2011年3月11日の東日本大震災で発生した津波により、74人の児童と10人の教師が犠牲となった宮城県石巻市立大川小学校。児童たちの遺族と生還した児童が11月23日、東京都内で行われたシンポジウムに参加し、現在の心境を語った。震災当時小学5年生だった児童(14)は、「校舎を震災遺構として残してほしい」と訴えた。また、遺族からは石巻市教育委員会や文部科学省が立ち上げた第三者検討委員会の真相解明に対する消極的な姿勢に疑問の声が上がった。
■ 大川小学校で何が起きたのか?
生存者たちの証言と、2011年3月の震災発生直後から石巻を密着取材してきたジャーナリストの池上正樹氏、加藤順子氏による共著『あのとき、大川小学校で何が起きたのか』から、3月11日当日、大川小学校が被災した経緯を振り返る。
2011年3月11日午後2時46分、大川小学校では「帰りの会」が終了しかけたところで震度6強の非常に強い揺れに襲われた。2分ほど続いた揺れが収まるまで児童は机の下にもぐり、その後、校庭に避難した。当時、校長は年休で不在だったため、教頭がハンドマイクで避難を指示、教員で唯一生存した教務主任が校内を見回り、2時50分ごろには全員が校庭に避難したことを確認した。
午後2時49分、6mの大津波警報が発表される。教務主任は学校のすぐ裏側にある山に逃げようと訴えた。上級生の男の子たちも泣きながら「山さ上がっペ」と先生たちに訴えている。山は急な斜面もあるが、児童たちがかつて校外学習でシイタケ栽培をしていた付近は比較的緩やかで、低学年でも1分足らずで十分避難できる場所だった。
しかし、学校の判断は「校庭に待機」。児童たちは先生たちの指示に従って大人しく校庭で整列したが、多くの子どもが恐怖のあまり泣いていて、中には地震酔いのせいか吐いていた子もいたという。
子どもを迎えるために学校を訪れた保護者が20家族ほどおり、後に石巻市教育委員会が「保護者の引き渡しに手間取った」と釈明しているが、実際に引き渡した件数は少なかったという。家族が迎えに来ても「学校の方が安全なので帰らないように」と先生に言われてしばらく待機させられた児童もいた(その後、彼らは学校から帰宅した)。
午後3時14分、10mの大津波警報発表。市の職員が学校に到着し、避難場所の確認を行い2、3分後に退出。校庭では焚き火の準備が始められた。午後3時23分、25分と市の広報車が「高台に避難してください」と呼びかけながら学校近くの県道を通過しているのを児童たちが聞いている。
学校が避難を開始したのは午後3時36分。教頭が校舎の西側にある、北上川にかかる新北上大橋付近の少し小高い三角地帯への避難を呼びかけたが、児童たちは整列する余裕もなく列が乱れ、学年も入り混じった状態で移動を開始した。民家の裏の路地を抜けて大きな通りの県道に出ようとした瞬間、津波の水しぶきが見え、児童たちは慌てて引き返し、裏山へと逃げようとした。しかし引き返した場所の山の斜面は非常に急で、児童たちは立ち往生し、迫ってくる津波に飲み込まれた。108人の全校児童のうち、死者・行方不明74人、津波から生還した児童はわずか4人。残り30人は不在や下校で無事だった。校舎の時計は午後3時37分で止まっており、この時間に津波が到達したものと見られる。
■ なぜ「空白の50分」が発生したのか
現在進められている大川小学校被災の検証作業で焦点となっているのは、「なぜ校庭で待機し続けていたのか」である。避難を開始したのは津波が到達するわずか1分前、移動距離は180mにすぎない。地震発生から避難するまで十分な時間があり、大津波警報などの情報も耳に入り、裏山への避難という選択肢があって児童たちが必死に「山に逃げよう」と訴えていたにも関わらず教員は聞き入れず、突発的に北上川の方向へ避難を開始した理由は未だに明らかになっていない。石巻市教委の報告書にも、地震発生から津波到達までの「空白の50分」の検証が行われていない。文部科学省が立ち上げた第三者検証委員会でもこの問題は取り上げられず、2013年12月に提出されるとみられる最終報告書にも、「山へ逃げよう」と訴えていた児童たちがいた事実が記載されない可能性が強い。
後に明らかになったのは、石巻市教委が2011年3月から5月にかけて行った教務主任や生存児童への聞き取りメモが廃棄され、実際の証言内容とはかけ離れた報告書が作成されたことである。教務主任が送信したメールは削除されるなど、ずさんな管理が指摘されている。教務主任は2011年4月9日に行われた遺族に対する第一回説明会以降、精神的に不安定という理由で主治医が公の場に出ることを禁じているため、証言をしていない。真相解明に後ろ向きな石巻市教委の姿勢が、遺族を戸惑わせている。
また、大川小学校には津波などの防災マニュアルが十分ではなく、地震や津波といった防災対策が不十分だったことも指摘されている。避難場所が明確に定まっていない、保護者に児童を引き渡すルールがあったのに保護者に周知徹底していなかったなど、防災対策の運営もずさんだったことが明らかになっている。
■ 大川小の生存児童「校舎は子供たちが生きてきた証」
11月23日、東京で行われた「DCI日本・子供の権利条約市民NGO報告書を作る会」主催のシンポジウムで、生存児童のうちの一人は次のように述べた。この児童は、今回の震災で妹、母、祖父の3人を亡くした。
「教育委員会には、自分の証言がどういう形で伝わっているのかは分かりません。聞き取りメモが廃棄されたということは聞きましたが、勇気を持って話してくれた友達もいるのだから、とても残念に思います。『何で大人が子供みたいなことをするのかな』って、がっかりしました。
震災のことはいろいろな取材で自分の言葉で話してきましたから、震災前ほどではないですが、普通の気持ちを保っていられるのではないかと思います。家族であるお父さんやおばあちゃん、そして引越し先の友達や学校の先生に励まされて、少しずつ明るさを取り戻しています。
どうして話し続けているのかというと、ニュースを見ている人たちに、僕が体験したことが上手く伝わっているのかな、という思いがあるからです。あの震災を体験していない人にはいくら言ってもわからないかもしれないですが、できるだけわかるように説明しています。
(今、何を一番伝えたいかと聞かれて)人の命が一番だということを伝えたいですね。妹を亡くし、母を亡くし、友達も、近所のおじいちゃんおばあちゃんも亡くしてしまっても、すぐに悲しみは来ませんでした。今、ようやく悲しみが来ているところです。今は別の学校にいるので、震災の話題はふだん出てきません。でも、授業中に地震があっても机の下に隠れるようなことがありませんから、大震災のころに比べて、危機感が薄らいでいるのかな、と思います。
一人ひとりの命に無駄なものは一つもありません。命は大切にしてほしいです」
また、この児童は、震災遺構として検討対象となっていない大川小学校の校舎を保存してほしいと訴えた。
「第三者検証委員会でも校舎を保存してほしいと言いました。5年間の思い出が詰まっている校舎なんです。校舎が壊されると、思い出も壊されます。僕は『がれき』という言葉が好きではありません。がれきになってしまったものは、震災前は被災者の生活の一部だったし、思い出でもあるんです。思い出の写真や、家族が使っていたものまで、何でもかんでも『がれき』にされてしまうと、『ちょっと違うんじゃないかな』と思います。
大川小学校の校舎には、あの校庭で一輪車で遊んでいた子供もいれば、積み木をしていた低学年の子供もいました。教室で騒いでいた子供もいました。校舎を見れば友達がいたことを思い出せます。
時折、震災の記憶が薄れる時があるんですが、そんな時に学校を見れば、震災でどういう思いをしたか、リセットされて思い返すことができます。学校を見れば、記憶が戻ってくるんです。校舎があれば自分を考え直すきっかけになります。
大川小学校の校舎は、子供たちが、僕の先輩や後輩が、ここで生きていたという証なんです。
あの校舎を壊したら、死んだ子供たちは何だったということになると思います。だから壊さないでもらいたい。
大川小学校には観光バスで来て、写真を撮ったりする人もいるけど、そういう人たちだってふざけ半分で来ているわけではないでしょうし、家族連れの人たちは、子供に大川小学校で何があったのかを伝えようとしているんだと思います。なかには、そうやって来る人たちが嫌だと思う人もいるかもしれませんが、あの場所に行けば、津波の威力がどれほどのものだったのかが分かると思いますし、あの場所で何があったのかを感じてもらいたいな、と思います。
そのためにも、校舎を1000年後まで残してもらいたい。これ以上僕たちみたいに悲しい思いをしてもらいたくないし、今後の災害で犠牲者ゼロは難しいかもしれませんが、大川小を教訓にしてひとりでも多く助かってくれればと思うんです。
児童の父、英昭さんも彼に同意して次のように述べた。
「大川小学校があった釜谷地区は、自分たちが生きてきた故郷です。大川小学校の校舎がなくなると、自分たちがかつてそこにいたと表現できるものが何一つなくなってしまう。そして、あの校舎がなくなると、大川小の悲劇すらなくなってしまうんです。
たしかに、アンケートをとってみると、見ていると辛くなるから壊したいという意見が圧倒的です。でも、数じゃないと思うんです。今はつらい思いをするかもしれないですが、長い目で見て、壊してしまってからでは取り返しがつかないんです。だから時間をかけて話し合ってほしいなと思います。たしかにそのままにしておくのは私も辛いです。芝生を敷いたり、花を植えたりして少しは整備してもいいかなとは思います。
未だに全国各地から足を運んで焼香していただける方々の気持ちを考えると、ここで何があったのかを確かめに来ているんじゃないかと思うんです。何がいけなかったのか、避難するまでの空白の51分がどうして生まれたのかを考えるきっかけになるのではないかと思います。
地域住民の方々は、ほとんど亡くなってしまいました。津波は来たことがないから大丈夫だという意識があったんじゃないか、危機意識が強くなかったんじゃないかと言われることもあります。でも、釜谷地区に津波が来たという言い伝えがないのも、石碑がないのも、『辛いから忘れてしまえ』という気持ちがあったのではないかと思うのです。石碑にも、言い伝えにも残さないから、こういう結果になったのではないかと思うのです」
■ 遺族の佐藤和隆さん「仕方がなかったでは済まされない」
当時6年生だった三男の雄樹君を亡くした遺族の佐藤和隆さんは、真相解明に消極的な市教委や文部科学省の対応に疑問を呈した。
「市教委や文部科学省は、ずさんなお手盛りの検証報告しか上げず、『未曾有の大震災だからやむを得なかった』という結論に導こうとしています。地域住民や子供の危機意識が薄かったせいにして、児童たちが助からなかった理由ばかり拾い出しているんです。
私たち遺族は震災以来、一歩も前に踏み出せていない状態が続いていましたが、なぜ子供たちが死ななければならなかったのか、原因究明を自分たちの手で行いたいという思いから、少しずつでも前に進もうと決意しました。
なかには、当時のことを話せない遺族もいます。大半の家族は泣き寝入り状態です。だからといって、『未曾有の大震災だから仕方がなかった』では済まされないんです。逃げる場所もありましたし、早い段階で津波の情報もありました。学校管理下で起きた災害なのに、誰も責任を取らない、責任の所在を明らかにしないのはおかしいと思います。これは事故ではなく事件だと思うのです。
石巻市教委は、子供が死んで苦しい思いをしている遺族に嘘や情報隠蔽を繰り返し、傷口に塩を塗るような行為をしてきました。震災直後は、私たちも『学校現場で起きたことだから、彼らは正直に言ってくれる』と思っていたんです。でも、今は憤りを感じます。誰に訴えれば、真相が明らかになるのでしょうか」
当時6年生の大輔君をはじめ、高校3年生の長女麻里さん、高校2年生の次女理加さんの子供3人全員と、夫の両親合わせて家族5人を失い、現在も夫と仮設住宅で暮らし続ける今野ひとみさんは次のように語った。
「震災後、初めて『引き渡し』という言葉を知りました。その訓練も受けていませんでしたし、震災直後、隣町にある私の職場から移動できない状態が続いていても、学校が子供たちを助けてくれていると信じていました。今は、子供たちを助けてあげられなかったという自責の念が募るばかりです。うちの子は(生き残った児童と)同じ柔道部で、大輔は1年先輩に当たるのですが、この子が成長する姿を見て、『子供ってこうして成長していくんだな』と思うことがあります。これからは今回のような災害で、本当は生きていなければいけない子供が命を落とすことがないようにと、それだけを願って生きています」
■ 遺族有志「真の検証を」
大川小学校の遺族有志は、2012年8月26日に行われた市の説明会で、「大川小学校被災について」という文書を発表し、切実な思いを吐露した。震災から2年8カ月。大川小学校の悲劇から、子供たちの命をどう守るべきかを改めて考えてみたい。
大川小学校被災について
大川小学校の体育館脇にはだれでも登れる山があります。椎茸栽培や野球のボール拾いなどで子どもたちが日常的に目にし、登っていた山です。あの日、私たちは津波がきてもあの山があるから大丈夫だろうと考えていました。
地域の方に見守られ、子どもたちが大好きだった学校で、多くの子ども、先生方が亡くなりました。「行ってきます」と手を振って家を出た、あの日の姿が胸に焼き付いたままです。毎日、駆け回っていた近所の子どもの姿も消えました。このことをどう受け止めればいいのか。多くの人が心のバランスを崩しています。まさに前例のない事態です。教育委員会には前例のないことなのだから、この事実にしっかり向き合って知恵を出し合いましょうと、話し合いの必要性を呼びかけてきました。はじめはかみ合わなくても、話し合いを重ねていく中で、何らかの方向性が見えてくるはずです。
昨年(2011年)4月9日の第1回目の説明会で「倒木があったので山には避難できなかった」そして「三角地帯に避難の途中で津波が来た」(三角地帯とは北上大橋のそばの堤防です)と説明をうけましたが、山には倒木が一本もなく、子どもたちは学校のすぐそばで波に飲まれています。
大川小学校だけが、こんなに多くの子ども、先生が管理下で亡くなったという事実に向きあったとき、単に「想定外」という言葉は使えません。ましてや、一本も木が倒れていないのに「倒木のため山へ逃げなかった」で済ませてはいけないと思います。
これまでの説明では、「倒木」をはじめ、避難が遅れたことが仕方なかったという事柄が強調され、逆に「バスがあった」「情報があった」「子どもは山に行きたがっていた」という内容は、できるだけ出さない、あるいは「確認できない」としています。少しでも長い間避難していたことにするためか、避難開始時間は曖昧にされ続けてきました。
避難するための「時間」「情報」「方法」がありながら、結果として1mも上には行っていません。また、多くの証言から子どもたちは「山へ逃げよう」と進言したことが明らかになっています。山へ向かったのに戻された児童もいます。目の前にある山に逃げたかったにもかかわらず、迫り来る津波の恐怖におびえながら、校庭にじっと待たされていたのです。市教委でもその事実はつかんでいるはずですが、これまでの説明ではその部分はカットされています。
教育委員会では今後の防災教育について「自分で判断できる子どもの育成」を掲げていますが、この点においても大川小の子どもたちが「山へ」と判断して、進言していた点は非常に重要です。けっしておざなりにしてはいけないと思います。
先生方を責めるのではありません。事実を隠し、そっとしておくことが先生方を守ることではないのです。教育委員会・遺族の立場を超えて、それ以外の方々とも一緒になって「命」について、考え、話し合い、伝えていきたいと思います。
あの日まで、大川小学校の教室で、校庭で光り輝いていた命の話をしたいのです。「行ってらっしゃい」と笑顔で送り出された命。恐怖の中黒い波に飲まれてしまった命。それは、守れたかもしれない命です。私たちはその命に真剣に向き合わなければならないと思っています。目指す方向は対立でも暴露でもありません。
学校管理下でこれだけ多くの犠牲を出しながら、これまでの市教委の対応はあまりに残念で、説明会のたびに失望しています。肝心なところは、「メモは捨てました」「メールは削除しました」「忘れました」「記憶がはっきりしません」と言うばかりで、はっきりしないまま、時間がかかってしまいました。「誠心誠意」とか「重く受け止める」などといくら言われても、これでは信用できません。
教育委員会のこうした体質は、学校の信頼を取り戻すためにも正していくべきです。今までの見解が事実と違っていたのであれば認め、真の検証をしてほしいと思います。
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