日本維新の会のアントニオ猪木参院議員が国会会期中に北朝鮮を訪問したことを巡り、61年ぶりに参議院の懲罰委員会が開かれることが決まった。なぜ、あえて訪朝し、北朝鮮の高官とどんな話をしたのか。猪木氏に聞いた。
――今回の訪朝の目的は。
猪木:今回が27回目の訪朝になりました。このたび平壌に、私が理事長を務める「スポーツ平和交流協会」の事務所を開設しました。
スポーツを通じて、日朝間で様々な交流ができるといいと思って、前から提案していたんです。かつて招待所があったところに新しく建てた非常に立派な建物で、環境もとてもいい。前にサッカー場があって、斜め先にメーデースタジアムがある。今回お会いした張成沢(注:国防委員会副委員長。事実上の北朝鮮ナンバー2とされる)さんも「ちょっと手狭かもしれません。でもこれがもっと大きな施設に早くなりますように」と話していました。
特に北朝鮮という国はいろいろな制約がありますけど、スポーツ交流なら誰も反対できない。日朝間は様々な懸案が山積しているにもかかわらず、政府間の対話が進んでいない。この平壌事務所は日本と北朝鮮の対話の糸口になるのが、ひとつの狙いかなと。ちなみにこれ平壌だけじゃないんですね。パキスタンやニューヨークにもある。
スポーツ交流に関しては日本体育大学のサッカーチームが、そしてバレーボールも試合をやりましたけど、5万人も集まった。今回の事務所開設は、我々の思っている以上に大きな期待をされているようです。
■懲罰「真摯に受け止める。しかし…」
――参議院の懲罰委員会が開かれることが決まった。「議院運営委員会の許可を得ずに訪朝したため」と報じられている。
猪木:政治家という身分で、特に北朝鮮になると、今の状況で他の議員も神経質になるだろうということは予想できました。どういう懲罰が降りても、しっかり真摯に受け止めます。
そのうちに、「そこまでして訪朝する意義があるのか」ということも、論じられると思います。この10年間、日朝関係は日本の首相が毎年替わった時期があって、前に進まなかった。やっと安定政権に入って、安倍総理が「拉致問題は自分が任期中に解決します」という発言もしました。それに対する本音の話は、テーブルをはさんだ話じゃなくて、酒を飲み交わしていく外交ですよ。私の外交はそれしかない。
私の政治活動ってのはね、選挙中から言っているように、外交一本です。選挙中に「北朝鮮問題をお願いします、拉致の問題も」と、皆さんから握手されたり激励されたりした。それを議員になってやったということ。
――政府とは別に議員が勝手に外交で動いていいのかという批判もある。
猪木:二元外交とかいろいろ言われるけど、結局、この10年を振り返ってみて、何か動きましたか。安倍政権が日朝交渉を進めようと本気でやっておられるのであれば、そこに水を差す必要はないと思います。私自身、微力かもしれないけど、何か役に立ちたいなというのが本音です。
■北朝鮮実質ナンバー2・張成沢氏と話したこと
――今回、張成沢氏と、どんな話をしたのか。
猪木:訪ねて来られて、30分ほど話をしました。詳しい話は差し控えるけど、スポーツ交流を国家体制で力を入れたいという話はされていました。張成沢さんは国家体育指導委員会の会長で、今はオリンピックに向けてメダルが取れる選手の育成というのが至上命題なんですね。それには海外の交流試合をしないといけない。その辺も意見が一致しました。
人の交流が高まっていけば、1995年に平壌で開かれた「平和のための平壌国際体育・文化祝典」(平和の祭典)のようなものも、ぜひ来年お願いしますという話もありました。また、「1995年以上のイベントを開催したいですね」とも言われました。あのときは外国から観光客が1万1000人ぐらい入ったんです。それ以上のものを期待するということ。
また、非常にデリケートな話もいたしました。
――たとえば?
猪木:まあ……一つには、今の安倍政権の考え方とか手の内を、非常に分析していますよね。早く拉致問題も解決したいという、日本国内の世論も分かっています。
だからこちらは、議員団を派遣したいと申し上げました。議員ととにかく腹を割って話をする。「拉致問題に強硬な方も受け入れてもらえますか」と尋ねたら「お迎えします」と。私としてはせっかくそういう場ができたとき、どんな主張が出ても、物別れにならないよう、次回につながる話し合いをお願いしたいと話した。それも先方は理解してくれたと思います。
北朝鮮がどういう国か、相手をしっかり知らなければ本当の交渉もできない。日本人の多くは「向こうは金が欲しいんだよ」と思っている。そういう問題じゃない。プライドがすごく高い国ですから、納得のいかないお金は受け取らないこともある。
飯島(勲・内閣官房参与。2013年5月に訪朝)さんも言い出しているじゃないですか。拉致被害者の名簿を日本側がちゃんとしないで、どうやって話し合いをするのか。
私も外交一本ということで国会に送って頂いたわけですから。ぜひとも早いうちに議員団に行ってもらいたい。「外交に勝者なし」という言葉があるように、お互いが半歩下がろうや、こっちも半歩下がるよ、とやりながら、最終的には国益という方向に向かえばいい。
■「今はどんな批判を受けても、時がすべての裁判官」
北朝鮮との関わりについて、猪木氏は以下のように語った。
歴史から言うと、私の師匠・力道山が北朝鮮(戦前に日本の植民地だった朝鮮半島北部)の出身でね。私は師匠にブラジルでスカウトされて、付き人を3年やりました。1989年に国会議員になってから、初めて師匠が北朝鮮の出身だと知ったんですね。「力道山物語」という本をもらいまして、万景峰(マンギョンボン)号(注:日朝間を往復していた貨客船。2006年7月から日本で入港禁止措置が続く)で、新潟で娘さんに会ったとか、いろんなことを知りました。
師匠の思いは故郷に錦を飾りたいということだった。でも北朝鮮には行きたくなかったようです。1963年1月かな、日韓国交正常化の一つの役割として韓国に招待されて、当時の大野伴睦さんとか、児玉誉士夫さんと会いましてね。韓国で大変な人気で歓迎された力道山が、「一つだけお願いを聞いてくれ。板門店に行きたい」と。案内されたら、やにわ1月の寒風すさぶなかに上着を脱いで走り出して、北に向かってだいぶ叫んだと聞いています。米軍も韓国軍もいて、大騒ぎになったようです。
そんなことを知って、師匠の思いを届けようと1994年に行ったのが最初です。「北朝鮮の人はプロレス見たことないでしょう」と、1995年4月に「平和の祭典」を開催したのですが、2日間で38万人の観客に来ていただいた。そんなことから毎年招待を受けまして、本当に腹を割って話ができる、私しかないパイプを築いた。私もスパイ行為するわけじゃないから、向こうも気を許してくれて、ざっくばらんに質問すると、生の声を聞かせてもらえる。
「今回、北朝鮮メディアは私のことを取り上げました。力道山ストーリーのような、昔の試合の映像が流れて、私が付き人をやっている姿が最初にちょっと出て、そのあと私が交渉した映像をいくつかまとめて放送しました。きっと100%近い視聴率だから、皆さんまた認識を新たにされたんじゃないですかね。外に出て、軍隊の車が何台もいるところに、私が手を振ったらみんな「ワーッ」となりました。市民もバスの中から私に手を振ってくれましたね。
日本の国会じゃ、北朝鮮というだけでイメージよくないですよ。私も生身の人間だし、国会の赤絨毯が針のむしろですからね。そこをあえて私がこれだけ踏み込んでいる。そういう中から、今後の猪木の役割を理解してもらえればと思う。国民、ファンはわかってくれる。「時が全ての裁判官」という言葉がありますけど、時代が過ぎたときに、ああそうかということでいいと思いますよ。今はどんな批判を受けても。
――安倍政権は任期中に日朝の問題を解決するといったが、猪木議員から見て欠けているものは。
猪木:対話でしょう。安倍さんが前に政権に就いたときに経済制裁を2回かけた。「対話と圧力」を合言葉に、圧力はかけましたね。あとは対話しかないじゃないですか。でも本当に対話をしている人が日本にいますか。
総理が毎年替わっていた時代、拉致担当大臣も毎年のように替わりました。そんな中で向こうから見れば、「誰と本気で話したらいいの」と、日本がおかしな国に見える。私は、スポーツ平和交流協会の平壌事務所を通じて、向こうの皆さんにも日本の実像を伝えていきたい。
――日本国内で、対話しなければ打開できないという議論が通じないように感じるのでは。
猪木:少しは変わってきた。今回の訪朝に関しては、専門家や評論家が確かなコメントをされている。日本人はみんなで渡れば怖くないと、一つの流れができると全部そっちになってしまう。それに異を唱えたら袋だたきに遭う。あえて言うのは勇気がいると思いますよね。
国会議員というバッジをはめた以上、役を果たさせて頂ければ。イラクの人質解放(1991年の第1次湾岸戦争)も当時の日本政府は評価しませんでしたが、人質の家族には喜んでいただきましたし、日本国民の多くの方からの支持をうけました。カンボジアやソマリアなど危険地域には、自衛隊が行く前に物資を運びました。ロシアではウォッカ飲み交わして、KGBの親分やエリツィンさんともお会いしました。10月にはパキスタンに地震の救援物資を運びにいきました。危ないところばっかり行っていましたけれど、猪木のキャラクターというのかな。人ができない、やれないこと。結局猪木は何がやりたいの?と言われたら「人が喜ぶことが、俺の喜びなんだ」という言い方しかないな。