これは、なんとも残念な取り違え政策だと思います。
朝日新聞によると、文科省は小中高で使う教科書をデジタル化したい考えのようで、導入は早くても2020年以降。タブレット端末を使えば、図形を立体で確認できたり、音楽や英語を音声で聴けたり、体験型学習や自宅学習もはかどるだろうとのこと。
なにが残念かというと、デジタルの有用性を完全に取り違えてしまっている感じなのです。
そもそも、やる気がなければタブレットの電源すら入れないし、興味がないものはデジタルだろうが3Dだろうが、頭に入ってきたりもしません。できるヤツは紙だろうが黒板だろうが関係なくガリガリやるし、「学ぶ」って、そんな単純なものじゃないと思うんです。
どうして、デジタルの意義を「(教材という)コンテンツの提供」でしか考えられないのでしょうか? 先生が"指導"に使う教材としての「教科書」に、デジタルの有用性がちゃんと発揮される余地なんてほとんどありません。
■デジタルの功績と効能
情報技術や「デジタル」なるものが僕たちの暮らしにもたらした功績は、単に情報やコンテンツ報の「質の向上」なんかではありませんでした。それは、コンテンツへの参加という行為の発明であり、乱雑ながらも開放的なコミュニケーションの誘発であったはずです。
朝日新聞の記事の中には、「反転授業」という言葉が出てきます。学校の授業を、先生が指導するだけの一方向的なものから、それをベースにした議論の場に発展させていこうということです。これは、とても大切なコンセプトだと思います。
けれども、タブレットを配ったところで、自宅学習が従来の授業に代わったりはしません。くどいですが、読む・視る・聴くだけがデジタルの効能なんかじゃないはずです。
■気軽に「反応」し、ゆるく関与できるシステム
僕はよく、講演やワークショップの会場で、参加者が手元のスマホから匿名でコメントをゆるく投稿できる簡易掲示板を使います。ちゃんと挙手して、何者か名乗って責任ある発言ができることも大切ですが、まずは何かを発信すること、議論に参加することの楽しさを感じてもらえたらそれでいいと思っています。
匿名をゆるせば、しょうもないコメントもいろいろ投稿されてきますが、不思議なことに、時間とともに発言は前向きになっていきます。僕たちはきっと、何かしら直接的に参加できる場に対しては、前向きに関わっていきたいという精神性を持っているのだと感じます。そして、そんな「ゆるい投稿」から逆に気づくことや学ぶこともたくさんあります。
だから、デジタル技術を学校教育の現場で活用しようというのであれば、まずは授業中に先生に対して気軽に「そこ分かんない!」「もっとゆっくり喋って!」とか、「教室が寒い!」とか、とにかく気軽に「反応」できて、ゆるく関与できるシステムを導入すべきだと思うのです。それなら、新しいタブレットなんかわざわざ買わなくても、絶賛普及中のスマホで十分事足ります。
限られた授業時間の中で、先生が生徒全員の声を聞いてまわることはできませんが、これなら誰でも自由に意見や質問を投げることができるし、時間内に確認・反映できなくても、後で先生がまとめて確認して、次の授業に活かすことができます。
そして何よりも、生徒一人ひとりが授業という学びの場に参加できている、関与できているという体感を持つことが大切だと思うのです。
■「反応」に怯える先生たち
ただここで問題なのは、学校の先生の多くが、授業中に生徒たちから「反応」されることに慣れていないということです。むしろ、怯えていると言っても過言ではないかもしれません。ここをちゃんと突破しないと、生徒が主体、課題解決型の授業なんていつまでも絵空事です。
「挙手」というある種の関門を設けることで、これまで「先生」は授業を一方向的にコントロールできていたのだと思います。そして、揺るぎなき"先生像"を確立し、そこに安住してきました。
価値観が多様化し、正解のない時代。生徒の自発性や課題解決型学習の重要性云々については、あえてここではこれ以上触れませんが、デジタル技術の有用性と合わせて、学校の教室における「先生」のあり方や必要な資質もちゃんと見直し、変化することや手放すことを恐れずに議論していかなければならないと思うのです。