ベッキーさんの背中裸写真の広告が日本経済新聞に出されました。
それを見ながら、圧倒的な違和感に戸惑っています。
なんなんだろう、この、もやもや感。
私は、女性の裸はそもそも美しいと思うし、ヌード写真を否定するタイプでもないです。
これもとても綺麗な写真だと思う。
あえて「日本経済新聞」という媒体を選んだのも間違ってないと思うんです。
コピーも悪くない。
じゃ、なんで?
なんで、嫌な感じ。するんだろう....。
その自分の気持ちがよくわからず、いろいろと考え込んでしまいました。
私は恋愛はどういう形であれ、恋に落ちたんだからしょうがないと思う派です。それで傷ついたり傷つけられたり、それもしょうがない。でもそれはその関係の中にいる人たちにとっての問題で。
関係がない人たちが、あそこまで激しく批判したり裁く必要はないと思っていました。(芸能人だから当然という人も多いようですが。。)
ベッキーさんは、毎日これでもか、これでもかというくらい叩かれました。
そして恋を失い、仕事も失いました。
あの連日のバッシングすごかったですよね。あの頃、日本が初めて武器輸出するっていうニュースが1分しか取り上げられてなくて、ベッキーさんのニュースが20分以上で、ひぇ~とのけぞったの、よく覚えています。
そういう激しい人格攻撃の後、
彼女をもう使わない会社
彼女を使わないTV局
制裁を受けない男
そういう全体の社会の流れを、沈黙のまま横目で見ていた人は多いと思う。
「好きになってはいけない人を好きになった女性はこういう目にあうのだ」と。
私はベッキーさんはいつか立ち直って欲しいと思っていました。
ゼロになった人がまっすぐに立ち上がる時に、(その凛とした強さとか、苦しんだぶんだけ、何かそういう優しいもの)を身につけてるのを見て、励まされる人たちがたくさんいるんじゃないかと思ったからです。
間違っても大丈夫。
傷ついても大丈夫。
ちゃんと立ち直れる。
そして人生はもっと豊かになる
そんな感じ、かな。
勝手だけど、私は、たぶん、その(内面的な美しさで)みんなを圧倒して欲しかったんだと思う。
そんな新しい彼女を見たかった。
そして、その時に(恋に落ちたことで女が罰せられる時代が終わる)そう期待していた。
もちろん、この広告は、わたしの考える同じ意図もあったのかもしれない。
再起を目指してる人にチャンスをあげよう、と。
でも、それには「裸」がちょっと、余計だったんじゃないかと思う。
女が生き残るのに「裸」を使わないと戻れないのか、という違和感が。
そこまでやって初めてよくやった「覚悟できたんだな」と言われておるような違和感が。
いや、ごめん。考えすぎか。
(2016年9月29日「犬も歩けば どこかにあたる」より転載)