多民族国家のシンガポール。その住環境の賃貸契約について民族差別とする指摘が、BBC(英国放送協会)と産経ニュースから出てきています。もともとは、BBCの記事だったのですが、それを産経ニュースが翻訳を元に独自記事にしています。
- 岡田敏一 (2014/05/10) 「シンガポールで横行「インド人と中国人は入居お断り」...家主の多くは中華系という"残酷な現実"」 http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/140511/waf14051112000001-n1.htm (参照2014/05/13)
- Helier Cheung (2014/05/01) 「'No Indians No PRCs': Singapore's rental discrimination problem 」, http://www.bbc.com/news/world-asia-26832115 (参照2014/05/14)
BBC記事「インド人と中国人お断り。シンガポール賃貸の差別問題」
BBC記事の要約です。
- インド系と類似の名前を持つスリランカ人が、インド人と同一視され、シンガポールで賃貸契約で家主に拒否された例
- インド人や中国人が賃貸契約拒否される理由は、香辛料や油などの料理の匂いや、部屋を清潔に使わないことで、部屋にダメージを与える可能性があるため
- シンガポールは職場など公共では差別は少ないが、プライベートでは異なる。賃貸はプライベートとみなされている
- 法律のすき間: シンガポールで外国人が対象となる特定の反差別法はない
シンガポールの住環境
特に産経記事を読んで疑問がでてきました。
新たな人種差別問題が物議を醸しています (産経)
とのことですが、これは以前から見られる現象です。『この傾向はここ数年のことではなく私が来た20年前からあった話』とコメントする人もいます。BBCは『新たな』という、これまでになかった傾向を意味する表現は使っていません。
BBC記事にあるように、国民の9割は持ち家です。国が持ち家政策を推進していることもあり、国民の8割強がHDBという公団に住み、その内で持ち家率は95%です。
シンガポールでは社会人になっても子供は親と同居する文化です。東京より高い不動産が、その文化を後押しします。結婚と前後してHDBの購入を申し込みますが、新婚であっても親と同居し、賃貸はしないのが一般的な風習です。HDBが完成して引っ越しで初めて、親元から離れて暮らします。
そのため、賃貸物件を借りるシンガポール人は、あえて親との同居を選ばなかった人や、経済的事情でHDBを手放した人などの、限られた層のみです。
その結果、シンガポールで賃貸物件を借りるのは、大半が外国人なのです。日本にある借地借家法のような賃貸関連の法律は整備されておらず、契約書の記載事項が全てです。環境整備されていないため、日本と比べると、賃貸契約でもめやすいのが現状です。
なぜ民族制限をするのか?
私がシンガポールに来て賃貸物件を借りようとして、BBC記者同様に驚いたのは、民族指定がされている物件があることでした。
- 中国人とインド人お断り
という記事と同様の文言も見かけましたが、
- 女性のみ
- X国籍のみ
という記述もあります。これはシンガポール特有の賃貸事情から来ています。
シンガポールでの賃貸3形態
- ユニット単位での貸し出し (日本での一般的な賃貸と同様)
- 部屋単位での貸し出し (フラットシェア)
- 一部屋を複数人で利用する貸し出し (ルームシェア)
ユニット(戸)全体でなく、部屋単位での貸し出しも一般的なためで、フラットシェアと呼ばれます。一部屋に複数人が住むルームシェアもあります。シンガポールでは日本のワンルーム賃貸のような小さな物件は、政府規制もあり、あっても数が少なく高価です。Studioと呼ばれるワンルーム物件も、一般的に月額$3000 (24万円) からです。そのため、勤務先が住居を負担する駐在員はユニットで借りますが、多くの現地採用日本人は独身者が多いこともありフラットシェアを選びます。
フラットシェアやルームシェアで、家主でなく既存の借り手が他の借り手を募集することがあります。これは自分が代表した借り手になって空き部屋を又貸ししたいケースや、自分と相性が合う相手を選んで住みたいということです。こういう際に、既存の借り手の女性が
- 女性のみ
という指定で他の借り手を募集することは差別でしょうか?フラットシェアだと男女混合はありますが、ルームシェアではさすがに男女混合は一般的ではありません。フラットシェアでも女性同士でのみ住みたい、という希望は珍しくないです。それでは、既存の借り手の日本人女性が
- 日本人女性のみ
という指定で他の借り手を募集することは差別でしょうか?性別は安全の問題のため指定ができるとして、国籍を指定することは差別でしょうか?BBCが記事にとりあげたスリランカ人のケースは、産経は明記していませんが、このフラットシェアでした。
また、金銭的条件があえば、言葉が通じない他国の人とでもシェアをしないと、差別でしょうか?英語が不自由な相手と英語で契約を交わして大丈夫なのでしょうか?そうなると、性別・言語を指定する妥当性はありそうです。
民族排除は差別感情か?物件価値を保護する経済事情か?
民族排除がされる理由として、BBCでは、清潔な使用や匂いの強い調理といった物件価値への経済事情を書くとともに、民族のステレオタイプへの差別感情を指摘しています。両論併記に近い印象があります。
産経では『「週1回も掃除せぬ。塵と料理油で...」だが、拒否された真の理由は』と書いているように、経済事情は建前で、差別感情が真の理由であることを暗に漂わせています。産経がそう判断している根拠は提示されていません。
シンガポール居住者としての私の印象では、個々の家主によってばらつきはありますが、全般的には物件価値の保護という経済事情が第一に見えます。経済事情が一番の理由であるため、民族排除が差別であるとの意識をもっていない家主もいます。つまり、インド人や中国人は物件に損害を与えかねないリスク顧客とみなしており、その対策をとっているだけ、というのが家主の考え方です。記事での清潔さや匂いや家主の許可を得ない又貸しの他に、インド人や中国人はシンガポール風習になれていないため予期せぬトラブルが発生する可能性があります。私の知っている範囲でも、防水でないバスタブの外でシャワーを使い続けたため床を損壊したケースなどを聞きます。
好ましい民族を指定するのではなく、記事に取り上げられたケースのように、民族を排除するのは妥当でしょうか?
- 中国人とインド人お断り
これは差別と判断されるでしょう。インド人や中国人が物件に損害を与える、というのは家主が持っているステレオタイプな民族への傾向であり、「(自分はインド人や中国人ではあるが)私は違う」に反論できる因果関係が民族だけでは希薄で、現代では正当とみなされていません。
解決策
経済事情が第一であれば、わざわざ間接的な民族で排除するのではなく、本来の経済的理由で記述できるはずです。
- 香辛料を大量に使うなど匂いの強い調理や、痕になる油を大量/頻繁に使う調理は避けること
- 定期的に清掃をすること
- 上記に反した際には、退去を命じることがあり、現状復帰義務を借家人は負う
これが賃貸契約に盛り込まれるのは、民族のステレオタイプを介さずに、経済事情にフォーカスしており妥当に見えます。
何が差別かの共通認識は、時代によって変わります。シンガポールでも雇用広告に際して「X人歓迎」と国籍指定をできていたのが、政府規制でできなくなりました。賃貸広告でもそのような方向に長期的には進んでいくのだと思われます。
しかし主題の経済事情が解決できなければ、実態は地下に潜るだけです。広告では差別内容の記載なくても、断られるケースが増えるでしょう。家主も、退出時に現状復帰のためデポジット(敷金)を多く差し引いて借り主ともめることや、デポジット額で収まらない事態は避けたいでしょうから。
歓迎される日本人
その一方、日本人は賃貸借り手に歓迎されます。英語が不得意なためコミュニケーションを取りにくいというネガティブな"ステレオタイプ"も広まっていますが、部屋を綺麗に使ってくれる、パーティで騒がず近隣ともめない、というポジティブな印象も強いです。民族・国籍が理由で、日本人が賃貸契約を断られることはシンガポールでは滅多にない恵まれた環境にあります。この評判を作ってきた、先人たちに感謝です。
注釈
国益を損なう産経の批難
右も左も分からない同胞に手を差し伸べるどころか、「われわれとは格下」と平気で差別し、難癖つけて自分の不動産物件への入居を拒否するというシンガポールの中国人には、恐怖を感じます。
それにしても、右も左も分からない同胞に手を差し伸べるどころか、「われわれとは格下」と平気で差別し、難癖つけて自分の不動産物件への入居を拒否するというシンガポールの中国人には、恐怖を感じます。 (産経)
難しいのですが『法治ならぬ「人治」の中国人的思考の恐怖』の解読を試みます。
『中国人』とは中華系シンガポール人のことでしょう。
『法治』『人治』というのは、シンガポールで反民族差別の権利が外国人に適応されていないことを、『法治』の逆の『人治』として批難していると読めます。「人治」というのは中国への形容詞でよく使われれ、この記者は中国とシンガポールを混同する傾向にあると推測されます。
『恐怖』というのは、BBC記事にある賃貸での民族差別への評価と思われます。
この産経記事のアプローチでは、日本の"国益"を損なっています。シンガポールはアジアの中で相当な親日国です。日本を大好き/好きと答えたシンガポール人は90%、日本を大好き/好きと答えた中国人は55%です。日本に好印象を持ち、共感してくれるチャンスが大きいのがシンガポール人です。にもかかわらず、中華系だからといってシンガポール人と中国人を同一視して、日本人が当事者として不利益を受けていない現象を非難することで、不要な喧嘩を日本人が売る必要はありません。指摘内容が普遍的な正義と信じるのであれば、建設的に解決方法を示唆すれば良いのです。礼節を持った態度で、アジアの隣人に臨んで頂きたいです。
シンガポールの中国人?
産経記事に『シンガポールの家主の多くは中華系、つまりシンガポールで生まれ育った中国人なのです』『シンガポールの中国人』という表現をしています。関連用語を整理します。
つまり、『シンガポールの中国人』とは、「シンガポール在住の中国籍者」を一般的に意味します。ですが産経記事では、「中華系シンガポール国籍者」の意味で使っています。あるいは、『中華系、つまり中国人』と書いているように、この二つ言葉の区別をせずに、記者が言葉を混同している可能性もあります。
シンガポールは移民国家で、3/4が中華系から構成されます。現役世代のシンガポール人の多くは、移民後三世以降に入っており、先祖の出身地である中国を母国とも思っていませんし、経済的にも時代を経たことでも中国人とは異なる文化感覚を持っています。つまり氏より育ちです。
ですので、中華系シンガポール人は中国人とみられるのを嫌がります。「あなたはチャイニーズですか?」と聞くと「いや、シンガポーリアンチャイニーズだ」と訂正されます。今でも中国に付き合いのある親族がいる家庭もありますが、そういう限られた相手を除くと、地縁も血縁も無い他人なので中国人に情をかけることはありません。あるとすればそれは民族・国籍によらず、その人が単に「いいひと」だからです。(日本人の場合でも、海外で助け合う日本人もいる一方で、日本人をカモにするのに日本人なことが多いのは、海外在住者の注意事項の一つです)
これは香港人と中国人との関係に近いです。日本人が中国人を良く思っていないことにも通じます。声が大きい、列に並ばない、公共スペースを汚すという"ステレオタイプ"があるためです。詳細は下記リンクを参照下さい。