連載「日本人元職員が語る国連の舞台裏」 ~日本の国連加盟60周年 特別企画~(2)

国連本部からフィールドまで数多の経験を持つ植木さんからは、思わず身を乗り出したくなるようなお話が飛び出してきました。

日本は国連に加盟し60周年を迎えます。この機会に、国連広報センターでは国連の日本人職員OB・OGの方々にインタビューを実施し、国連での日本のあゆみを振り返ります。元職員だからこそ語れる貴重な当時のエピソードや考えを掲載します。

第2回:国連広報局広報官 植木安弘さん

連載「日本人元職員が語る国連の舞台裏」第2弾は、植木安弘さんです。国連に30年ほど勤め、広報局や事務総長報道官室からイラクでの大量破壊兵器査察団まで幅広い活動に従事されてきました。国連本部からフィールドまで数多の経験を持つ植木さんからは、思わず身を乗り出したくなるようなお話が飛び出してきました。

1954年栃木県生まれ。1976年上智大学卒。米国のコロンビア大学大学院で国際関係論修士号、政治学部で博士号取得。1982年より国連事務局広報局勤務。1992-94年日本政府国連代表部(政務班)。1994-99年国連事務総長報道官室。1999年より再度広報局。広報戦略部勤務。ナミビアや南アフリカで選挙監視活動、東ティモールで政務官兼副報道官、イラクで国連大量破壊兵器査察団報道官、津波後のインドネシアのアチェで広報官なども勤める。ジンバブエ、東京、パキスタンの国連広報センターで所長代行。主な著書に「国連広報官に学ぶ問題解決力の磨き方」などがある。2014年1月末に国連を退官。現在、上智大学総合グローバル学部総合グローバル学科教授。

国連でロシア語を話すとスパイだと思われる?

-国連職員になるきっかけは何でしたか?

最初、国連というのは敷居が高いものだと考えていました。しかし、数多くある国際機関の中で中枢的な役割を果たしているのが国連ですから、大学時代より国連のようなところで働きたいという思いはありました。

そして、修士課程が終わるときに、大学のゼミの指導教授で1976年に日本人として初めて国連大学副学長を務めた武者小路公秀先生の縁で、国連大学ニューヨーク事務所に勤めていた伊勢さん(連載第1回)にお会いする機会がありました。そこで国連に入るときはできるだけ上のレベルで入ったほうが有利、とアドバイスをもらい博士課程に進むことを決め、博士課程に在籍しているときに当時広報局長だった明石さんからお誘いを受け、そのまま広報局に入ったのです。

-国連へ入職する際に自分の強みはどこにあると考えていましたか?

私の場合は大学4年、修士課程2年、そして博士課程3年間プラス博士論文みっちり勉強をして、職歴なしで国連に入りました。そして、9年間の研究で専攻である国際政治・国際関係論のほぼ全ての分野をカバーできたのです。ですから、そうした専門的な知識をベースにし国連での仕事も滞りなく遂行できました。

ところで、私は最初、ロシア人の上司の元で働く予定だったんです。私の大学での専攻がロシア語ということもあって、その上司とはロシア語で会話できるわけですね。しかし、当時の冷戦が影響してロシア語ができると分かるとロシアのカウンタースパイだと疑われる可能性がありましたから、ロシア語を出さないようにアドバイスを受けました。たまたまそのポストに座っていた女性職員がすぐには異動できなかったため、結局は別の課へ行って英語だけで仕事をすることになったという思い出もあります。

国連大量破壊兵器査察団バグダッド報道官時代、バグダッド空港にて

広報官たるもの正確公正たれ

-国連時代に最も印象深い仕事とモットーとして掲げたことを教えて下さい。

今振り返ってみると、私にとって最も印象深いのは、イラクにおける国連大量破壊兵器査察(2002~2003)でバグダッドの報道官をしたことですね。

この査察で、私が発する一言一句は世界の歴史を動かす可能性があり、非常に重要な役割を任されていました。そんな中でどのレベルの情報をメディアに流すのかを判断するのは大きな課題でした。

実は、イラク側でも私と同じように査察団の動きを発表していたのですが、それには誤りがあったり政治的バイアスがかかっているなどいくつか問題がありました。一方で、私は正確で公正な情報を流すことに注力していました。そして後々、私が発表した記者声明が唯一の公式査察記録になったのです。そういう意味でここでの活動は国連キャリアの1つのハイライトでした。

そして、その時根底にあったものは、任された仕事はやりきるという使命感、それと同時に活動の誠実さ(integrity)、ただ査察活動に関する情報を流すだけではなく、査察団と査察活動を守っていくということも意識しました。

東ティモール独立の住民投票に際して(1999年)

安保理内からの情報 ― アメリカの空爆を止めた

-事務総長報道官室での勤務において印象に残っているものは何でしょうか?

ガリ事務総長時代の1996年のことですね。女性として初めて国連事務総長報道官室に仕えたシルバナ・フォアという方がいましたが、彼女が事務総長に対して「報道官というのは記者の欲しい情報を把握し、それを提供できるようにしなければその役割を果たせない」と進言し、安全保障理事会の非公式協議に報道官室から人を送れるようになりました。

私は、お昼にある定例記者会見が終わると安全保障理事会の非公式協議に足を伸ばして、その議論を聞いては事務総長報道官に伝えることをしていました。また、外に待機する記者たちに話せる範囲で内容を伝えていました。記者たちにとっては協議の進捗状況やその時々の議題を知ることが重要でした。

ただ残念なことに、今では常任理事国の間で報道官室の人間が非公式協議に自由に出入りできることを疑問視され、そのアクセスは切られてしまったと聞いています。

安全保障理事会の様子

-その非公式協議の中で、今だから話せるエピソードはありますか?

当時はイラクとアメリカの仲が悪かったわけです。そして1998年の10月だったかと記憶していますが、イラクが査察に協力していないということで、アメリカが空爆のために爆撃機を飛ばしたという発言が私の目の前でなされたのです。それで、私はすぐに戻り報道官へその旨を伝えたのです。

そうすると、その話はすぐに国連事務総長へ届き、事務総長は直接ホワイトハウスへ電話をかけて、空爆を思いとどまらせるように働きかけたようなのです。私の話が実際にどのように使われたかは推察の域を出ませんが、最終的に離陸したアメリカの爆撃機は途中から引き返したと聞きました。

事務総長というのは、各国の首脳と直接電話で会談し高度に政治的な判断を変更させ得る立場にあるのです。

わが人生に引退の二文字はない

-植木さんは現在、大学の教授でありますが今後の目標は何ですか?

国連でおよそ30年にわたって仕事をしてきたわけですけども、今は自分の考えをまとめる時期だと思っています。それは本を書いたり論文を書いて学会で発表するということですね。それから、若い人の人材育成。彼らが将来国際的に活躍できるよう、貢献したいと思っています。

そして、1つ言えるのは国連を退官してそれで終わりではないということです。国連での30年というのは次の30年のためのステップであるわけです。もっと言うと、これまでの60年が次の30年に繋がるわけです。私はよく「そろそろ引退では?」などと聞かれることもありますが、体も頭も元気なうちはやれることをやりたいという思いが強いです。

国連本部ビル前にて(朝日新聞より)

-精力的に活動するために意識されていることはありますか?

そうですね。まず、仕事は仕事できちんとやらねばならない、というのは当然ですが、もうどうにも上手く行かないようなときには息抜きが必要だと思います。私の場合はテニスです。実は、国連にもテニスクラブがあり、年に一回、国連のオリンピックと呼ばれる大会(Inter Agency Games)に参加するため、フランスやイタリア、トルコなどにも行ったことがあります。アメリカのシニアリーグで全国大会まで行ったこともあるんですよ。

結局、仕事とプライベートのバランス、そして健康であること。これが一番大事だと思います。

オールラウンダーとしての国連に求めていく姿勢

-来年日本は国連加盟60周年を迎えますが、これからの日本の役割と若者へのメッセージをお願いします。

日本人は国連からどう求められるかを気にしがちですが、国連側からすると日本がどのように国連を利用していくかということの方が大切なのです。と言うのも国連というのは各国の協力から成り立っているからです。

また、日本というのは財政面であったり人的貢献、様々な技術的ノウハウの点で世界をリードできる立場にありますから、そうした分野を通して日本の利益、引いては世界的な公共財のために活動することが重要だと思います。

そして今の若い人ですが、人材がいないということでは決してないと思います。ですから多くの人にどんどんチャレンジして頂いて国連機関で働いて欲しいと思っています。また、国連には中途採用があります。仮に40歳で入職しても今は定年が65歳ですから、25年という歳月があるわけです。25年あれば十分世界に貢献できます。さらに、国連というのはほぼ全ての分野をカバーしているオールラウンドな機関ですから民間で働いている人でも、世界に向けた活動に興味があれば積極果敢に挑戦してもらいたいです。

植木さんを囲んで上智大学の研究室にて

インターン 磯田恭範(左)とインターン 藤田香澄(右)

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