受験シーズン真っ只中ということで、今日は「試験」について。
東大が推薦入試を導入するのですが、これが賛否両論で。
ご意見様々な中、今回注目したいのが「推薦入試なんて基準が曖昧で公正でない」という推薦反対のご意見です。
確かに推薦入試というのは面接やら小論文やら内申やらが主体でどういう基準で合否判定されているのか第三者はもちろん受験生にもよく分からない代物。こっそり不正があるんじゃないかと疑う人が出てもおかしくはないでしょう。
一方、通常の筆記試験は点数の多寡で勝負するので客観的。また出題範囲も厳格に規定され、過去問も公表、予備校各社で洗練されたほぼ公式と言っていい模範解答も簡単に手に入ります。
少しでも変な問題があろうものならすぐにケチがついて不適切問題扱いになりますし、例年に比べて難しすぎても簡単すぎても文句が出ます。
どの受験生にとっても平等な戦いと言え、確かにその公正さ・透明性は推薦入試には無い魅力です。
しかし、この一般に重視されている「試験とは公正で透明であるべき」という価値観ですが、実は大きな弱点があるのです。
東大が推薦入試を導入したのもこの弱点に悩んだ末かもしれません。
今日はそんなお話です。
■美味しいみかんを選ぶには
今、私たちは美味しいみかんを選んで出荷したいみかん農家とします。
どうやって選びましょう?
もちろん実際に食べて美味しいのが美味しいみかんですが、食べてしまっては商品になりませんから食べずに判定しないといけません。
幸い、経験的に重いみかんは実が詰まっていて美味しいことが多いということが分かっています。
ならば、重さで分けることで食べることなく美味しいみかんを選ぶことができそうです。
つまり「重いみかん⇨美味しいみかん」「軽いみかん⇨不味いみかん」という基準で試験をすることで、私たちは目的の美味しいみかんを集めることができます。
ま、そりゃそうですよね。
さて一方、問題の「入学試験」を見てみましょう。
大学は頭のいい学生を選んで入学させたいとします。
実際に入学させてから頭がいいかどうか吟味するのが一番ですが、そうもいかないので試験をしないといけません。
幸い、経験的に筆記試験の点数が良い学生は頭がよいことが多いことが分かっているので、みかん農家にならって「点数が高い学生⇨頭がいい学生」「点数が低い学生⇨頭が悪い学生」という基準で入学試験をすることにしました。
これできっと頭がいい学生が入るに違いありません。
ところがやっぱり人というものはみかんとは違うのでした。
・何の意思も持たないみかんと違って、受験生は入学したがっています。
・何の知能も持たないみかんと違って、受験生は試験の仕組みを理解できます。
そしたらどんどこしょ~。
はい、みかん自らが重さの基準を突破するべく重くなろうとし始めるのです。
すなわち、受験生は大学が本来求めている「頭がいい学生」を目指すのではなく、「試験の点数が高い学生」を目指すようになってしまいます。
公正で透明な試験であるおかげで「点数が高い学生」に必要なハードルは、どうなったらそうなれるのかよく分からない「頭がいい学生」よりよっぽど明瞭なので、多くの受験生が目指しやすい「点数」を選んでしまうのです。
言わばみかんが美味しくなろうとするのではなく重くなろうとする状態です。
試験の基準を理解できてしまうがゆえに、本来の「理想像」ではなく「合格基準」を目指すのです。
もちろんこれでも実際にちゃんと実をつけて重くなったみかんは、やっぱり美味しいのかもしれません。
しかし、あくまで「重いのが美味しいみかん」という経験則は「みかんが勝手に味に関係なく重くなることはない」という前提に基いているものです。
重さだけでの試験では「実が詰まってないのに無理に重りを内蔵したみかん」という恐るべきイレギュラーを除外できません。
つまり公正で透明な試験というものは試験対策が可能であるがゆえに、「点数は良い」けれど「頭は良くない」そんな学生が増えるリスクを内包してしまっているのです。
■みかんが美味しくなくなってきたら
みかんを始め生物の適者生存というものが一般にゆっくりと進むように、この「点数学生」への進化もちょっとずつ進んだ可能性があります。
そんなに美味しくないのに重いだけで合格する人が少しずつ混ざり始めたのかもしれません。
あるいは、社会環境(消費者の味覚)が変わり、美味しさ(頭の良さ)だけでなく重いこと(順当な基礎学力・真面目さ)自身も実はちゃんと喜ばれていたのが、新たなブームとして小粒で軽いみかん(一芸・多様な経験・独創性)の方が好まれるようになったのかもしれません。
何にせよ、多分残念ながらみかんが美味しくなくなってきてしまったのです。
大学自身が味見をしてみても、社会からの評判としても。
結果、大学は試験を変える必要性に迫られました。
だからと言って「重さの試験」を客観的な「色づきの試験」にしただけでは、いずれペンキで自ら色を塗り替えるみかんが出てこないとも限りません。
そう、結局この「開かれた試験のジレンマ」から逃れるためには、試験を閉ざすか曖昧にする他ないのです。
とはいえ歴年の受験生も居ますし過去問の流出を止め閉ざされた試験にするのは非常に困難です。
だから、試験をあえて曖昧にすることにしたのです。
基準が曖昧であるがゆえの弱点ももちろんいっぱいあります。
選んだ側としても本当にこの学生で良いのか自信が持てないとか、他者から裏口入学を疑われるとか。
でも、公正で透明な筆記試験にだって弱点があり、それを避けるためとすれば推薦などの曖昧な試験も一理あるものなのです。
人を評価し選ぶというのは本当に難しくて悩ましいもの。
その意味では、試験は恋愛や結婚と同じ、人類の永遠のテーマなのでしょう。
P.S.
観察そのものが対象を動かしてしまう観察者効果的なお話です。
実はボツ記事のリバイバルだったり・・(/ω\)
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(2014年2月17日の「雪見、月見、花見。」より転載)