「嫉妬しない、羨ましがらない」ために

人と比較すること。これに尋常ではない熱意を見せる人々がいる。「容姿」、「収入」、「知的能力」、「名声」、「学歴」、「資産」、「地位」など、挙げれば出せばきりがない。

人と比較すること。これに尋常ではない熱意を見せる人々がいる。

「容姿」、「収入」、「知的能力」、「名声」、「学歴」、「資産」、「地位」など、挙げれば出せばきりがない。純粋に「健全な競争意識」にとどまればよいのだが、人間誰しもそういう訳にはいかない。一つ間違えば、

「嫉妬」、「選民意識」、「差別」という負の側面が見え隠れする。

現在の世の中は資源も地位も限られた数しか無く、それを獲得することを目指せば必ず競争になる。したがって、競争を全くせずに生活している人は世捨て人であり、めったにお目にかかることはない。

多かれ少なかれ、皆競争の中で生活する。

しかし上に上げたように「競争の負の側面」にとりつかれないようにすることはそれなりに大変だ。

何十億、何百億という報酬をもらっている経営者ですら、「あいつの給料より少ない」という理由で契約をゴネたり、ステータスだから、という理由で「プライベートジェット」を乗り回す。

さらにそれにに嫉妬する一般庶民が彼らを攻撃し・・・、と嫉妬のスパイラルには際限がない。

だが、嫉妬は純粋に感情的な問題であり、論理が存在しないので、これに対処するのは厄介である。

「嫉妬は無意味だ」

「嫉妬は見苦しい」

とわかっていても対処できないのは、皆が人間であることの証である。最近では匿名で発言できる場所が増え、嫉妬を隠そうともしない人も多いが、当人にとって気持ちの良い行為ではないだろう。

では、この厄介な感情とうまく付き合うにはどうするべきか。

まず理解しなければならないのは、「嫉妬は、尺度の問題」という認識をすることである。

フランシス・ベーコンは、著作「随想集」において

「嫉妬はつねに他人との比較においてである、比較の無いところには嫉妬は無い」

と言った。

比較をしなければ、嫉妬は生まれない。そして、比較をするためには、自分のある側面を他者と比較をするために、尺度を作っているということである。

例えば、収入という尺度、容姿という尺度、学歴という尺度、あらゆるものが尺度となる。

嫉妬に苦しんでいる状態というのは、まさしく「尺度」が固定化されており、それ以外の尺度で物事を見ることができなくなっている状態だ。

年収に嫉妬する人は、年収以外の尺度に価値を置けない。

容姿に嫉妬する人は、容姿以外の尺度に価値を置けない。

年齢に嫉妬する人は、年齢以外の尺度に価値を置けない。

恋人に嫉妬とする人は、恋人以外の尺度に価値を置けない。

いずれも、自分が最もほしいものの一つだからだ。

しかし、考えてみて欲しい。「欲しいもの」は不変だっただろうか?

そんなことはない。

自分が小さい頃に欲しかったものは、今は欲しくなくなってしまった。そして、自分が老人となり、死ぬ間際となった時、欲しいものは今と一緒だろうか。

おそらく違うはずである。

理由がわかれば、嫉妬という感情はコントロール可能である。

嫉妬を感じなくすることはできないが、嫉妬をコントロールするのは実は容易い。

「7つの習慣」という本がある。世界で最も売れた自己啓発書の一つだが、そこにこのような一文がある。

「主体的な人は、自分のどうにもならない世界に労力を割いたりはしない。自分が影響を及ぼせる場所に注力する」

簡単に言ってしまえば、「どうにもならないことは、考えない」という態度が良いということだ。

隣の人が何をやっているかなんて、どうでもいい。自分が何を思ったところで、何も変わることはない。

テレビに出ている人が何を成したかなんて、どうでもいい。自分が思ったところで、何も変わることはない。

嫉妬に対する最強の武器は、「無関心」と「行動」である。

テレビを消して、自分の手を動かそう。

メディアサイトを見ることをやめて、自分でものを書こう。

成功物語を読むのをやめ、目の前の成果に注力しよう。

そうしたら、嫉妬するヒマなんてこれっぽっちもない。

(2014年2月14日 Books&Apps に加筆・修正)

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