科学者、研究者が学術論文を書くときは、「正しいコピペ」(別の言葉でいうと「引用」。以下「コピペ」)をしまくります(注)。その論文が、独創的であり、オリジナリティーが高くなればなるほど「コピペ」の頻度は高くなり、論文の半分以上は「コピペ」で埋まることさえあります。
なぜなら、独創的であることを裏づけるためには、既に行われた研究(先行研究)を提示し、「ほら、まだだれもやってないでしょ」と論証する必要があるからです。
過去の研究論文結果を集約する、単純な分量的にはかなりの部分が「コピペ」で構成されるメタアナリシス(meta-analysis)という研究手法の論文があります。膨大な量の過去の研究結果を紹介し、まとめ上げ、時には統計手法でデータを集約し新しい結論、知見を導き出す集大成的な研究手法です。自分で実験や調査はしません。つまり、「コピペ」と分析解釈だけです。
よくできたメタアナリシスは画期的な発見、素晴らしい学術理論を導き出したりもします。文字数的には論文の9割は「コピペ」でも、学術分野の金字塔的な論文さえあります。
メタアナリシスでなくても、特に科学的に仮説を検証する研究論文は、「コピペ」が非常に重要になります。なぜなら、その仮説が導き出されるまでに至る関連研究の原初まで振り返り、これまでどのような研究がされてきて何がわかっていないか、過去の研究例を包括的に紹介しながら論理的な仮説を導き出すのが科学的な仮説検証論文だからです。
また、これまでわかっていないことを実証する論文では、分かっていないことをまず証明する必要があるのですから、過去の研究論文から要旨や結果を可能な限り「コピペ」する必要があります。
つまり、「コピペ」が多ければ多いほど、特に仮説検証をする学術論文の信頼性は高くなる傾向はあります。さらに、仮説を論理的に支える文献を適切かつ論理的に明示することで、「ほら、こんなこと考えているのは、自分だけじゃないのですよ」、つまり「独善的ではない」こともアピールできます。
逆に言うと、「コピペ」をあまりしていない学術論文というのは、ちゃんと予習(文献調査)をしていない、独善的な論文であると判断されうるわけです。
ただし、「コピペ」は、科学論文では当然のことですが、絶対に出典を明示しなければなりません。絶対です。
モラルなんてものではありません。科学者による学術論文の最低限かつ絶対的な決まり、戒律です。明示しなければ、一転して剽窃です。剽窃したら、科学者生命は(ほぼ)終わりでしょう。
著作権上は問題ないのでしょうが、自分の過去の論文の内容(文、画像、写真、グラフも含めて)を別の自分の論文で使う時も、学術論文では基本的には出典を明示する必要があります。自分の論文でさえ、知らん顔して「使いまわし」はよくないです。
論文の参考文献を別の論文から「コピペ」に至っては、理解できません。参考文献(reference)というのは、論文の中で引用した文献のリストですから、正しいコピペでさえありえません。なぜなら、論文中に出てこない文献が参考文献欄にランダムに並んでいることになるからです。
それが、文献目録(bibliography)でしたら、論文中で使っていようがいまいがテーマに関連する文献の目録ですから、出典を明示すれば(正しいコピペなら)許されるかなと。しかし、それが参考文献であれば、もう科学論文でも学術論文でもありません。
私は社会科学者です。科学には自然科学(再現性は絶対)と社会科学(あまりにも多くの社会的要因があるので再現性は必ずしも達成できない)の違いはあります。しかし、研究に向き合う時の科学的な厳格さと剽窃に対する厳格な態度では、科学者に違いはありません。
(注)いわゆるコピペ(そっくりそのままの文章を使う)することは、直接引用といって「 」(括弧。英文の場合は引用符)で囲むか、5行程度以上の長い場合は独立した一つの段落を使い「一言一句違わぬようコピペ」しなければなりません。出典元のページ数まではっきり明示することが条件です。こうすれば、いわゆるコピペでも「正しいコピペ」になります。一方、ある論文の情報、意見、考えを(括弧で囲まずに)使う場合を関節引用といいます。この場合は「そっくりそのままのコピペ」ではだめで、換言、つまり内容を忠実に残しつつ表現を変え自分の言葉にして、出典を明示して「正しいコピペ」として使わなければなりません。関節引用の場合、ページ数を明示するかどうかについては学術分野や学会によって異なります。ただ、理論や関連する概念については言い換えようがなく、固有名詞やデータについては言い換えてはいけないので、どこまで表現や言葉を換えればいいかは、時に「微妙」な判断になります。(この「注」は2014年3月17日に追加しました)
追記 今回のSTAP騒動ですが、厳格な実験を改めて行い、再現性が確認すればいいと思います。人類にとっての利益になることが証明されれば、再チャレンジの機会があってしかるべきです。