旧日本海軍の艦上攻撃機「流星」のコックピットを覆う風防が、熊本県八代市で国内で初めて発見された。戦争遺跡の発掘や保存・活用を進めている「熊本の戦争遺跡研究会」が2月23日に発表した。ほぼ完全な形を保っており、流星の機体や部品類が国内で確認されたのは初めてという。朝日新聞デジタルが伝えた。
見つかったのは流星の操縦席を覆う風よけ。全長4・1メートル、最大幅と最大高各80センチの大きさで、主な素材はアクリルガラスとジュラルミン。六つのパーツのうち、一つが欠落していたが、内部にある木製の取っ手も残されていた。熊本産業遺産研究会前会長の松本晉一さん(68)と熊本の戦争遺跡研究会理事の高谷和生さん(59)らが記者会見し、公表した。
(朝日新聞デジタル『熊本)旧海軍艦上攻撃機「流星」の風防を確認 国内唯一』2014/02/24 03:00)
流星は、空母搭載用の攻撃機。「熊本の戦争遺跡研究会」によると、ゼロ戦よりも高速・高性能だったという。「くまにちコム」が次のように報じている。
流星は太平洋戦争末期に製造された2人乗り単発機(全長約11メートル、全幅約14メートル)。主翼は途中で上向きに曲がる逆ガル型で、主翼が胴体の中段に位置する中翼機。112機が生産された。米スミソニアン航空博物館に1機が分解、保管されている。
(くまにちコム『海軍機「流星」の風防発見 国内唯一、八代市に』2014/02/24)
1機種で雷撃、急降下爆撃、水平爆撃のいずれも可能であることを目標に太平洋戦争中に設計された。しかし、1944年10月のレイテ沖海戦で日本海軍は壊滅状態となっており、1945年に流星の生産が軌道に乗ったころには、搭載されるはずの空母もなく目立った戦果は出なかった。
愛知航空機が何とか生産体制を整えた頃、ちょうど米軍による日本本土の爆撃が激しくなり、工場も被害を受けて生産は中断。飛行隊が編成できる機数がそろったのは45(昭和20)年に入ってからだった。日本の空母機動部隊は既に壊滅しており、艦上機として運用されることはなく、終戦直前に実戦へ投入されたものの、目立った戦果を上げることはできなかった。
(時事ドットコム『【特集】日本の海軍機 艦上攻撃機「流星」』)
また、終戦当日の1945年8月15日、千葉県木更津市の海軍航空基地から空母ヨークタウンに自爆攻撃を行い、海軍公式記録上「最後の特攻」となった。昭和天皇の玉音放送で戦争終結が告げられた直後だった。
今回発見された風防は、八代市内にあった工場で生産されたもので未使用品。戦後、工場関係者が保管していたものだったという。
風防は、八代市井上町に当時あった三陽航機の八代工場で生産。全長4・1メートルで幅・高さは最大0・8メートル。素材はアクリルガラスやジュラルミンなどで、機体組み立て前の未使用品という。
戦後、八代工場関係者が保管。6年前に同市内の男性が譲り受け、依頼を受けた松本さんらが調べていた。所有者や元従業員の証言、図面との照合、日本航空協会の助言などから流星の風防と特定した。
(くまにちコム『海軍機「流星」の風防発見 国内唯一、八代市に』2014/02/24)
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