「今度の参院選は日本の未来を占う重要な選挙。みんなもっと関心を持とう。有権者としての責任を自覚し、各政党の政策をしっかり吟味して投票に行こう」。そう訴えるのは映画監督の想田(そうだ)和弘さんだ。
最新作『選挙2』が公開されるのにあわせてアメリカから来日中の想田監督は、映画のPRだけでなく、ツイッターなどのソーシャルメディアをはじめ、テレビや新聞などの各種媒体、全国各地で開かれている集会などで「民主主義の危機」を訴え続けている。日米両国を行き来しながらドキュメンタリーを作り続ける監督の目に、参院選を目前に控えた日本社会はどう映っているのか?その胸中を聞いた。
■すべての問題の根っこは「有権者が消費者化してしまった」ということ
―――参院選の前哨戦となる6月の東京都議会選挙で自民党候補が全勝。この結果についてどう思われますか?
自民圧勝は予想していたが、相変わらずの低投票率に驚きました。なぜこのような状況がずっと続くのか。それは、有権者が自分たちのことを「消費者」のようにイメージしているのが理由だと思う。
09年は民主党が大勝して政権交代したのに、わずか3年後には自民党が圧勝して元通りだなんて振れ幅が大きすぎませんか?有権者の投票行動が「場の空気」に左右されているようにしか思えません。消費者には当事者意識がない。提供されたサービスの中から選び取るだけの受動的な存在なんです。仮に良質な商品が出てこなくなったら「それは供給者側の責任だ」と考え、自分たちは買ってやらないぞという姿勢になってしまう。
この考えを政治に当てはめると二段階のレベルになると思うんです。第一段階は「良質な商品=いい候補者」がいないのなら投票しないというレベル。第二段階は、それでも投票をすると決めた人たちであっても、質はともかくとりあえず流行っている「商品=候補者、政党」に一票を投じるというレベル。
組織票で大勢は決まるんじゃないかという意見もあるが、もしそれが事実ならば、選挙は毎回ほぼ同じ結果になるはず。でもそうなっていないのは、浮動票の動きが選挙に大きな影響を与えているはずなんです。今回の都議選では浮動票の2割が自民に入り、民主党にはほとんど流れなかったという分析もある。浮動票も社会の流行に左右されているということを見ても、有権者の意識が消費者的になっていると言わざるを得ない。
―――「有権者の消費者化」とは初めて聞きました。それは監督がアメリカ在住で日本を客観視できる立場にあるからこそ生まれたアイデアなのでしょうか?
それは多少あると思います。アメリカの方が早くから「消費者民主主義」は進んでますしね。また、ここ数年の日本の出来事がアメリカのニュースでどのようなタイミングで伝えられたかというと、「東日本大震災が発生」の次に「震災後初の衆院選で自民党が政権奪還」という感じ。その間の日本国内での詳しい動向は詳しく報じられない。いわばノイズが少ないので、日本に住んでいる人たちよりも、ときには本質的に各ニュースの関連性を考えることができているような気はします。
―――『選挙2』はまさにその二つの大事件の間にあった2011年4月の統一地方選を題材にしていますが、製作時の思いは。
ひとことで言うなら「不条理」ということでしょうか。というのは、あれほどの大災害が起こった直後の選挙だというのに、やり方が以前と変わらないものだったということ。選挙カーも当たり前のように走っていたし、駅前では「おはようございます、いってらっしゃいませ」と候補者たちがコメツキバッタのように頭を下げている。原発を今後どうするのかという議論もなされないまま、震災前の日常と変わらないような景色の中でいつもどおりのおかしな選挙戦が繰り広げられることに強烈な違和感を感じた。
それから約1年半後、衆院選の結果が出た時には、国民が自民党のやり方がダメだと思ったから民主党に政権を任せたはずなのに、それがなぜまた元に戻ってしまうのか不思議でしょうがなかった。原発事故が起きたそもそもの原因や責任は原発政策を推進してきた自民党にあるはず。もちろん民主党政権もホントに酷かったから、自民党が民主党と一緒に没落するなら理解できるけれど、民主党が大敗して自民党が大勝したことに何とも言えない気持ちでした。
―――その「不条理さ」もあえて映画の中では説明しないんですね。
そうですね。政治に限らず、映像の世界でも「観客の消費者化」が酷いので、それに少しでも抵抗したいんですよ。映像を消費する人たちというのは映像を能動的ではなく、受動的に観ることになる。お金を払って「さあ、楽しませてよ」とスクリーンの前に座る。だけど観察映画に説明テロップは出ないし、ナレーションもないので、観る人たちに映像を観察し考えることを強要することになる。それは同時に、観客が映像の意味を能動的に探るようになるということ。映像の作り手と受け手が対等な立場で向き合う構図がここに生まれる。だから、『選挙2』を観た後は、きっといろんな人と議論をしたくなると思う。候補者の演説シーン、街の風景など「あのシーンってどういう意味だったの?」と色々考えてみて欲しい。だからあえて「不親切」にしているのです。
政治の話に戻すと、有権者が消費者になってしまったら、政治家との立場は対等なものではなくなってしまうと思う。彼らの政策を吟味することは自分たちの仕事ではなく、政治家自身やメディアのやることだと考えるようになるのでは。たとえば自民党の「アベノミクス」なんてのは、それこそ典型的な誇大広告で、「消費者」を誤った印象に導くための宣伝文句だと思うけど、消費者化した有権者は、その是非を吟味するのではなく、「最近よく聞くし、流行っているようだからちょっと買って(=投票して)みようか」という流れになってしまいますよね。
―――それは有権者が「賢い消費者」になることで解消される問題ではないのでしょうか?
そうじゃないんです。むしろ、それだけは避けないといけない。「私たちは消費者じゃないんだ」ということに気づかなければ、論点のすべてがずれていってしまう。有権者と消費者は根本的に違う。民主主義とは、主権者である民衆のひとりひとりが判断し、決定し、責任を負うという政治システムですよね。この「責任を負う」というところが大事なんです。でも、消費者は責任を負う必要がない。この点が決定的に違います。
―――「有権者が消費者化している」という問題に気づいたきっかけは?
大阪であったトークイベントで、会場の若い人から「政治ってわかりにくい。ハードルが高い。だから参加しにくいんですよ」という発言が出た時にハッと気づいたんです。この若者に限らず、政治のことをわかりやすく説明するのは、「サービスを供給する立場にある政治家やメディアの側にある」と思い込んでいるのではないか。自分が政治課題を理解しようとする努力をせず、自分が政治に対してできることもあまり考えていないんじゃないか。それこそ、自分たちを消費者とみている証拠じゃないかと。
それに気づいたことでいまの日本政治が抱える諸問題がクリアに見えてきました。橋下徹・大阪市長のような政治家に支持が集まったのは、政治を「わかりにくい」と思っている消費者としての有権者が「わかりやすい」政治をしてくれる人を求めているからなんだと気づきました。彼らのわかりやすい話が本当か嘘かを吟味することこそ有権者の責任なのに、それを放棄しているような気がしてならない。これは日本の政治が抱える非常に根深い問題です。
―――参院選に向けて有権者がすべきこととは?
まずは投票することでしょうね。それがないと何も始まらない。また、参院選の結果がどうなろうと、あきらめてしまうのも違う。選挙は政治プロセスの重要な装置ですけど、それだけが政治参加の道筋ではない。デモをしたり、ツイッターやフェイスブックやハフィントンポストで発言したり、同僚や友達と政治の話をするのも立派な政治参加です。そういう営みを根気よく続けていく必要があるのではないでしょうか。
■危機感を抱く少数の人々、その外側の圧倒的な無関心
想田監督のコラムを毎月掲載しているブログ「映画作家・想田和弘の観察する日々」。最新回のタイトルは【参院選直前。この「恐るべき無関心」と、どう闘うか】。参院選を目前に控えた心境が語られているのでご紹介したい。
分かっていることは、「民主主義危機センサー」の針が敏感に振れている人間は、決して僕だけではないということだ。そのことを心強く思う。そして、その小さなサークルの外には、センサーが作動していない、巨大な「無関心」が広がっているということだ。そのことに、正直、絶望的な思いを抱いている。
この「恐るべき無関心」と、私たちはどう闘っていけばよいのか。現時点では、僕にはよく分からない。「恐るべき無関心」がこれ以上大きくなったら、民主主義は本当に終了する。そのことだけは、はっきりしている。そこで僕の頭をよぎるのは、やはり日本国憲法第12条の一節だ。
「日本国憲法第12条:この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」
結局、これに尽きるのだと思う。日々の生活の中で、自分にできることをやり続けていく。自分に拾えるゴミを拾い続けていく。そして、候補者や政党や政策を時間をかけて吟味し、選挙で投票することは、私たち市民に求められる最低限の「不断の努力」なのである。
(「マガジン9」より転載)
■映画『選挙』と『選挙2』
想田監督は、台本・事前打ち合わせなしのぶっつけ本番で撮影に臨み、音楽もナレーションも入れないドキュメンタリーを作る「観察映画」という独自の手法で知られる。これまでに発表した作品はどれも世界から高い評価を受けている。
作品第一号となったのが、2007年に公開された映画『選挙』。2005年秋の川崎市議補選を舞台に、当時の「小泉ブーム」を背景にいきなり自民党公認の新人候補として選挙戦を戦うことになった、大学の同級生である「山さん」こと山内和彦氏の「どぶ板選挙」ぶりをコメディタッチで描いた。政治についてはまったくの素人である山内氏が、自民党のベテランスタッフに怒られながら選挙区を駆けまわる様子など普段は見られない選挙の舞台裏が反響を呼び、世界200カ国近くでテレビ放映されるまでになった。アメリカでは同国放送界最高の栄誉とされる「ピーボディ賞」を受賞。ベオグラード・ドキュメンタリー映画祭でもグランプリに輝いた。
続編の『選挙2』は東日本大震災直後の2011年4月にあった統一地方選(川崎市議会)が舞台。前作に引き続き主人公として登場する山内氏は、05年の宮前区補欠選挙で当選、07年は自民公認が得られず不出馬。その後しばらくは主夫として子育てに専念していたが、社会の自粛ムードと原発問題をあえて争点にしない候補者たちにいらだち、急きょ無所属での立候補を決意する。05年の自民党の完全なバックアップによる「どぶ板選挙」とは打って変わり、地盤・看板・鞄すべてを捨てて臨む丸腰選挙。選挙にかける費用はポスターとハガキの印刷代8万4720円だけ。子どもたちのために「脱原発」を掲げ、初めて生身で向き合った選挙戦を描く。
渋谷のシアター・イメージフォーラムほか全国順次公開中。
1970年栃木県足利市生まれ。東京大学文学部卒。スクール・オブ・ビジュアルアーツ卒。93年からニューヨーク在住。NHKなどのドキュメンタリー番組を40本以上手がけた後、台本やナレーション、BGM等を排した自ら「観察映画」と呼ぶドキュメンタリーの方法を提唱・実践している。
■取材を終えて
丸山眞男という政治学者をご存知だろうか。終戦翌年の1946年に発表された「超国家主義の論理と心理」や「日本の思想」などの著作で知られ、戦後日本の政治学・思想史学を築き上げた立役者の一人だ。
彼が1960年、日本女子大学生新聞の取材に応じたインタビュー記事「私達は無力だろうか」の中に、選挙についての次のようなやり取りがある。
インタビュアー:現在、民主主義の世の中として代議制の議会政治が行われていますが、果して皆の一票一票から選ばれた議員による代議制であるから、そこでは正しい政治が行われているのだといっていいのでしょうか。
丸山氏:代議制とか、国民を代表して代議士が政治をするといいますが、この代表っていう観念をもう一度考えてみなければいけないと思うのです。(中略)制度というものについてそれは出来上がった既製品として上の方から我々に天降ってくるものだと考えずに、我々の行動が日々制度を作っているという側面をもって考えることが必要です。人間の行動をはなれては制度は一日も動きません。我々の行動が日々制度を作っているのですね。
『丸山眞男集第十六巻』(岩波書店)「丸山眞男氏に聞く」より抜粋
想田監督から「有権者が消費者化している」という言葉を聞いた時、学生時代に学んだ政治学を思い出した。自宅にある政治関連の本を探したところ、上にあげたインタビューが見つかった。この一致が日本政治が抱える問題の根深さを示すのか、時代を経ても揺るがない民主主義の本質を示すものなのかはわからないが、半世紀を経て丸山氏と想田監督の「今ある制度を既製品として受け取るな」という指摘が重なったことに驚いた。
「選挙じゃ政治は変わらない」と日和見を決め込むのもいいが、有権者である私たちは投票権という絶対的な力を持っている。それはどんなに偉い政治家をもひれ伏させる「魔法の杖」だ。
この社会の王様は国会に集う政治家たちではない。有権者である私たちだ。だから、「日本を取り戻す」のも安倍総理の仕事ではない。それは私たちの仕事なのだ。
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