安倍内閣は、集団的自衛権行使容認派と報じられる小松一郎氏を内閣法制局長官に起用するなど、解釈改憲に走り出しているように見えます。菅官房長官も記者会見で、「内閣法制局は内閣を補佐する機関。憲法解釈についてはあくまで内閣の責任で行う。」と述べ、これまでの内閣法制局による解釈に縛られず、解釈を変更することに含みを持たせています。
菅長官の発言はその限りでは間違いなく、民主党政権でも、下部機関である内閣法制局ではなく、内閣が憲法解釈の責任を負うという観点から、私が、内閣官房長官や国務大臣として憲法解釈を含む法令解釈を担当しました。
しかし、内閣が憲法解釈の責任を負うことと、これまでの解釈を恣意的に変更することは意味が違います。枝野も、2010年3月16日の参議院内閣委員会において、法令解釈担当大臣として、「基本的には、政権が替わったからといって憲法の解釈を恣意的に変更するということはあってはいけないことだと思っております。」と答弁しています。行政府による恣意的な憲法解釈の変更を認めることは、立憲主義という大原則に反することになるからです。
立憲主義とは、「政治権力の権威や合法性について、それらが憲法の制限下に置かれていることに根拠を置く考え方」をいいます。法律や政令等は政治権力が国民に向けて命じるルールですが、それらが正当性を持つのは、政治権力(今の日本では内閣や国会)が主権者(今の日本では国民)によって定められた憲法というルールに従っているからです。国民に向けたルールではなく、政治権力に向けられたルールであるという点で、憲法は法律等と決定的に異なります。
日本は、主権者が国民であり、民主政を採用して国民の多数意思によって政治権力が行使されますから、立憲主義の重要性が忘れられがちです。しかし、立憲主義の基本は、時に多数決民主主義にも優先する、近代国家としての最重要原則です。というのも、多数決民主主義は、抽象的には最善・適切な判断をする政治形態であると考えられていますが、具体的に常に正しい判断を下す保障はなく、国民の人権や自由を損なう恐れがあるからです。
そこで、一時的な多数意見によっても侵害してはならない人権や自由、あるいはそれらを保障するための公権力行使の手続きなどについて、あらかじめ憲法によって抽象的なルールを定め、多数意思によって支えられた内閣や国会も、それに従わなければならないとしているのです。近代立憲主義国家の大部分が、憲法改正について、通常の法律よりも厳格な手続きを定めている背景にも、こうした考え方があります。
内閣は憲法によって拘束されている当事者ですから、その恣意的な判断で解釈を勝手に変更できたのでは、憲法によって拘束している意味がなくなり、立憲主義を根本から破壊することになります。憲法判断の最終決定権のある最高裁判所によって新たな判断がなされた場合や、これまで論じられなかった新しい論点が生じた場合には、内閣法制局の意見を参考にしながらも、内閣の責任と判断でこれに対応することはありえます。
また、一般に「解釈改憲」と呼ばれるケースの中には、ルールそのものを変更するのではなく、ルールに当てはめるべき事実の実態が異なるために、結論が変わったように見えるケースも少なくありません。
しかし、これらと異なりルールそのものについて、過去の解釈と整合性のとれない解釈変更を一方的に行うことは許されません。安倍内閣がよもや、近代国家としての基本である立憲主義に反することを最終的に行うとは思いませんが、もしそのような暴挙に打って出ようとすれば、これを阻止すべく、国会の内外で厳しく指摘をしていかなければなりません、
ところで、解釈改憲の話が出ているのは、自衛権に関連する憲法9条の問題です。憲法9条は徹底した平和主義を規定し、これまで、日本が軍事大国になることを阻止する上で、重要な『歯止め』の役割を果たしてきました。
しかし、今回のことで改めて突き付けられているのは、専守防衛や集団的自衛権不行使など安全保障にかかわる重要な憲法上のルールが、解釈というたいへん脆弱な土台の上にあるということです。平和主義を維持するためにも、また、現実の我が国の安全保障を確保する上でも、自衛権行使の限界などのたいへん重要なルールが解釈に依存していることは、本来、望ましいことではありません。
これまでの解釈を基本に、我が国の平和と安全を確保する上で必要最小限の自衛権とはどのような範囲なのか、現行の9条に続けて、より具体的かつ明確な新たな規定を追加することが必要であり、そのことで、恣意的な解釈変更や拡大解釈を阻止すると同時に、現実的な安全保障政策を推進することが可能になります。
無限定・懐古主義的な9条改正でなく、また、教条的な護憲論でもなく、平和主義を守りつつ現実的な安全保障政策を推進できる憲法9条・第三の道を提起して参ります。
【参照】