佐村河内守さんの「耳が聞こえないと感じたことはない」 ゴーストライター新垣隆さんの会見全文

「両耳が聞こえない作曲家」として知られている佐村河内守(さむらごうち・まもる)さんの楽曲の「ゴーストライターをしていた」として、大学講師の新垣隆(にいがき・たかし)さんが2月6日、都内のホテルで会見を開いた。
Kenji Ando

「両耳が聞こえない作曲家」として知られている佐村河内守(さむらごうち・まもる)さんの楽曲の「ゴーストライターをしていた」として、大学講師の新垣隆(にいがき・たかし)さんが2月6日、都内のホテルで会見を開いた。会場は100人以上の記者やカメラマンでごった返し、ものすごい熱気。「日本のべートーベン」とまで呼ばれた人物の真相についての関心の高さを伺わせた。

■「私は共犯者」と謝罪

新垣さんは1970年生まれの作曲家。桐朋学園大学音楽学部の非常勤講師を務めており、不協和音を駆使した現代音楽を多数発表している。

彼をゴーストライターとして雇っていた佐村河内さんは、「広島市出身の被爆2世で、両耳が聞こえない作曲家」として知られている。しかし、2月5日になって「交響曲第1番 HIROSHIMA」などの主要な楽曲は、別の音楽家が作ったものだったと代理人を通して発表した。ソチ冬季オリンピックでフィギュアスケートの高橋大輔選手が使用する楽曲「ヴァイオリンのためのソナチネ」も、佐村河内さんが作曲したことになっていたが、変更しない方針だ

この日の会見で、新垣さんはまず、「佐村河内守さんに出会ったときから18年にわたって曲を作り続けてきました。指示されるまま作り続けた私は共犯者。本当に申し訳ありませんでした」と謝罪した。新垣さんの冒頭あいさつは次の通り。

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私は、佐村河内守さんと出会った日から18年にわたり、彼の代わりに曲を書き続けてきました。佐村河内さんが世間を欺いて曲を発表していることを知りながら、指示されるがまま、曲を書き続けてきた私は、佐村河内さんの「共犯者」です。障害をお持ちになった方々、また、彼の言葉を信じて曲を聴いてくださった非常に多くの方々、見事な演奏をして下さった演奏家の皆様、本当に申し訳ありませんでした。

当初は、軽い気持ちで曲を書くことを引き受けていました。彼を通じて、私の書いた曲が世の中に受け入れられ、うれしかった気持ちがあったことは否めません。

しかし、彼がどんどん世間に知られるようになるにつれて、この関係が世の中に明らかになってしまうのではないか、と不安を抱くようになりました。同時に、「これ以上、自分の大好きな音楽で世間を欺き続けたくない」という気持ちが、私の中で大きくなっていきました。

私は何度かにわたり、彼に対して「こんなことはやめよう」と言いました。しかし、彼は聞き入れてくれませんでした。「あなたが曲を書かないと、私は自殺する」と言いました。

そのような中、フィギュアスケートの高橋大輔選手がソチオリンピックで滑る際に、私の作曲した「ソナチネ」を選ばれたことを知りました。このままでは、高橋大輔選手までもが「彼と私のウソを強化する材料」になってしまうと思いました。

しかし、同時に、この事実を知った高橋選手が受けるショックのことを考えると、いま公表するべきかとても迷いました。

ただ、このまま私が何も言わず、オリンピックで演技されたあとに事実が発覚した場合、高橋選手はやはり非常に戸惑うのではないでしょうか。さらに「偽りの曲で演技したではないか」と、世界中から日本に非難が殺到するかもしれません。

色々と考えた結果、高橋選手には、この事実を知った上でオリンピックで堂々と戦って頂きたいと思い、本日このような会見を開かせていただくことになりました。

高橋選手、そして音楽作品を聴いてくださった皆様には、本当に申し訳ないことをしたと思っております。深くお詫び申し上げます。

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この後、記者団との主な質疑応答に移った。新垣さんはほとんど表情を変えず、朴訥な様子の人物だった。慎重に言葉を選びながら、次から次に繰り出される質問に答えていた。

■佐村河内さんの「耳が聞こえないと感じたことはない」

――佐村河内さんとはどういう関係なのか。18年間、やめようというタイミングはなかったのか。耳が聞こえないということだったが、そうではないんでは?というエピソードがあれば

彼とは知人を介してお会いしました。彼が映画音楽を担当することになり、必要としたオーケストラのための音楽をできる人を探してほしいと、知人が相談を受けて、私の所に連絡が来ました。最初の出会いはそのようなものです。

映画とかゲーム音楽のお手伝いという形で、私はアシスタントとして関わっていたという認識を持っていました。その中では、ゲームや映画を作るスタッフの一人として、特に問題を感じてはいませんでした。彼がある時期から「自分は耳が聞こえないのだ」という態度を世間に対して取ったとき、そして、その上で、彼の名で私が曲を書いて発表することになった時点で、それは非常に問題のあることだと思いはしたのですが、そこではまだ、やめようということではなく、彼に従い、私も曲を書き続けました。去年の5月にピアノの曲を提出したとき、もうこれ以上はできないと私は思いました。そこから、彼に何度か「もうこの関係はやりたくない」と伝えました。

耳に関しては、私の認識では、初めて彼と会ったときから今まで、特に耳が聞こえないということを感じたことは一度もありません。

――ということは、一般の人と同じように通常通りの会話が出来たということか

はい。

佐村河内さんが新垣さんに「現代典礼」を依頼したときの図表

――「現代典礼というテーマで書いてくれ」と言われたとき、どう思ったか。これを見て、新垣さん自身、音楽を生み出せると思ったか

彼からは1枚の図表をもらったわけですが、それと同時に彼との会話がありました。彼から「非常に大きな編成で大きな長さの曲を書いてくれないか」と依頼がありました。あの図表は実際の作品の曲の成りゆきとはまったく異なりますけれども、ただ、あの表を私が机の横に置くということで、それをある種のヒントとして、私が作曲する上では必要なものだったとは思います。

――いちばん最後に会ったのはいつか

去年の12月15日です。

――そのときに全て話すという話はしたのか

していません。

――今、本人に何と言いたいか?

彼が送ったメールにありましたように、非常に多くの人々の夢を壊してしまったわけです。ただ、やはりそもそもの(ゴーストライターに作曲を頼むという)関係が間違っていたのではないでしょうか。

――2人の契約形態は。印税などはどういう管理を

彼が依頼をし、私が作曲して譜面を渡し、それによって私は報酬を受け取りました。印税に関しては、私はまったく関係ありません。

――2006年に佐村河内氏が高校の吹奏楽部に「吹奏楽のための小品」というタイトルの曲を提供しているが、ご存じか?どんな依頼があったのか

それは、私が作りました。彼がある高校の吹奏楽部の顧問の先生とコンタクトを取り、彼が学校の吹奏楽部のために曲を書きますと言って、それによって私の所に依頼が来ました。

――それも構成案などが送られてきたのか?

あの曲に関しては、グラフということは特にありませんでした。私が書きました。楽器の編成が吹奏楽のみならず、邦楽器を含んでいた。顧問の先生から「ゲーム音楽のイメージで作っていただけないか」という依頼だったと思います。その言葉を受け取り、作曲しています。

■報酬「20曲以上で700万円前後」

――佐村河内さんの聴力について。新垣さんが作った曲を佐村河内さんが聞いて「もっと音を高くしよう」などの意見をするなど、耳が聞こえる具体的なエピソードはあるか

ただ今、おっしゃったようなことはありました。私が録音したものを彼が聞き、彼がそれに対してコメントするというシーンは何度もありました。

――佐村河内さんは「耳が聞こえないと装っていた」という認識か

はい。

――CDの解説書の中で、佐村河内さんが長野にコンサートを聴きに行った際に、新垣さんと知り合ったというエピソードが載っていた。それもすべて嘘だったのか。また、吹奏楽部のために作った曲では、図表も何も渡されずに作曲されたということですが、それによって名前が出なくても作品が世に出たということで、新垣さんは満足感を感じていたのか

CDの解説にあった記述はほとんどが嘘です。出会いはそうではないですし、あれはフィクションです。また、「吹奏楽の小品」のみならず、私は作曲をしたので、私の作品であることは言えると思いますが、同時に、一連の作品というのは、彼とのやりとりの中で生まれたものであるという認識を持っています。

――昨年、佐村河内さんを取材した際に、ピアノソナタの譜面を見せてもらったのですが、それも本人が書いたものではないと?

創作ノートは本人が書いているが、譜面は私が書きました。

――ドキュメンタリー番組で佐村河内さんが被災地に行き、曲が浮かばない苦悩や、曲を絞り出す姿が映されていた。彼の苦悩する姿をみてどう感じたのか。演技だったと思うか

彼がどのような気持ちで、あのようなシーンを撮られたのか私には分かりません。ただ、私は、彼から依頼をうけたとき、やはり何か被災者の方のために曲を書きたいと思いました。

―ドキュメンタリーで放映された様子は演技だったと?

私はそう思ってます。

――佐村河内さんと新垣さんの共作にするという提案はしてないか

私から提案したことはないです。あくまでも彼のゴーストライターであると思ってました。

――佐村河内さんの代理人よると新垣さんが表に出づらい理由があったとされているが

いえ、特段ありません。初めの段階から、私はゴーストライターとしての役割であると思っていました。

――ゴーストライターとして曲を書いた報酬はいくら?

18年間で20曲以上提供いたしました。はっきりとした金額はちゃんと調べてないんですが、700万円前後だと思います。

――「新垣さんのために名前を伏せたんだ」とも取れるコメントを佐村河内さんがしていますが、その件は?

ゴーストライターが前に出てはいけないので、ただそれだけだと思います。

――高橋大輔選手がソチオリンピック使う曲は、岐阜でバイオリンをやっている「みっくん」のための曲だと思いますが、その子との関係性は

彼女がバイオリンを始めたころから知っています。バイオリン教室で伴奏していたので、その頃からの関係です。

――「みっくん」のご家族からは、佐村河内さんに関する相談が(新垣さんに)あったのか

はい。そういうことが一回ありました。

――どういった内容か

それは、雑誌に書いてあります。

■「著作権は放棄したい」

――あなたが作って、佐村河内さんの名前で発表した曲の著作権はどうなるのか?

著作権については私は全く放棄したいと思っております。

――佐村河内さんがピアノを弾いている姿を見たことがあるか。なかなかデビューできないクラシックの業界に対する不満を感じたことはないか

彼が弾けるのは初歩的なピアノのみであります。作曲家が自分の曲を発表する場がなかったとは思ってないです。

――耳が聞こえるという話がありましたが、どのようなやり取りをしてたのか

彼と会話するときには、彼と私の2人だけで、そのときはごく普通のやり取りをしていました。

――さきほど著作権を放棄されるという話でしたが、すでに著作権を譲渡する話し合いは

そのような話し合いは一切していません。

――JASRACとは

それには一切関わっておりません。

――密着取材していたNHKのディレクターや、佐村河内さんのCDを出している日本コロムビアの担当者は知ってるのか?

私はNHKの方やコロムビアの方とはコンタクトを取っておりませんでしたので、それはお答えできないです。私は全く知らないです。

—―2人の関係がばれないようにするために、新垣さんに対する工作や呼びかけは

それは私が作っているとうことを口外しないという一点だと思います。それについて「私も口外するべきではない」と思っていました。

—―偽名を使ったのは

偽名を使ったのは、(「週刊文春」が報じた)1回だけです。

■障害者というのは「違うんではないか」

――気持ちに変化が起きたのは理由は?

去年の5月に曲を提出した段階で、続けられないと思いました。7月に彼に伝えました。さらに12月、もう一度、彼に要求しました。でも、それはうまくいかなかったもので今の状況になりました。

――「現代典礼」という曲を作ろうとした経緯と、それが「HIROSHIMA」に変わっていった経緯は

彼から「ゲームではなくオーケストラのための一枚のCDに収まるような作品を作りたい」という希望を聞きました。それを、発売するのだと。そのために「1年間で作ってくれ」ということで引き受けました。

私は事情は分からないのですが、結果的に発売はされませんでした。そのままになっていました。もちろんそのときには、「HIROSHIMA」というタイトルではありません。数年後、そのオーケストラ作品が「HIROSHIMA」というテーマで発表されると聞いたときには大変驚きました。

――改めて「みっくん」と呼ばれるバイオリニストの少女と、ご家族への思いを

彼女には是非、あの曲を弾いてほしいと思っています。彼女と、彼女の家族の皆様に対しては、これからも音楽を通じてコミュニケーションをしていきたいという思いが強くあります。

――新垣さんが今回、会見をして謝罪をするのは一つのけじめだと思うが、今後の身の処し方は

できることならば、今後も私の音楽の仲間たちとともに、音楽活動を続けていきたいと強く思っています。

――「みっくん」に曲を弾いてほしいということだが、一方、著作権については放棄したいという話もあった。ご自身でこの曲は残したい、この曲は違うというような切り分けはどうするのか。また、自分の音楽と佐村河内氏の音楽を作る際には気持ちの持ち具合も違うのか

佐村河内さんのために曲を書くという面もありました。彼との関わりの中で、作品が生まれるということなんでので、彼との共同作業であると私は全ての作品において思うのです。同時に、全ての作品は私のできる限りの力の範囲で作るものであり、そういう意味では、一つ一つが非常に大事なものです。

――なぜ週刊誌での告白という形を取ったのか。また、高橋大輔選手が出場するソチオリンピック直前のこの時期の発表には「売名ではないか」という見方もあるが

高橋選手に偽りの状況のまま踊っていただくことは、非常に良くないことではないかと思いました。

――佐村河内さんの障害者手帳を見たことは

一度だけ見たことがあります。何級かは記憶にありません。それは彼が世間に「自分は耳が聞こえないんだ」というスタンスを取った直後です。

――彼が35歳のときか

そこらあたりだと思います。

――佐村河内さんがどこまで作曲に関わっていたのか

ピアノの鎮魂曲の場合ですと、まず私がいくつかの音のモチーフ、音楽の断片のような物をいくつか提示します。それを譜面に書きピアノで弾いて録音して、彼が聞きます。その中から彼がいくつか選んだ断片を元に、私が作曲する、全体を構成するというプロセスでした。

――そうすると譜面上でのやり取りではなく、実際にピアノの音を聞くというやりとりだったと

はい。

――音楽を聴きながらやり取りをできるということは、(耳が聞こえる)普通の人と同じということでいいのか。障害者手帳は詐取していることになるが

私は彼と普通のやり取りができるということです。

――つまり、障害者ではないと

やはり、それは違うんではないかと思います。

――なぜそうしてるのかというのは、本人から説明は

雑誌の中で触れてあったと思います。最初は私に対しても「耳が悪い状況である」ということを示していたのですけど、やりとりしているうちに、段々戻ってきました。やがてはそれ(耳が悪い状況を示すこと)もなくなりました。

――隠そうとしていた理由は

耳が聞こえないんだということを示すための行為だったと思います。外に向けての行為をしていたと思います。

――そういう風に見せることで売れるんだという素振りのことを言っていたのか

これからは「そういう形で」ということを聞いたことがあります。それは、ゲーム音楽が発表された後であります。

――佐村河内さんが世に出した曲の中で、ご自身が関わったものは何か。著作権放棄をすると誰もが自由に演奏できるようになるのでは。高橋選手のこともあるので、いつの段階で放棄することになるのか

私は詳しいことは分かりませんけども、高橋選手があの曲で演技できるようにするための権利はよく分かりませんが、それが実現されなくてはいけないので、そのための手続きが必要であればそうしたいと思っておます。自分の認識の中では、彼の曲は全て自分が担当しているということです。他にゴーストライターはいないと思っています。

――福島県本宮市が佐村河内氏に依頼し、東日本大震災の3年目のイベントで初披露する予定だった市民の歌「みずいろのまち」があった。これも新垣氏が作曲したのか

それは初めて聞きました。私は関わっていません。

――作った記憶のない曲は

さきほどの歌の曲は私は知らなかったです。自分の認識の中では、彼のほぼすべてを自分が担当している、ということです。

――佐村河内さんが世に出した曲の中で、ご自身が関わったものは。著作権放棄をすると誰もが自由に演奏できるようになると思いますが、高橋選手のこともあるので、いつの段階で放棄することになるのか

私は詳しいことは分かりませんけども、高橋選手があの曲で演技できるようにするための権利はよく分かりませんが、それが実現されなくてはいけないので、そのための手続きが必要であればそうしたいと思っておます。自分の認識の中では、彼の曲は全て自分が担当しているということです。他にゴーストライターはいないと思っています。

――20曲で700万円の報酬ということでしたが、これまでに不満を持ったことは。金銭面でのトラブルはあったのか

私が譜面を渡し、報酬を受け取るという形は自然な物と自分では思ってました。彼が譜面を受け取ったあとは、彼の物なわけですから、彼がどのように扱ってもいいということだと思っています。その後のことについてはタッチしたくないという思いがありました。金銭トラブルというものはなかったと思います。

――著作権を放棄されたということですが、CD回収などの損害賠償については佐村河内さんと新垣さんのどちらが支払うのか?

それについてはどう償ったらいいのか、よく分かっておりません。

■「彼は実質的にはプロデューサーだった」

――ゴーストライターに徹していたとしても、18年はあまりに長い。佐村河内氏との間に友情はあったのか。それとも佐村河内氏が変わっていったのか

最初お会いしたとき、彼は自分が取った映画の仕事で、自分のアイデアを実現したいという気持ちがあった。そのために、彼は実際の音楽の予算を大幅に超えたお金を自分で出して、メンバーを雇い、スタジオを借り、私が協力して作っていった。彼は自分のやりたいことを実現させるために頑張ったのだと思います。そのような点では、偉いなと思っていたんです。

彼が変質したかどうかは、実際のところ、私はそんなに感じてはいなかったかもしれません。彼が依頼して、私が譜面を作って渡すというやり取りをするだけの関係を保っていました。その中で、なお、彼の情熱と私の情熱が、非常に共感し合ったときというのはあったと思っています。

――18年間のうちで、いつごろ彼が再び音が聞こえてくるように思ったのか。新垣さんは、彼の行為を止めることが出来る立場でしたが、そうしたことをしたのか

「耳が聞こえないのだ」ということを言い出したときは、非常に戸惑いました。その必要があるかどうかと思いましたが、このような関係を成り立たせるための方法であったということは、私はそれを了承していました。だから、(ゴーストライターを)辞めたいとと直接言ったのは最近になるわけです。それまではっきりと、自分の意志を伝えたことはなかったです。彼から依頼を受けることをごく普通にやっていました。

――新垣さんの中でも、そういう関係が良いという認識がおありだったということでしょうか?

やはり、ゴーストライターとしての役割を知られてはならないので。なるべく、やりやすい環境を望んだのは否めないです。

――芸術的な意味で、共同のクリエイターとしての思いは

彼は実質的にはプロデューサーだったと思います。彼のアイデアを自分が実現するということです。彼が自分のキャラクターを作り、世に出したということで、彼のイメージを作るために私は協力をしたということだと思うんです。

――実際に彼は譜面は書けたのか

譜面は書けません。

――広島の被爆者の方への思いは

音楽とは別に、広島の被曝者の方に対する思いはあります。それを音楽で表現をするということもあるかもしれません。あるいは、被曝された方への思いが音楽に与える影響があるとは思います。ですが、それは曖昧です。メッセージ性に任せて作るというやり方は、私自身は取っていません。

――「ゴーストライターが前に出てはいけない」と先ほど言っていたが、これだけ曲が評価されると、自分が書いたと言いたくなるのでは。葛藤はなかったか

自分の作品が演奏されて、多くの方々が聞いてくださるということは、非常にうれしいことでした。なんですが、この場合は、それをどう自分の中で受け止めていいのかというのは、ちょっと分からなかったです。

――高橋選手が「ソナチネ」をやることをどういう経緯で知ったか

私はそのことを知ったのは、発表されてから、随分と後のことだと思います。何となく聞こえてきたということでした。テレビの報道で知りました。

――高橋選手が「曲目を変更しない」と発表したときの気持ちは

高橋選手があの曲を選んでくださったというのは、私にとって非常に大きな喜びであります。そして、高橋選手がこのような事態にも関わらず、なおこの曲を選んで下さり、その曲で踊ってくださることを聞きまして、非常にうれしく思いました。

――今後、佐村河内さんへの裁判を起こす予定は

私の方からは、裁判は考えておりません。

――佐村河内さんの名義で出したCDの名義はどうしたいか

今まで彼の名義で発表されたものについては、もうそういうものだと思っています。

――今のまま、佐村河内氏のままで残っていいということか

皆様が納得されるかどうかわかりませんので、それはちょっとお答えできません。

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