃねえか』って初めて褒めてくれたんです。その時不覚にも泣いてしまいました。それまで憎さばかり募っていたけど、どんな辛いことでもしっかりやれば人はちゃんと評価してくれるんだ、ということを初めて知って、『もうちょっと頑張ってみよう』と思えたんです。
体力的に限界を超えた中で穴を掘ったり竹を切ったりしていて、『自分の人生でこれ以上辛いことはない』と思ったくらいでした。事実、このロケ以上に体力の限界を超えるほどの辛さを感じたことはありません。逆に言えば、どんな辛いことでも耐えられるだけの自信がついたということですね」
■会社を辞めて全国を放浪、再びテレビ界へ
その後、忠は料理番組のスタッフとなる。3か月近く家にも帰らず編集所に泊まり込む生活や、ルーティーン的な仕事をこなしていくうちに空しさが募ってくるようになった。
「他の同年代は海だ山だと青春を謳歌しているのに、僕はこれでいいのか、と思い始めたんです。早くディレクターになりたいけど、上には先輩が詰まっている。どんどん鬱屈したものがたまっていきました」
その結果、あるロケでプロデューサーと対立したことをきっかけに会社を辞めることになる。その後、沖縄での建築仕事、苗場スキー場での駐車場係、印刷工場での作業、ウェイター、おみやげ店の店員など、さまざまなアルバイトをしながら全国を転々とした。
「どんな仕事でも同じだな、って実感したんです。一生懸命仕事すれば3時に飲むコーラは美味しいし、仕事の後のビールはうまい。どの職場でも嫌な上司がいて、ずるい同僚がいる。だけどちゃんと自分のことを見てくれている上の人もいる。そういった人間関係はどこへ行っても変わりません。こういう社会では自分がどれだけ頑張れるかで周りの評価も変わってくるんだという発見をしました」
およそ1年半の全国放浪を経て、再び東京に戻った時、再びテレビ業界から声がかかる。
「1年半テレビ業界と関係のない仕事ばかりしていると、改めてものを作ることの素晴らしさを思い返して、もう一回テレビの仕事をしたいなという気持ちになったんです。ちょうどその時、卒業した専門学校からテレビディレクター募集の話をもらいました。それが日本テレビの午後3時台、後に『キャッチ』という番組名になるワイドショーだったんです」
こうして忠は「ライトハウス」という制作会社でテレビディレクターの道を歩み始める。1年半しかないキャリアでも、過酷なロケを経験した自信と、「他のディレクターに負けないものを作る」という意気込みがあった。
「最初に僕が取材したのは、藤岡弘、さんの香港映画のロケでした。そこでなぜか藤岡さんと気が合ってうまくできたんです。そのビデオを見たチーフディレクターが、プロデューサーに『こいつはモノになる』って進言してくれたそうです。そのチーフディレクターが、後に『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』のプロデューサーを務める菅賢治さんでした。
■硬派なテーマを朝の情報番組で
ADという下積み期間は、長くて10年かかる人もいる。しかしワイドショーのディレクターは2日間以上徹夜することなど当たり前の体力勝負なので、比較的若いうちに昇格できるという。忠も同年代のディレクターと切磋琢磨しながら、美空ひばりさんの死去や天皇陛下の崩御、紀子さまのご成婚など、当時相次いだ大きな出来事を追いかけていた。
次第に忠の中では、「もっと報道寄りの仕事がしてみたい」という気持ちが強まっていった。そこで、「ファーストハンド」という制作会社に移籍し、同時に日本テレビからTBSへと仕事の場を移すことになる。忠が26歳の時だった。元TBSの生島ヒロシと元フジテレビの寺田理恵子の司会で『ビッグモーニング』という朝の情報番組が1990年の10月に始まり、ディレクターを務めた。
その翌年の1991年春、雲仙普賢岳で発生していた噴火の取材を担当した。
「僕はとにかく最前線で撮影することばかり考えていました。立ち入り禁止区域も突破していったんです。テレビ各局に1人はそういう無鉄砲な人間がいるから、他の局が前に行ったらこちらはさらに前へ…とどんどんエスカレートしていきました。命知らずと言われながら非常線を突破して前に行き、火砕流でやけどしそうになりながら撮影を続けました。
その時の取材班は報道も情報番組も一緒になった合同チームでした。ところが、東京に撮影した映像を送る時、報道の社会部デスクに僕が撮った映像を見られてしまったんです。『これどこで撮ったんだ。お前、非常線突破しただろう』って怒られてしまい、東京に強制送還されてしまいました」
忠が強制送還された翌日の6月3日、大火砕流が発生する。報道スタッフ16名を含む43名の死者・行方不明者を出す大惨事となった。
「おそらく現場にいたら僕が真っ先に死んでいたでしょうね。その時はさすがに恐怖を覚えましたし、テレビは命がけの仕事なんだと肌身にしみて感じましたね」
それ以降も忠は他のディレクターが取り上げないようなタブーを題材にしていった。アイヌ民族問題、ベトナム戦争で散布された枯葉剤の後遺症、沖縄の人が考える天皇制など、硬派なテーマを朝の情報番組で流した。
「僕の仲人を務めてくれた毛利公さんというプロデューサーがとても理解のある方で、『俺が責任を持つからやりたいことをやれ』と、僕達が自由にものを作れるようにしてくれていましたし、いろんなタイプの番組を担当することで腕を磨いていきました」
順風満帆に思えた忠だが、好事魔多しという言葉の通り、大事件を引き起こしてしまう。宮沢りえのヌード写真集が発売される時、協定を破り、公開してはならない写真までテレビで流してしまったのである。宮沢りえの主演が予定されていたドラマ『東京エレベーターガール』が降板寸前になるなど、局を揺るがす事態となった。
「僕は徹夜明けだったこともあり、その時のプロデューサーから『武澤、お前は帰れ』と言われて家に戻ったのですが、翌朝テレビをつけてみたら、そのプロデューサーが番組冒頭で頭を下げていたんです。その時は本当に胸がズキズキ痛みました。しかもうちの番組だけでなく、TBSの他の番組でも写真が使えなくなったので、各番組のスタッフに頭を下げて回りました。この時になってようやく、イケイケでやるだけじゃダメなんだと感じましたし、ある意味仕事に対して意欲が削がれてしまったんです。良かれと思って現場の最前線に体を張って行ったり、視聴者が興味あるものをどんどん提供したりしようとしたことが仇になるんだと」
■報道の最前線で起こった阪神・淡路大震災とオウム事件
そんな忠に再び転機が訪れる。1994年、報道局制作の情報番組『スペースJ』の担当となる。
「報道局はそれまでの情報番組と全く環境が異なっていました。スタッフはほとんどがTBSの社員でしたから、僕みたいな制作会社のディレクターとはどうしても軋轢が生まれました。報道局はものすごく頭もいいし、取材能力もあるけど、編集するという概念があまりない。視聴者に興味を持ってもらえるように伝えるやり方は俺達の方が知っているぞ、と思っていましたから、僕と一緒にワイドショーから『スペースJ』に移った小田大河さんと、『俺達でこの番組を変えちゃおう。俺達は別人種みたいなものだし、失うものがないから暴れてやろう』と誓い合ったんです。
でも、プロデューサーの吉崎隆さんは社員・非社員を分け隔てなく扱ってくれましたから、僕も大事な仕事を多く任されましたし、思う存分暴れ回ることができましたね」
報道の最前線に立った翌年、日本を揺るがす大きな出来事が立て続けに起こる。1995年1月の阪神・淡路大震災と3月のオウム・サリン事件だ。
「阪神・淡路大震災の時は、プロデューサーの方針で、ADまでスタッフ全員が一度は現場に入りました。『未曾有の大災害はテレビを通して見てもわからない。現場に行って絶対にそこで何かを感じるはずだ。それがお前らの財産にもなる』と、一人ひとりに託してくれました」
スタッフの仲間の一人がこう言ったという。
「大工さんが家を直すように、水道会社が水道管を直すように、俺達テレビ屋にもきっとできることがあるはず」
震災1週間後、神戸市の灘区に入った。一面が焼け野原となり、なにもかもが失われた現場を目にしてTBSに戻った後、プロデューサーの吉崎隆がふと漏らしたひと言に反応した。
「神戸の人たちの笑顔が見たいよな。もう暗いニュースは見たくないよな…」
吉崎は、神戸出身だった。忠はそこで仲間とともに、「立ち上がる神戸」をテーマにしないかと提案した。死者が続々と日々増えていく中で、かなり勇気が必要な決断だった。しかし、忠の中では「どんな状況でもたくましく生きる人々の表情、『希望のかけら』を拾い集めるのもテレビの一つではないか」という思いが勝った。
震災の被害を伝えるのではなく、倒壊した酒屋が営業を再開したこと、震災の日に生まれた赤ちゃんなど、あえて笑顔を集めるようにして番組を構成し、エンディングはサイモン&ガーファンクルの『明日に架ける橋』に乗せて笑顔だけを並べる映像を作成した。この番組は放送批評懇談会が優秀な番組を表彰する「ギャラクシー賞」を受賞するなど、大きな反響を呼んだ。
震災報道に注力していたところに、その年の3月にはオウム事件が発生する。『スペースJ』ではサリン事件が発生する前年、松本サリン事件発生後からオウム真理教を内偵して追跡していた。忠は当初、オウムのことを知らずに、上九一色村で盗聴器が仕掛けられている事件の取材を行った。
「取材では盗聴器を発見する専門家の『盗聴バスターズ』の方と一緒に、オウム真理教に反対しているある民家で盗聴器が仕掛けられていることを調査しました。そのとき『修行するぞ、修行するぞ、修行するぞ』っていう変な声が聞こえてきたんです。『どこから流れているんですか?』と尋ねると、『あの、第六サティアンです』と地元の人は答えました。その時はじめて、オウム真理教という異様な存在を肌で感じました。番組では放送しないまま内偵する形で取材を重ねていたから、地下鉄サリン事件が発生した時に、素材をドーンと出すことができたんです」
『スペースJ』は高視聴率で推移し、番組作りにも一層力が入っていたところに、再び運命が反転する出来事が起きる。TBSのワイドショー「3時にあいましょう」のスタッフが、オウム真理教被害者の会の弁護士、坂本堤さんのインタビュー映像を放送前にオウム幹部に見せていたという「TBSビデオ問題」が発覚したのだ。坂本さんが殺害されるきっかけになったとしてTBSは批判の的となり、ワイドショー番組はすべて休止、オウム事件を追い続けていた『スペースJ』も打ち切りとなった。番組も好調で、忠にもTBS社員にならないかという声がかかっていた矢先の転落だった。忠が32歳の時だった。
■原点に戻り、日本テレビのドラマディレクターに応募
番組が打ち切りとなり、忠の中では「ディレクターとしてのピークを見た」思いがしていた。打ち切り後、担当したのは福留功男が司会を務めた情報番組『ブロードキャスター』。当初は忠もモチベーションを高められなかったが、裏番組で、その時間帯の視聴率トップだったテレビ朝日「土曜ワイド劇場」を追い落とすために、「土曜ワイド劇場に出てくるような犯人を探しだすくらいに、こっちは本当の事件を追いかけよう」と、率先して事件を取り上げるようになった。
「それなりに自分の居場所を作ることができましたね。『スペースJ』の時の報道経験を自分なりに生かせたと思います。でも同時に、『俺、もともと東京に何しに来たんだっけ?』と、自分の原点を振り返ったんです。そうだ、俺はドラマがやりたかったんだと。その時たまたま日本テレビでドラマのディレクターを募集していたんです。応募条件を見ると、大卒以上とは書いていなかったので、ダメ元で応募してみたら、書類審査で通りました。
実際に映像作品を作る実技などの審査も通って4次面接まで辿り着いた時、当時の日本テレビの萩原敏雄社長と、もう一人、見知らぬ人が面接官でしたが、その見知らぬ人が、『お前、このV(ビデオ)面白いよ』と言ってくれたんです。『そこは認める。ピカイチだよ』とべた褒めしてくれました。そこで、『お前は本当は何をやりたいんだ』と聞かれたので、僕は『今まではずっと情報番組と報道をやってきたのですが、本当はドラマがやりたくて今回日本テレビを受けました』と答えました。
『でもドラマの経験はあるのか』
『いや、一回もありません』
『これが何の試験かわかっているのか? スペシャリストを入れる試験なんだぞ』
『わかっていますが、ドラマをやりたくてあえて受けました』
と、全て自分の気持ちに正直に答えました。面接している人を見ていたら、初対面なのに心の奥底まで見透かされているようで、この人には嘘がつけないな、と気づいたんです。
あとで聞いたら、その見知らぬ人は、当時専務だった佐藤孝吉さんという人で、『ウルトラクイズ』や『はじめてのおつかい』『追跡』を立ち上げた、日本テレビで初めて現場のディレクターから役員まで上り詰めた天才ディレクターだったんです」
佐藤の勧めもあって忠は日本テレビに入社することになる。しかし、ドラマを志望しているのに情報番組に配属になってしまったら、それまで9年間お世話になったTBSを裏切る形になる。TBSの仲間たちも「ドラマをやるんだったら喜んで送り出すよ」と言ってくれた手前もある。しかし、日本テレビはあくまでスペシャリストを採用したのだから、得意分野である情報番組に配属するのが当然である。このままではまずい、と思った忠は、入社式の挨拶で「今回、ドラマの経験が全くない僕を雇ってくれてありがとうございます」と言い放ち、ドラマをやることを宣言した。
「萩原社長も佐藤さんも困っちゃったみたいですよね。孝吉さんは情報番組に入れるつもりで推薦してくれたのでしょうから。でも僕が宣言した以上ドラマをやらせないといけない雰囲気になったんですけど、孝吉さんからは『ただし、ドラマをやるにしてもお前は経験がないから一番下っ端のサードからだぞ』と言われました」
サードとは「サード助監督」という意味で、ファースト、セカンド、サードと、助監督の中でも一番下のランクに当たる。それでも忠は『それでも構いません、やらせてください』と言った。前日まで他の番組でチーフディレクターをやっていた35歳の忠が、翌日からはサード助監督として今までのキャリアの中でもっとも低いランクからスタートすることになった。
「もっとも出世から遠いコースに行ってしまいましたよね。でもそれが自分の意志だったので」
最初に携わったドラマは松本人志と中居正広が主演の『伝説の教師』。入ってみたら、サードよりさらに下の「フォース」助監督という立場だった。
「仕事は、出演者が出て行った後の楽屋の掃除に始まり、ありとあらゆる雑用を一手に受けなければなりませんでした。寝る暇も食事を取る暇もまったくなく、楽屋の弁当の食べ残しを食べるくらいしかできませんでしたね。ドラマの世界は非常に厳しい縦社会で、ランクが上であれば、いくら年下であろうと絶対服従するしかありません。10歳くらい年下のサード助監督に怒鳴られながら備品を運ぶなど単純作業の繰り返し。悔しくて、眠くて、究極に厳しい3ヶ月を過ごしました。この間で8キロ痩せましたよ。
いろんな理不尽な思いはしましたが、それでも自分で望んで選んだ世界だから、少しでも学んでやろうと思っていました。
次のドラマからはフォースからサードに上がりました。三上博史さんが主演の『ストレートニュース』というドラマで、報道局が舞台だったんです。このドラマでは僕の経験が生きるので、他の助監督にはないアイデアを出すことができましたし、実際に僕の経験談がシノプシス(あらすじ)になったのでとても楽しかったですね」
そうしているうちに年間契約の期限が訪れた。評価が低ければ次の年の年俸は大幅に下げられる仕組みだ。
「僕はランクが低いなりにやっとドラマの面白さを感じられるようになってきていました。ちょっとしたV(ビデオ)も回させてもらったり、深夜番組のドラマの監督などもさせてもらっていました。
でも、会社の評価は極端に低いものでした。それはそうですよね。ディレクターで雇ったつもりの人間がサード助監督をやっているのですから、会社の期待に応えていない、ということですよね。恐ろしく年収を下げられ、かつドラマ班からの移動を命じられました。会社員になった以上は、自分で決められないわけですから。それでも僕がここで情報番組をやったらTBSに対して裏切りになると思ったので、『たとえドラマを出ることになっても情報番組はやりません』と会社に伝えたのです」
そこで、『ザ!世界仰天ニュース』という、ニュースをベースにした再現ドラマの番組をはじめるということになりました。会社からは『でもこれ、バラエティだよ』と言われましたし、僕自身バラエティの経験もありませんでしたが、これならできると思って志願したんです」
■ドラマからバラエティへ試練の連続、そして父の死
ドラマは泣く泣く離れたが、入社2年目で今後はディレクターとしてバラエティに挑戦することになる。いつかはドラマに戻ってくるぞと心に誓いながら。
しかし、行ったら行ったで、今度はバラエティの厳しい世界を味わうことになる。
「人を笑わせることってこんなに難しいものなんだと身にしみて感じましたね。感動を呼び起こす術は持っているんですが、今まで視聴者を笑わせる必要なんてなかったから、心のなかでバラエティは自分とは関係のないものだと思っていたんです。バラエティに行ってもなんとかなるだろうと甘く見ていたらとんでもない。作っても作っても『面白くない』って、何度も直されてしまう。今までの情報番組や報道であれば”事実”という絶対的な後ろ盾があるから戦えるんですけど、バラエティは『面白くない』のひと言で全部突き返されてしまうんです。作り物だから、面白くしなければいけない。そこには自ずと笑いのセンスが求められるんです。だから面白いものを作るのにもの凄く苦労しました。
それでも自分にはプライドがあるから、直せと言われても直さなかったりしていたのですが、バラエティは『総合演出』が絶対で、その人に合わせて作らなければいけない。下っ端の価値観なんかいらないんです。
はじめは上の人と衝突を繰り返していましたが、ある時に総合演出の人が、こう言ったんです。
『武澤君、この客席を見て、彼らが僕らの作ったVTRを見て全く笑わなかった時の恐怖を知っている? 笑わせようと思ったVTRを見せて、全く笑わなかった時の背筋も凍るような思いってしたことある?』
『いや、ないですね』と答えたら、『俺達はその恐怖といつも戦っているんだよ』って教えてくれました。
ハンマーで頭を殴られるような思いがしましたね。バラエティはバラエティで人を楽しませるために、笑わせるために命がけでやっているんだと思った時に、自分はなんて愚かだったんだ、傲慢だったんだと初めて気づきました。ならば、僕も必死にバラエティを学ぼうと気持ちを入れ替えました」
バラエティには5年間携わった。年上ながら下っ端のディレクターとしていじられ役に徹し、傲慢な態度は取らずに、みんなから親しまれるように努めた。
そして再び、会社から情報番組の打診を受ける。忠はこれまでの経緯から固辞したが、「武澤君、もう6年経っているんだから、あなたを裏切り者と思う人は一人もいないと思うよ」と説得され、情報番組に復帰することとなった。
「草野仁さん司会の『ザ・ワイド』を短期間担当した後、みのもんたさんの『おもいっきりイイ!!テレビ』の立ち上げに参加しました。2007年10月からスタートした『おもいっきりイイ!!テレビ』は、裏番組の絶対的存在、フジテレビ『笑っていいとも!』といい勝負ができるようになっていたんですが、2008年9月のリーマン・ショックの影響でがくんと広告収入が落ち込み、思うような制作ができなくなりました。視聴率の低下が理由ではなく打ち切りになったのはとても残念でしたね」
その後、『仰天ニュース』にプロデューサーとして再び呼ばれることになる。ディレクターは実際の取材や編集を行う現場の人間で、プロデューサーは予算管理や出演者の交渉など、番組の枠組みを作る存在である。組織上ではプロデューサーの方が上だが、モノをつくるという面白さはディレクターにある。総合演出は、ディレクターたちのまとめ役となる存在だ。
忠もこのままプロデューサー畑を歩んでいくことになるのかと思った矢先、今度は昼の情報番組「おもいっきりDON!」のリニューアルのために、半年で総合演出に戻ることになった。
「『おもいっきりDON!』は帯番組なので、月に40時間放送していました。毎月7つあるコーナーをすべて事前にスタッフや出演者と打ち合わせし、本番も立ち会って…となると、毎日朝から夜中まで働き詰めで、体力的にはハードでしたね」
そんな中飛び込んできた、父・豊の事故。自転車で転倒し、頭を強打したという。2010年12月4日のことだった。
「病院に行ったのですが、母から『あなたは東京へ帰って仕事も全うしなさい』と言われ、仕事に戻りました。だから、年末に父が亡くなった時には立ち会えませんでした。若いころに対立していた父と、ようやく分かり合える時間を取り戻しつつあったので、ショックは大きかったですね。」
忠にはなおも試練が続く。「おもいっきりDON!」の視聴率は上向き始め、帯番組としての認知も高まり、これからが勝負、というところで、「昼の帯番組はバラエティにする」という会社の方針により、やむなく打ち切りが決定したのだ。
「番組が上り調子になってきた頃の打ち切りですから、『惜しまれる番組にしよう!』と、およそ100人のスタッフ一丸になって燃えていましたね。お陰で2011年の1月、2月と視聴率は順調に伸び続け、有終の美を飾ろうと意気込んでいました」
3月末の番組フィナ―レまであと2週間。そんな時、あの瞬間が訪れた。
■ 「残念ながら、実家はもう住める状態ではありません…」
日本テレビ本社29階。ラストウィークの番組のラインナップを決めて、実作業に入ろうとしていた3月11日午後2時46分。突然フロアが大きく揺れた。移動式ロッカーは激しく壁にぶち当たり、窓越しに見える隣のビルが右に左に揺れていた。
テレビからの速報は、「東北 震度6強」。忠は、すぐに実家の母・順子へ電話をかけるが全くつながらない。
「何よりも息子として、実家の母が心配になりました。幸か不幸か金曜日の放送が終わって、土日の放送がなかったので、番組のことを考えるよりも、家族の安否の方が気になりましたね」
最初の地震から1時間余、激しい余震が襲う。耐震構造の高層ビルは上の階ほどかえって揺れが激しくなる。そんななか、テレビから流れてきたアナウンサーの声に忠は耳を疑った。「福島県相馬市岩子方面には7.3メートルの津波が襲い、壊滅状態です」
「『壊滅』って何だよ…って呆然としましたね。名取市周辺に津波が押し寄せる映像をテレビで見てぞっとしましたし、電話も全然つながらない。頭が真っ白でした」
自分を落ち着かせるため、デスクフロアから喫煙所の方へ向かった時、不通だったメールが一気に5件ほど受信された。姉のとくからもメールが来た。「なんとかみんな無事で地元の公民館に避難してる」忠はほっと胸をなでおろした。が、その次の一文で忠は胸が押し潰されそうになった。
「残念ながら、実家はもう住める状態ではありません…」
命が助かっただけでいい――忠は自宅に帰ることもできないため、会社から4つ先の駅まで夜道を歩きながら友人宅で一夜を明かし、不安を紛らわせた。
「家はもう見ないほうがいいというくらいやられてしまっているとすると、これから母はどのように暮らせばいいのだろうか。僕は長男として、どうやって生きていけばいいのか考えましたね。そして2、3日が経過して、今度は仕事としての自分の役割をどう果たせばいいのかを考えるようになりました。この未曾有の災害に対してテレビは何をすればいいのかを。
そこで会社から指示されたのは、『2時間の通常の放送をやる、しかし震災の特集のみをやる』ということでした。フジテレビのように1週間ぶち抜きで震災報道特番をやるならともかく、『DON!』のスタッフは生活情報番組のスタッフなのだから、震災報道の経験がある人間なんてほとんどいません。そういう状況で1日2時間、震災だけでやれと言われたからスタッフも戸惑ったと思います。でも僕は、昔取った杵柄ではありませんが、『ザ・ワイド』出身の事故事件をやっていたスタッフを軸にして、こういう時に何をやればいいのか、何となく勘は働きました。
まずは今の状況を伝える。その次に生活情報。次に大地震や津波が来たらどうすればいいか。そして被災地の人達のメッセージを届ける。僕は自分なりにテーマを曜日で割り振って、家にものがあるのだったら買い占めしなくてもいいというメッセージを流したり、VTRを作っている余裕はないから識者を読んで今の状況を話してもらったりしました。このあたりは情報番組を何年もやっていた経験が生きましたし、皮肉なもので、震災があって以降初めての放送は番組の最高視聴率を記録しました。
そういう形で1週間の放送を乗り切ったのですが、せめて最後の週は通常通りの放送に戻そうと思っていました。被災地の声を聞いていると、『アンパンマンが見たい』とか、『音楽が聞きたい』『歌を聞かせて欲しい』といったリクエストが出始めていた頃でした。それで、阪神淡路大震災のことを思い出し、テレビにもできることがあるんじゃないかと思ったんです。
ニュースにはできない、僕達ならではのやり方でやる。それは『元気を届けること』じゃないかと提案し、平原綾香さんの『ジュピター』に乗せて、書家の紫舟さんと華人の赤井勝さんに『日本一心』、日本の心を一つにしようというメッセージを伝えるパフォーマンスをやってもらうことにしました」
■「被災地に元気を届けたいんだ」
会議では反対するスタッフが続出した。時期尚早じゃないか。震災後間もない時期にそんなことをやっていいのか。被災者がどう思うか…。
忠はこう言った。
「俺の実家も被災した」
スタッフは静まり返った。忠は続けた。「だからやりたいんだ。被災地に元気を届けたいんだ」
「半ば強引にやってしまいましたが、結果としてはやってよかったと思います。母からは『頑張ろうって百万回言われるよりも勇気をもらった』と言われましたし」
日本全体の心がうつろな時に、忠自身も今すぐにでも実家に帰りたいという不安を抱えながら、番組を作り続けた。それぞれの曜日のスタッフが役割を果たし、「DON!」は最終回を迎えた。
「自分でやれることはやりきったかな、と確信して、ようやく実家の相馬に行くことにしました。最初戻った時は道路の状況も悪いし、燃料も食料も現地ではどうなっているかわからないからリュックに詰め込めるだけのものを詰め、ひょっとしたら二度と戻れないのではないかという、戦地に向かうような覚悟で完全武装で行きました。
相馬の家は姉が言うとおり津波の泥が家の中まで押し寄せていてグチャグチャになっていたから、もう住める状態でないことはひと目で分かりました。でも、母は片付けをしているんです。片付けをしてもしょうがないだろう…と思ったんですが、そんな母の淋しげながら一心不乱に片付けをしている姿がなぜか心に残ったんです」
■ 「武澤さん自身のドキュメントを作ればいいんじゃないですか?」
会社からは、忠に新たな使命が与えられた。
「当時の上司が震災を大きな視点で見ていて、日本テレビの情報局内に『震災復興プロジェクト』を作り、僕がそのリーダーに指名されました。その時にまず何人かのプロデューサーが集まって、それぞれが震災当時何をしていたのかを話し合いました。中には思い出すうちに泣き出す社員もいました。
では、テレビの使命としてこの震災で何ができるかを考えましょうと提案しました。局長の案は、『現地に住まないとわからないことがある。東京から通っても、被災者に溶け込んで真実を聞き出すのは難しいんじゃないか』というものでした。そこで僕に対して『被災地が実家なんだから、向こうに住み込みで赴任するのはどうか』と提案してくれました。僕はその時期バラエティ番組の企画書を出す心境になかったので、被災地の家族や仲間たちも心配だったから、むしろそのほうがありがたい。じゃあ、そのための費用を捻出するためには企画を立てなければということで作ったのが『ディレクター被災地に帰る』だったんです」
企画書を見た編成企画の田中裕樹は、忠にこう言った。
「武澤さん自身のドキュメントを作ればいいんじゃないですか? 当事者でしか描けないことがきっとあるのでは?」
忠の中でひらめきと不安が宿った。
「そうだよな。自分自身の家族を自分で撮れば、どんなドキュメントよりも『等身大』に描くことはできる…しかし、そんな個人的なものを視聴者は見たいと思うのだろうか?」
どこまでを主観的に見つめ、どこまでを客観的に追えばいいのか…忠の中で戸惑いを抱えながら、いずれにしてもこの被災した家屋と家族を記録しておこうと決めた。
「番組になるという明確な保証はないまま、カメラを持って再び相馬の実家と母を訪ねました。母は、記録用のホームビデオだと思ってるから、いろんな本音を語り出すんです」
母・順子が語った被災者の本音。そこにはテレビの報道では伝わらない、生身の人間の苦悩がにじみ出ていた。
「ある意味戦争より怖いよ。戦争は憎むべき相手ってあったけど、天のしたこと、恨みようがないじゃない」
「命助かって良かったんだか悪かったんだか…『命助かってありがたい』とかよく言うけど、実際のところこんな年とってしまって、こんな苦労背負わなきゃならないかと思うと、果たして命が助かって良かったのかと思うよ。お父さんみたいに一気に逝っちゃった方が楽だったんじゃないかと思う時もあるよ」
息子としてこれはいけない、と忠は感じた。母をこんなに落ち込ませてはいけない――じゃあ、どうすれば母に勇気を持ってもらえるのか? 生きがいを持ってもらえるのか?
葛藤を繰り返しながら、忠は撮影を続けた。
「暗中模索で撮り続けているうちに、客観性なんてどこかに吹っ飛んでしまって、僕が感じた『主観』そのものを伝えようじゃないかと思うようになりました。そのためには何もかもさらけ出そう、父との不仲も含め、母が父のいいところだけではなく恨み事を言っているところも含めて、すべてをさらけ出し、とことん『個』を追求していこうと決めたんです」
個を突き詰めていけば、どの家族にも存在するような普遍性に辿り着くのではないか――忠は思った。
恥ずかしいことも、隠したいことも、家族の全てをさらけ出す。それがたまたま被災地の家族だった――そんなドキュメンタリーを作る試みが始まった。
■テレビマンとして、息子として撮った母の「生きてやろうじゃないの!」
「撮影を進めていくうちに、がれきの中から菜の花のような黄色い花が咲いていた姿を見て、母がそれを亡くなった父からのメッセージと受け止めて元気になっていくんです。花の生命力に母が勇気づけられたんですね。その次に母を訪ねた時には、すっかり表情が明るくなっていました。崩れた家はどうなるかわからないけど、自分なりに使命感を持ち、毎日片付け、草むしりをしていくことでいつか父の位牌を置ける家に戻りたいという生きがいを持つようになったんです」
忠のドキュメンタリーは15分間にまとめられ、オムニバスの震災ドキュメンタリー番組として関東ローカルで放送された。そして放送終了後、忠が想定していない事態が起きた。視聴者からもらった多くの反響を順子に伝えたところ、順子は「このままくじけてはいけない、これだけ多くの人が応援してくれているのだから」という思いが強まったという。戦争を乗り越えた持ち前の根性が蘇ってきたのだ。負けてなるものかという東北人の魂に火がついた。
「守り続けなければと思っていた家が解体されるとなって再び落ち込んだんですけど、それでも解体されたがれきの中から金婚式の賞状が見つかったんです。また父からのメッセージが届いたんだと母と僕は思いました。紆余曲折を経ながら、確実に母はたくましく生きていく勇気を取り戻していったんです」
15分間のオムニバスドキュメンタリーにとどめておくのはもったいない――編成企画の田中の後押しもあり、震災1年を機に、60分のドキュメンタリーが実現した。それが、2012年3月4日に関東ローカルで放送された『リアル×ワールド・ディレクター被災地へ帰る 母と僕の震災365日』である。
番組の最後、新しく建てる家の鍬入れ式で順子が言った言葉がある。そこに、79歳となった順子の生きる決意と勇気が凝縮されている。この言葉は、後に本のタイトルにもなった。
「生きてやろうじゃないの!」
■震災から3年、母と息子の「その後」を描いた番組
『リアル×ワールド ~3years…母と僕の震災日記~』では、順子と忠の「その後」が描かれている。
「母も位牌を納める家ができて、どこかホッとしたというか、自分の役割は終わったと思っていた節が母にはありました。でもそこで、本を読んだ静岡の女子中学生・長田瀬良さんが読書感想文を書いてコンクールで入選を果たしたとき、母は長田さんの言葉に奮い立たされました。「おばあちゃん、人生はこれからなんだよ」ってハッパをかけられたんです。目標を見失いかけたところに『これから』と言われ、また生きる目標を見つけたんでしょうね。『この子に恥ずかしくない生き方を見せる』と」
順子は、「生きてやろうじゃないの!」のfacebookページやYouTube、そしてブログなどから来るさまざまな反響を見て、生きる気力をさらに高めている。
そして、歌手の箱崎幸子が「生きてやろうじゃないの!」という曲を発売する際に詞を提供している。順子は「自分ごときが受けた小さな災害で、被災者の気持ちを語るのはおこがましい。それが歌になり、福島の被災地で発表されることに皆さんどう思われるのだろうか」という不安を抱えていた。しかし箱崎の新曲発表会は大合唱となった。泣きながら歌う人まで出るほど、被災者の心に響いたのである。
「母がいろんな人に出会い、支えられ、それがきっかけにまた新しい絆が生まれる。僕自身も、母のメッセージを伝えることが僕なりにできる、息子として、テレビディレクターとしてできる使命なんだと感じるようになりました。facebookページの運用であったり、ドキュメンタリーを海外に出品したり、講演をしたりとか、母に触発されてテレビ以外での社会貢献活動にも関わることで、これから自分ができることは何かを模索しているところです」
順子と忠の3年間の歩みは、『リアル×ワールド ~3years…母と僕の震災日記~』に再び集約される。
「テレビディレクターというよりも、息子としての不安であったり驚きといったものを伝えられるものにしました。見ている人があたかも僕に成り代わって見るような番組ですね。自分の母親を見ているような、自分の家族をみているようなものなんです。だからこそ、僕の『主観』でいい。
今回の番組では、とても放送に耐えられないようなとても下手くそなカメラワークがあります。そこに象徴されているのは、箱崎さんの歌をみんなで合唱する時に、カメラを回している僕自身が感動して泣きそうになっているんです。僕の脇で泣くのをこらえている母がいたから、慌ててカメラを切り替えて、ぎこちないズームで追いかけている。ふつうならそんな下手なカメラワークは編集して切ってしまうんですが、今回はあえてノーカットで使いました。撮っている側の心境も視聴者の皆さんに伝わるといいなと思って。人生で起きるいろんな出来事を一緒に目撃しているようにしたいんです。
喜びも悲しみもひっくるめて、人生そのものを一緒に経験してもらえるような番組にしたつもりです。3年経って記憶が風化しつつある人にこそ見てもらいたいですね」