異端的論考14:GDP再考 ~1人当たり実質・購買力平価GDPを重視せよ~

GDP至上主義の前提の「無駄が重要で、それが矛盾を生み、結果、活性化する」というこれまでの方程式は機能しなくなるのである。

管子の言に、「一年之計莫如樹穀(一年の計は穀をうえるにおよぶものはなく)、十年之計莫如樹木(十年の計は木をうえるにおよぶものはなく)、終身之計莫如樹人(終身の計は人をうえるにおよぶものはない)、一樹一穫者穀也(一樹一獲なるものは穀であり)、一樹十穀者木也(一樹十穫なるものは木であり)、一樹百穫者人也(一樹百穫なるものは人である)」がある。お馴染の国家百年の大計のもとになったものである。

現在の安倍政権は、「一年之計莫如樹穀」として、日銀と結託して、事実上の財政ファイナンスである出口の見えないQQE(量的・質的緩和)等による2%インフレと給与引き上げを至上命令として、民間事業への干渉なども憚ることなく、なりふり構わない状況である。まあ、ここまでやってしまっては引き返すこともできないであろうが、この是非については別途に論じたい。

「終身之計莫如樹人(百年の計)」については、今となっては、戦後教育の主犯としての反省のない文部科学省主導では、どのような大学改革をしようが「一樹百穫者人也」という結果はでないであろう。まず、すべきは文部科学省自身の大改革であろう。いずれにしても、今の日本に百年後を語る余裕はあるまい。

余談だが、国家百年の大計といえば、岸田國士が1941年の元旦に大陸新聞に寄稿した『文化政策展開の方向』の中での「この国家百年の計を樹てることもとより重要な事業であるが、当面わが日本国家が直面してゐるこの非常時局を一億の国民が乗り切り、この難局をわが民族的飛躍の輝かしい契機とするためには、何を措いても先づ現行政治機構を速かに高度国防国家体制に推移せしめねばならぬ。それとともに、国民生活の文化的側面をもこの高度国防国家体制に即応させることが必要である。」という一文は、憲法解釈を捻じ曲げて集団的自衛権容認を強行し、一億総活躍を首唱する安倍首相のネタ本であろうか。安倍首相のマインドがよくわかるのではないか。

「十年之計莫如樹木」に関しては、GDP(国内総生産)の600兆円達成であろうか。2015年11月の首相講演で「ここから毎年名目3%以上成長が実現すれば、2020年ごろにはGDP 600兆円は十分達成することができます」と言っている。

ちなみに、名目GDP の成長率は、アベノミクス開始の2013年~2015年の年平均(CAGR)で、あの留まることを知らない異次元緩和を強行して2%である。今後2020年までの間に、この数値が年率3%を平均して超えることを現実的というか非現実的というかは読者次第である。

GDPの計算と言えば、2016年から、日本も国際連合が定める国民経済計算(SNA)を採用し、GDP計算の新しい基準とする。国際比較の基準となるので、導入それ自体は良いことである。しかし、それを政治的に利用しなければという前提つきである。

実は、この新基準の導入によって、民間企業の研究開発費などが加算されるので、GDPは最大3%以上多くなるとされている。「ここから毎年名目3%以上成長が実現すれば」という安倍首相の発言を聞くに、新基準による3%の拡大が、安倍首相の言う3%成長と同じであるだけに、そのタイミングと言い、その数値と言い、素直に計算基準の変更としてではなく、新基準採用織り込み済みで、あたかも「アベノミクスの成果で2016年のGDP の成長率は3%である」と高らかに宣言する安倍首相の姿を想像することを筆者は捨てきれない。

新基準の国民経済計算(SNA)でもだめであれば、おそらく日本企業の海外活動を含め、GNI(国民総所得、昔のGNP=国民総生産)として国民経済の計算上の総量拡大の嵩上げに固執するのであろう。

とはいえ、「十年之計莫如樹木」にGDPを据えること自体は、悪い考えではなかろう。しかし、GDPという指標を考慮するにあたって、安倍首相の責任ではない(筆者としては、珍しく安倍首相に同情する)が、長きに渡って無為無策であった政治屋と官僚君のつけとしての避けられない急激な少子超々高齢化という現実を冷徹に見据えて、国民は当事者として、根拠のない楽観ではない、国家の現実的な展望を描かなければいけない。

もはや、高齢者の多数の反対によって夫婦別姓程度を認められないような伝統主義の強い、変化を拒む国で、少子化を短期間に改善すると言ってのけることは、妄言に近いと言えよう。

つまり、絶対人口の減少と生産年齢人口(15歳から64歳)の減少が避けられない現実をみれば、いくら退職年齢を引き上げても長期的にはGDPの規模は縮小に転じるはずである。2050年までには、総人口は、おおよそ3000万人減り、逆に75歳以上は1000万人増えて、2500万人になる。4人に1人が75歳以上の後期高齢者である。

これが、何が起こるか分からない将来で、可能性の極めて高い将来像である。インフレを考慮せずに単純に計算すると、2050年までにGDPは約4割縮小する。総人口と生産年齢人口の減少により、毎年1.4%のGDPの減少圧力が2050年までかかる計算である。これを毎年の生産性向上で相殺して現在のGDPを維持することは、労働集約的であることに価値を置く「おもてなし」を国是と自負しているサービス業に移行せざるを得ない日本社会において、奇跡が起こらない限り難しいと言えよう。

よしんば、現在の神風である、爆買いの中国人を筆頭とするアジア圏の訪日客に期待するとしよう。その経済効果は、平成27(2015)年度版観光白書によると、2014年で2兆278億円(日本滞在中に使った旅行消費額)である。この金額の名目GDPに対する貢献度は0.4%程度である。日本の関連産業への波及効果を加味したとしても、3兆円程度であり、0.5%程度の貢献である。

毎年1.4%のGDP減少への0.5%の歯止めになる為には、単純に計算して、前年の2兆円は織り込み済みであるので、この外国人観光客の旅行消費額である2兆円が毎年増えていかなければならない。

ちなみに、もし、外国人観光客の旅行消費額で、現在のGDP(インフレなしとして)から下方圧力のマイナス1.4%を0.5%押し戻すことを維持しようとする、つまり、下方圧力を約1%にしようとすると2050年で約60兆円となり、その時点のGDPの16%を占める計算になる。

そうであるとすると、外国人の旅行者数は、日本の総人口をあっと言う間に追い越すことになる。観光客ひとりあたりの日本国内消費額が激増するとは期待できないので、2050年で2015年の約2000万人の30倍の人数となるので6億人となる。それは現実的であろうか。この額と人数を現実的と捉えるかどうかは読者の判断ではあるが、筆者には現実的に思えない。

余談であるが、観光立国を真剣に考えるのであれば、パリを抱えるフランスが考案したように、長期的に縮小する国家財政の観点から、消費税は大幅に引き上げるべきであろう。

急速な超高齢化による富の切り崩しに向かう日本において、国内資本に期待することは難しい。海外からの対日直接投資に関しては、安倍首相が、昨年の7月の英誌エコノミスト主催の「ジャパンサミット2015」や9月の対日投資セミナーで「私が政権に就いた翌年、外国企業の日本への投資は、10倍に増えました」と盛んにアピールしている。恐らく、これは、2015年3月の内閣府の資料である「対日直接投資の現状について」を根拠とし、その中の対日直接投資額のフローを指しているようである。

そこでは、対日直接投資額のフローは、2012年がほとんど1千億円に満たない額であり、2013年であると5倍程度であるが、2014年では1兆200億円であるので、「政権に就いた翌年」とは整合性がない(政権に就いたのが2012年12月26日なので翌年とは2013年を意味しているはず)のだが10倍という表現は嘘ではない。2013年では3600億円なので、2014年との比較では3倍程度なのでやはり基準年は2012年であろう。

そうであるとすると、そもそも、東日本大震災と福島での原発事故の衝撃の冷めやらぬ翌年2012年を比較の基準に据えるのはフェアな議論とは言えまい。政治家の言にフェアなどないと言えばその通りなのだが。

そこで、元データであろう財務省の資料である2015年対外・対内直接投資の推移(国際収支マニュアル第6版準拠)で見てみると、なぜか、先の内閣府の資料と違い、対日直接投資のフロー額は、2012年は407億円、2013年は7266億円、2014年は9548億円で、2012年を基準とするとどちらの年も20倍前後になっている。東日本大震災の2011年は-693億円である。

この違いは、統計数値の速報値と暫定値と確定値の違いで、安倍首相は速報値を使って10倍と言い、その後、暫定値が出たときに発言の修正をしていないだけである。「実は20倍でした」と言えばよいのにと思うのだが。

しかし、この数値は高い数値では到底ない。2007年の額は2兆5947億円、2008年は2兆5303億円、2009年は1兆1478億円、2010年は6636億円である。決して、胸を張れる数字ではなかろう。

加えて、10倍と豪語した翌年の2015年の9月までの第三四半期までの対日直接投資額は、4131億円のマイナスという、2014年のプラスを相殺するかのような大幅なマイナスである。対外直接投資に比して額がたいして大きくない対日直接投資では、フローは大きな案件の有無次第で毎年大きく振れるのは常であるので、安倍首相の自分の成果のような言いようは感心しない。

よしんばそれを認めるにしても、2015年はおそらくマイナス(寡聞にして聞いていないが、第四四半期で神風が吹いたかもしれないが)という可能性は、2011年の東日本大震災と原発事故という異常事態以来であるので、異常事態がない2015年でマイナスと言うことは、それ自体が異常事態ではないであろうか。そのことも、10倍と言った首相として公表すべきであろう。

一国の首相たる者の立場をおもんぱかれば、国家(実際は自分)にとって都合の良いことだけを言うのが「国民のあらぬ不安を煽らない」という政治家の国民への思いやりなのであろうか。

いずれにしても、政府が企業に、内部留保金の多さを指摘し、賃金引き上げや国内投資を公然と指図し、国務大臣がその必要性を認める国家に、外資にとって国家が保証する美味しい薬品・医療市場があるとは言え、海外の民間企業が投資をし続けると安倍首相のようにばら色に考えるのは難しかろう。

実際、現在ですら、GDPの成長に貢献する基幹である生産年齢人口(15歳から64歳)は、2014年10月1日時点で、前年から116万人減少している。21.5万人の総人口の減少数に比べるとかなり大きいと言える。その前年も生産年齢人口は、100万人以上の減少である。

この数を見れば、有効求人倍率が高いのはアベノミクスとは何の関係もない構造的な需給バランスの結果であるのは明白である。そもそも安倍首相が強調する正社員は増えていない。節操と謙虚のない政治屋と辞書に責任という言葉のない官僚君とは言え、「なんでもアベノミクスの成果」という厚顔には頭が下がる思いである。

今後をみると、人口中位推計では、生産年齢人口(15歳から64歳)の減少数は、この2014年をピークに2015年から2025年に向かい減少し、50万人に程度になるが、その後再び増加に転じて2035年には、その減少数は100万人の大台に乗る。この2014年の116万人の生産年齢人口の減少の裏で、65歳以上人口は110万人増加している。65歳以上の人口は、今後徐々に増加数は減少に転じるが、2040年代前半までは、その増加は続くと予想されている。

日本の高齢化の構造的な特徴をみると、前期高齢者(65歳から74歳)人口の変化はあまりないのだが、前述したように後期高齢者(75歳以上)人口が粛々と増加すると言う、かなりいびつな超々高齢化である。一方総人口は、2040年初頭の100万人に至るまで、毎年減少傾向が強まっていく。

この人口の減少と構成の変化と言う現実を国民は直視しなければならない。そうであれば、「十年之計莫如樹木」に総額であるGDPを据えることは、ドンキホーテに近い愚挙であることが分かるのではないか。

少子超々高齢社会に突き進み、GDPの縮小局面を避けられる可能性が極めて低い日本社会で着目すべきは、同じGDPであっても、GDPの規模ではなく、1人当たりのGDPである。国民経済の縮小局面で、国民の生活感を現すのには、1人当たりGDPが適していると言える。「国家は大きいことが良いことだ」の安倍首相の高度成長マインドは脇に置くとして、国民が気にすべきは、GDP総額ではなく、1人当たりGDPなのである。

実際、実現可能性を見ても、前述したようにGDP総額でみると、2050年まで毎年1.4%のGDPの減少圧力がかかる計算であるが、1人当たりGDPでは2割の減少であり、毎年の減少圧力は、半分の0.7%である。合理的に考えて、1人当たりGDPの維持の方が、GDP総額の維持よりも現実的であろう。

現実的であるかという観点に加えて、個人の豊かさ(≒既存指標での経済的幸せ)からみると、そもそも総額GDPに意味はなく、一人当たりGDPでみる方が妥当であろう。もちろんGDPの規模を重要視する理由は、「国力=現行の社会保障の体力」と国民の大国意識の発揚ということとは思うが、別途論じるが、これは後の世代に対する国家的詐欺と時代錯誤と言えよう。

政治屋は知らないが、官僚君は、頭は良いので、このくらいのことは理解しているはずである。それにも関わらず、官僚君はなぜ、政治屋を焚きつけて、これほどまでにGDPの総額拡大に固執するのであろうか。なぜ、1人当たりGDPではなく、名目GDPに拘るかには実は訳がある。

現在の公的年金制度維持の前提である。公的年金制度の健全性を確認する5年に一度の財政検証を行う上での前提条件は、

  • 将来推計人口(少子高齢化の状況)の前提
  • 労働力率の前提
  • 経済の前提
  • その他の前提(国庫負担ほか)

の4項目であり、経済以外の3項目は、予測という名のもとに恣意的に前提を置くことが難しい。比べると「経済の前提」をどうするかの自由度は高い。経済の前提とは、具体的には、物価上昇率、賃金上昇率、運用利回りの3項目である。

これをみると、なぜ、安倍政権が、財政ファイナンスのリスクを冒してまで、頑なに、2%インフレに固執し、賃金を上げさせるために民間企業の問題に強硬に介入し、年金を運用するGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)に、年金運用としては異例の民間株投資でのハイリスク・ハイリターンを強要するのか、賢明な読者諸兄にはご理解いただけると思う。

要は、このような数値を経済の前提に置かないと公的年金制度の健全性、つまり、制度の健全的維持を示せないと言うことである。この3つの前提維持の為に必要な名目GDPの持続的成長を否定することは、経済の持続的成長が現実的であるかどうかとは関係なく、単に立場上できないのである。

国民としては、政治屋と官僚君の面子の為に、現実から目を背けさせられ、結果、その悲惨な結果のツケを負わされるわけである。有権者の半数近くが、安倍政権に棄権という白紙委任状を与えた結果ではあるが、国民にとっては、かなり、割りの悪いディールと言えよう。

それでは、以下で1人当たりのGDPという観点で分析を行っていきたい。昨年の暮れに内閣府が、2014年の国民経済計算確報を発表し、「ドルベースでの日本の1人当たり名目GDPは、2年連続で減少し、3万6230ドルとなり、その結果、イスラエルにも抜かれ、OECD加盟国34カ国中の20位となり、G7(主要7カ国)でみてもイタリアをわずかに上回る6位となり、OECDに加盟していないシンガポールは当然として、香港にも抜かれた」と大きく報道された。

余談だが、1位のルクセンブルグの11万9千ドル、2位のノルウェーの9万7千ドルに比べると、日本の3万6千ドルはだいぶ見劣りする。人口60万人と500万人の国家であるので、1億人を超える日本と比較するのはフェアではないでもない。

しかし、もし、東京都を一つの国とすると、入手可能な直近の2012年の数値で計算すると、人口は1323万人なので、1人当たり名目GDP(県内総生産)は、695万円、ドルに換算(当時は1ドル≒80円)すると8.7万ドルとなるので、堂々の数値である。現在は、円安でドルベースでは下がってはいるが、首都圏に暮らす人々が、1人当たり名目GDPのランキングとその下落に、もしピンとこないとするならば、その理由は、ここにあるのではあるまいか。

これを、より適正であると思われる首都圏(東京・神奈川・千葉・埼玉)で計算すると453万円で5.7万ドルとなる。これが、首都圏の実力である。

確かに、2009年に中国に抜かれるまで長らくドルベースでの名目GDP世界2位の座を維持してきた日本であるが、その後も3位を維持している。円ベースで見ると、1997年に523兆円に達したGDPは、2009年のリーマンショック後に400兆円台に低下し、その後480兆円台前後を低迷し、2015年で499兆円(IMFの推計値)と500兆円台に再び達する状況であるが、1990年のバブル崩壊後ほとんど成長していない。要は、GDP3位を脅かす人口大国がなかっただけである。

一方、ドルベースの1人当たりのGDPを見てみると様相はだいぶ異なる。1993年から1996年までの3位を頂点として、総額GDPの順位とかい離を始める。2003年には二桁の12位となり、2005年には20位、2008年には25位まで下がる。その後、2012年は17位に回復するが、2013年は25位となり、最新のデータである2014年は27位と順位を下げている。つまり、ここ10年のドルベースの1人当たりGDPの実力は、20位前後と言うことである。

国民は、この事実を強く認識する必要があろう。ここ2年の順位低下は、安倍政権の異次元金融緩和政策による急激な円安を考えれば、ドルベースでの付加価値を生む力が減衰するので仕方のないことであろう。問題の本質は、ここからさらにドルベースの1人当たり名目GDPの順位の低下傾向が進むかではなく、国民生活の視点で1人当たりのGDPがどのように推移してきたかである。

まずは、円ベースの1人当たり名目GDPの推移をみてみよう。実は、384万円であったバブル崩壊後の1990年以降、1997年の415万円を上限、2009年のリーマンショックの368万円を下限としてほとんど大きな変化はしていない。東日本大震災後の2012年の372万円から2015年の394万円と、年率(CAGR)1.9%で毎年その額は伸びている。

これは、人口減少の当面の恩恵とも言えるのだが、伸びていることは事実である。ここ数年は、少なくとも減少はしていないので、1人当たりGDPという観点で問題はなかろう。しかし、1991年の384万円から2015年の394万円までの24年間の年率(CAGR)成長は、0.1%であり、ほとんど増加していない。これは、すでに1人当たり名目GDPは維持が精いっぱいと考えることができる。

次に、インフレを差し引いたお金の価値の実感に近い、つまり、実体のある金額の増加である円ベースの1人当たり実質GDPの推移をみてみよう。2006年の401万円で400万円台に達し、400万円前後を維持し、2012年の407万円から2015年の418万円まで、年率(CAGR)0.9%で毎年その額は伸びている。実質ベースの金額が名目ベースよりも高いのはデフレの影響によって、名目GDPと実質GDPが2005年以降逆転していることによる。

1991年の354万円から2015年の418万円までの24年間の年率(CAGR)成長は、0.7%であり、緩やかではあるが継続的に増加をしている。生活する国民としては、ほとんど成長をしていない名目GDPよりは明るい結果である。デフレの恩恵とも言えようが、国民にとっては悪いことではない。

最後に、国際比較と言う点で、購買力平価(purchasing power parity:各国の換算物価が互いに等しくなるような為替レート)GDPを見てみよう。購買力平価(ドルベース)で捉えると、「お金の使いで」をみることができる。国際比較では、総額では、インドが第3位になり、日本は4位になる。1人当たりでは、29位となり、名目GDPのランキングと概ね同じである。

実は、1人当たり購買力平価GDPは、名目や実質GDPと比較すると順調に伸びている。2009年のリーマンショックで多少減少するが、1991年の2万ドルから2015年の3.8万ドルまでの24年間の年率(CAGR)成長は2.7%であり、1人当たり名目や実質GDPよりはるかに高い率で継続的に増加している。

つまり、国際比較的には、日本人の「お金の使いで」は良くなっているわけである。2012年の3.5万ドルから2015年の3.8万ドルまで、年率(CAGR)2.4%で毎年その額は伸びている。名目GDPと実質GDPの数値と比べるとかなり良い数値である。これは、日本国民にとっては良い知らせであろう。

このように1人当たり実質GDPと購買力平価GDPの推移をみる限りでは、「1人当たり名目GDPのランキングが大きく落ちた」など、マスコミは国力の低下と騒ぐが、一億人を超える人口を擁し、産業も成熟し、少子超々高齢化を迎えている国家としては、それなりの成果を出しているといえよう。

しかし、最近の1人当たりGDPの増加は、人口減少のボーナスであり、しばらくは、1人当たりGDPは、アベノミクスとは無関係に高まることを自覚しないといけない。

東京オリンピックと言う税金の無駄遣いの宴のあとに、経済規模の縮小局面を迎えることが明確になるであろう。それを迎える前に、国民は、個人の豊かさの指標をGDP総額の拡大に置くことをやめ、1人当たりGDPの維持と増加、それも、名目GDPではなく、実質GDPと購買力平価GDPの維持と増加に転換する必要性を強く意識する必要がある。

政策や施策も総額名目GDPの増加を目指す安直なバラマキ的なものではなく、どのようにしたら、1人当たり実質GDPと購買力平価GDPの増加をもたらすことができるのかを検討したものへと転換すべきであろう。

最後になるが、なぜ、GDPについて「十年之計莫如樹木」という10年の期限付きとしたかについて述べてみたい。

現在、加速的な技術革新によって、経済原理が急速に変わりつつある。デジタル化する経済では、限界コストはゼロに近くなる。シェアエコノミーは、無駄をなくすマッチングである。クラウド・コンピューティングもサーバの無駄を省く資源共有である。組織間や組織と個人の境をなくすオープン・サービス・イノベーションは、やはり、社会的コストを軽減する。

つまり、GDP至上主義の前提の「無駄が重要で、それが矛盾を生み、結果、活性化する」というこれまでの方程式は機能しなくなるのである。最近のテレビ、新聞、雑誌をみても、枠があるからという雪かき的な仕方がない無駄な番組や記事で放送時間や紙面を埋めるのが前提であることは明白であろう。

つまり、新しい経済原則では、GDPは押し上げることを暗黙裡に期待できないのである。しかし、この不断の技術革新で個人の生活は豊かになるのである。余談だが、日本は特に急速な超々高齢化に直面するので、活動低下と老後不安で消費は減退するので、この意味でもGDPは伸びない。

加えて、不断の技術革新がもたらす影響は、平均値と中央値が一致する正規分布から、平均は上がるが中央値は下がるべき乗分布への変化であり、より豊かさを求めるのではなく、現状を前提に、よりコストパフォーマンス良く暮らすことに考えを転換する必要がある。

つまり、GDPという指標では測れない時代に突入するのである。故に、今後10年のどこかで、GDPではない指標で国家の力(将来もこのような比較が必要であるとすれば、であるが)を計る物差しを定義する必要があろう。1人当たり実質・購買力平価GDPはそれまでの過渡的な指標である。「改まるに憚ることなかれ」である。

しかし、実はこれが難しい。特に、変化に保守的な高齢者が多数を占め、それが加速する日本のような「積極的惰性」の強い社会では、特に難しいことを強く認識する必要がある。

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