異端的論考9:本当に日本はやばいかもしれない:中篇
霞が関は大丈夫か? その一
これまでの3回は番外編であったが、今回は「本当に日本はやばいかもしれない」の本編に戻りたい。前編でふかす政治家について論じたが、今回の中篇では、ラリってはや(逸)る官僚について論じたい。ここで述べる官僚とは官僚個人を指しているわけではない。官僚機構という装置のことであるので、勘違いはしないでいただきたい。
まず、下記のURLを見ていただきたい。
読者諸兄は、どのような感想をもったであろうか。この「世代間格差の正体~若者って本当に損なの?」は、「いっしょに検証!公的年金」というタイトルの全11話86ページからなるマンガの一話で、厚生労働省のホームページに掲載されている。もともとは、2014年5月14日に公開されたものなのだが、最近になってまた注目を浴びている。話の筋立ては、両親と10~30代の息子・娘の家族が、年金に関する疑問や不安を口にすると、年金制度に詳しい「年金子(とし・かねこ)」(この名前のセンスが如何にもお役所的である)が「ご安心くださーい」といって登場して、その疑問に答え、現行の年金制度は大丈夫ですので安心してくださいという展開である。この辺りは、想像に難くない話である。問題は、その論理の組み立てである。
「今の高齢者のおかげで、君たち若者は豊かで高水準な生活をおくれているのだから、若者の金銭的負担が多くても損をしたとはいえないはずである。余計な心配などしないで、一生懸命働いて高齢者を支えるべきである。そして、自分の老後に年金をちゃんと欲しかったら、 子どもを沢山つくって、自分を支えてもらえば良い」という組み立てである。要は、「年寄りに感謝して、とりあえず、より多く金銭的負担をしろ。そして、働け、子を作れ、さもないと年金をもらえないぞ」と言っているわけである。これは、物議をかもした「高齢者が悪いというイメージを作っている人はいっぱいいるけれども、子どもを産まないのが問題だ」という麻生財務大臣の昨年12月の札幌での応援演説(おそらく聴衆の多くは高齢者と思うが)での発言(消費税にからむ発言の文脈から読むと政治家としてはおかしくはない発言であろうが、「子供を産まないのが問題だ」は本音であろう)と基本的に同じである。
マンガでは、現役の給与を前提に所得代替率を保障する賦課制度の優位性を述べているが、この組み立ての中に、急激な少子超高齢化を見越した上で、1人の高齢者を一体何人の現役で支えるのが賦課制度の限界であるのかの言及はなく、取りあえず、子供をたくさんつくれと言う根性論に話をそらしている。そして、財政検証があるので大丈夫(2014年の最新の財政検証ではケースを複雑化して、前回の検証で非難された試算前提の甘さをわかりづらくしている)というが、現行の年金制度維持の観点で都合の悪いところは、すべて、「将来はわからないので試算は難しい」ので「将来を暗く考えるのはやめましょう」で逃げ、核心となる厳しい数値的な議論はせず、最後は「世代間の支え合いと言う安心は大事ですよね」という議論にすり替える周到さである。
持続的経済成長が望み薄であり、少子化が止まらないという現実の可能性(両方とも十分にあり得る)を直視することなく、雨乞いのような持続的経済成長軌道への回帰(実際、持続的に経済成長をしないと年金に限らず、現在の社会保障制度は維持できないので、政治家と官僚にとっては、持続的経済成長は実現性の問題ではなく、持続的経済成長は出来ますと言わざるを得ないだけなのである。この意味で、アベノミクスとは持続的経済成長軌道への回帰に実現性があると勘違いさせる手段であるとも言えよう)という根拠のない楽観を期待するように誘導し、可能性の高い最悪を想定することは全くさせないというこれまでの常とう手段に加えて、子供をいっぱい作らないと君たちの負担は増えるし、年金も大幅減額だよという脅かしも加わった恐ろしい展開である。
これで、若者が納得するとは到底思えない。加えて、若者だから、マンガにすれば良いと思っている。若い世代をなめてはいないだろうか。今の日本社会では、40代はおろか、20代と30代でも、どこかで「老後」を心配するのが普通になってきているのが現実である。大学生が、将来、国民年金(基礎年金)に払った保険料は戻ってこないよねと平気で言うご時世である。彼らの嗅覚は意外と鋭いのである。生涯賃金は確実に減少し、非正規雇用が常態化し、20代の離職と失業が問題となり、世代間格差の拡大が話題になる中で、自分たちは損をすることを予感している彼らとしては当然の発言であろう。そもそも、今の高齢者の苦労のおかげで、今の若者は豊かに暮らせるのだから、感謝して当然と言うが、豊かさ(あくまで生活水準のことであって、このことをもって単純に高齢者と若者の「豊か」が同じであるといってよいかは疑問であるが)の代わりに、若者の夢を摘んでしまった(食ってしまったともいえる)高齢者の責任はどうなのだろうか。
厚生労働省の本音は、「世代間格差などはどうでもよく、このままでは今の高齢者を支えられなくなるのだから、君たち若者が過重に負担するのは仕方ないじゃん」である。この20年を超える経済成長停滞と急激な少子超高齢化という人口動態の変化を知りつつ、社会保障制度の抜本的改革に対して無策であったこと(マクロスライドの発動に対しては一定の評価はできるが、施策の基本は、高齢有権者の顔色をうかがいながらの小手先の変更である)を反省することなく、お前らも人の子だろうといって、最後は感情に訴えるお涙頂戴である。そもそもこのマンガの設定にはセクハラが満載である。これで、よく女性の積極的社会参画と言えるものである。完全にずれている。これが霞が関の実態である。これを、年金制度の元締めである厚生労働省がつくったと言うのは、信じがたい話である。無責任を通り越し、まさに、ラリってしまったとしか思えない。いな、これをラリっていないと言えるであろうか。
そして、霞が関は、ラリっているだけでなく、はやってもいる。地方創生や国家強靭化や東京オリンピックや原発再稼働など、名を変えた公共投資が目白押しで、2014年度と同様に、2015年度の予算も補正予算を加えて結果100兆円を超えるのはほぼ確実なジャブジャブ予算の安倍内閣である。予算と権益の拡大という官僚機構のDNAに忠実な霞が関の面々にとっては、この機会を前にはやれないわけがない。官僚機構は自己増殖する(予算と権益の死守と拡大を志向し、そのために、より多くの規制と法律を作る。この規制が利権の温床になる)宿命であり、肥大化は止まらない。世間を騒がす深刻なバター不足であるが、表向きは国内の酪農家を守ると言ってはいるが、迅速な対応ができていない背景には、農林水産省の天下り団体「農畜産業振興機構」によるバター輸入業務の独占に問題があるのではないか。つまり、利権の死守である。また、省庁は、特別会計が欲しいので、文部科学省も他の省庁のように公営ギャンブル(宝くじは総務省、競馬は農林水産省、競艇は国土交通省、競輪・オートレースは経済産業省)が欲しいとねだって、スポーツ振興くじ(と言う名の奇妙なギャンブル)なる特別会計というお財布をもらったわけである。
そして、官僚機構は無謬であり、失敗という言葉は官僚の辞書にはないので、謝らない(遺憾とはいうが、よほどのことがないと謝罪はしない)。そして、失敗はないので反省をする必要はない。しかし、組織として教訓は学び、より賢くなる。これが官僚という存在の根源的な性質である。これは、日本に限ったことではないのだが、先進国の中で、もっとも官僚機構が実行支配力を持っているのが日本であるので、アメリカやイギリスに比べて、その負の部分が目立つと言うことである。
民主党内閣は官僚機構を意図的に蔑にして、結果自壊したわけだが、安倍内閣とて、表向きは政治主導を主張するが、内実は官邸主導と言う名のもとで内閣官房(http://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/sosiki/index.html)と内閣府(2001年の中央省庁再編で、旧総理府、旧経済企画庁、旧沖縄開発庁の3府庁を統合し、旧総務庁、旧科学技術庁、旧国土庁の一部業務も加えて発足した巨大官庁である。その任務は内閣府設置法で「重要政策に関する内閣の事務を助ける」「首相が管理することがふさわしい行政事務の円滑な遂行を図る」と定められており、複数の省庁にまたがる重要政策の企画・立案と総合調整を行うので、必然的に多くの課題を次々に抱え込み肥大化する。)という新たな官僚機構の肥大化を増長している。
安倍首相ご当人は、内閣官房と内閣府のスリム化をするといっているが、官邸主導強化なので、内閣官房と内閣府は肥大するのが道理である。事実、安倍首相は2014年9月の内閣改造で、複数の省庁にまたがる政策課題を、政府を挙げて取り組みやすくすることが狙いと称して、安全保障法制担当(防衛大臣が兼務)、地方創生担当、東京五輪・パラリンピック担当(文部大臣が兼務なので、文部科学省からの切り離しに成功したかは不明だが)という新設ポストを設けている。これでは、内閣官房と内閣府がスリム化するわけがない。
それでは、内閣官房と内閣府の肥大化に合わせて、既存の省庁が縮小したのかというと、その気配はまったくなく、むしろアベノミクスで拡大する方向にある。まさに、アベノミクスは、霞が関の省庁の肥大化の呼び水以外の何物でもない。霞が関は、水を得た魚といった状況ではなかろうか。
確かに、自民党も内閣官房と内閣府のスリム化を主張している。その理由は、まず官邸主導が強まると自民党の党としての影響力が弱まるので、官邸の手足であるこの二つを弱体化したい。そして、族議員として、内閣府と内閣官房にある利権(監督権限)を省庁に戻したいと言う背景があるのだろう。しかし、内閣府の業務を省庁に「移譲」することは、再び、省庁再編という一大事業を行うことになる可能性があり、簡単には進まないであろう。橋本政権の省庁再編では、省庁は、行政そっちのけで予算と権限を取り合う熾烈な「省益争い」を展開したわけであり、省庁再編に足を突っ込めば、数年間は行政が停滞するのではないか。つまり、省益争いは政権の体力を奪うのは確実であり、安倍首相の内閣官房と内閣府のスリム化は、お茶を濁す程度の話で、真剣に省庁の再編には向かわないであろう。財政健全化を真剣に考えない安倍政権で、消費刺激・経済活性という名のもとでの実質天井なしの予算のなかで、省庁は肥大化を続けるのではないだろうか。省庁の業務は、基本的に非効率であり、財政の厳しい中で、非効率な存在が拡大すると言うのは、大きな問題なのであるが、その危惧は霞が関の窺い知るところではないのである。次回は、現在の省庁の形は、戦後70年たった今、如何に歪んでいるかについて論じたい。