「死ぬくらいなら学校は行かなくていい」不登校だった僕が伝えたいこと

今、憂鬱を抱えているだれかにこの文章が届いてほしいと思っています
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僕は通信制高校に通う高校2年生です。小学3年生のころから中学卒業まで、不登校でした。夏の高校野球も終わり、新学期を目前にした今、不登校経験者として、伝えたいことがあり、ブログを書こうと思いました。

別に僕は不登校の専門家ではありません。不登校を経てなにか大きな成功を成し遂げたわけでもありません。通信制高校の授業をたまに休んでしまうことだってあります。だから、専門的なことは書けませんし、不登校後のサクセスストーリーを語ることもできません。もっと言えば、僕にとって不登校という問題は現在進行形なのかもしれません。

一介の通信制高校生の分際でなにが書けるんだと言われてもしかたがないと思います。

それでも、数年前までこの8月の終わりを憂鬱に過ごしていた人間として、同じように今、憂鬱を抱えているだれかにこの文章が届いてほしいと思っています。

さて、国の統計によれば、夏休み明けの9月1日が子どもの自殺が1年で最も多い日なのだそうです。それに関連して、一昨年は鎌倉市図書館のツイートが話題になったりもしました。今年はNHKが8月31日に「8月31日の夜に」と題した特集番組を放送するそうです。そんなわけで、世の中の大人たちは「死ぬくらいなら学校は行かなくていい」と呼びかけています。

僕からも、「死ぬくらいなら学校は行かなくていい」ということを伝えたいのです。

正直な話、不登校時代の僕はこの言葉が好きではありませんでした。

不登校時代の僕にとってこの言葉は、理想論にしか聞こえませんでした。「不登校するのも簡単じゃねえんだよ」みたいに思っていました。

少しだけ僕の不登校の話をさせてください。

小学生のころ、夏休みもあと数日となったときのことです。当時の僕は不登校でありながら、学校に行くのが当たり前で、普通で、なによりも優先されるべきことだと思っていました。学校に行こうとは思っていたわけです。だから家族に、「2学期からは学校に行くよ!」と声高らかに宣言しました。

だけど内心は学校に行くのが怖くてたまりませんでした。行く、行かないという感情に板挟みにされとても苦しかったのを覚えています。始業式前日の晩、ランドセルの中に教科書や筆箱を詰め込んで、玄関にそれを置きました。「大丈夫、明日からは行くから」という言葉とともに。

始業式の朝。朝食を食べ終わったころから、腹痛と吐き気が僕を襲いました。玄関に座り込んだまま、立ち上がることができなかったのです。時間だけがいたずらに過ぎ、やがて母は僕の体を強引に引っ張り始めました。当時の母は学校には行くべきだという考えを持っていました。抵抗するものの、あえなく僕は車に強引に乗せられました。

車内ではずっと、外から見えないように体を縮こまらせていました。近所で噂になるのが怖かったのです。車はやがて学校の前に停まりました。シートベルトを外さず、貝のように固まる僕を引きずり下ろした母は、「ちゃんと学校に入りなさいよ」と言って、車を走らせ家に帰りました。

母の車が見えなくなり、学校の前にひとり取り残された僕は校門をくぐることもできずにしばらく呆然としていました。そして結局歩いて家に帰り、母にひどく叱られました。「行くって言ったのは嘘だったの」と。

別に嘘ではなかったのです。「学校に行く」と言ったときの気持ちに嘘はありませんでした。ただ、始業式の朝、行けなかったのです。足が動かなかっただけなのです。

このように家庭に居場所がない場合、図書館に行ったりするなど外出していればいいのではないか、という意見があります。それができればよいのですが、不登校に対して負い目があった僕の場合、まわりに変に思われている気がして(実際にどう思われていたかはともかく)外出できませんでした。

学校に行けない、家にも外にも居場所がない――ずっとこんな状態が続くならば、いっそ、死にたいなあという考えが頭をよぎったこともありました。

そんな僕が「死ぬくらいなら学校は行かなくていい」と思うようになったのは、中学のころに心の調子を崩したことや通信制高校に入学したことが大きかったように思います。

あと少しだけ、僕の不登校について書かせてください。

中学進学にあたって、僕は中学受験をして、地元の公立中学校ではなく、中高一貫校に進学しました。言ってしまえば、リセットしたかったのです。不登校という過去を忘れて、1からやり直したかったのです。張り切っていた僕は入学早々、学級委員になりました。計画通り、不登校とは無縁の青春を送るはずでした。

はずでした......つまり、ゼロから構築していく必要があった友人関係や前転ができないほど苦手な体育など、様々な要因が重なり、僕はまた不登校になってしまいました。ただ、1年生の間は保健室登校をしており、ちょうどそのころから心の調子を崩し始めました。家の戸締まりが異常に気になり始めてしまいました。いわゆる、強迫性障害と呼ばれる症状が出始めたのです。ついには、何者かに狙われていると思うようになってしまい、2年生からの1年間は外出すらできないひきこもり状態でした。

しかし、自分でも予想できなかったきっかけからひきこもりを脱したのです。

ある日、新聞の折り込みに入っていたプロ野球観戦チケット販売のちらしを見たときに不思議と「見に行きたい!」と思いました。プロ野球は好きでも、観戦は小学生の頃に何度か行っただけで、そこまで思い入れがあるわけではなかったのですが。

そして、チケットを買ったのですが、強迫性障害の影響があり試合当日まで、ファールボールが飛んできて当たってしまったらどうしよう、などと考えていました。

当日、どうにか家を出て球場へと着きました。試合自体は応援していたチームが勝ったのですが、試合後に前の席に座っていた方にハイタッチを求められました。おそるおそる手を出して、応じたのを覚えています。相手の方からすればなんてことはない、ファン同士の交流でしょう。

しかし、当時の僕は外が怖い、つまりは他人も怖いというような考えに支配されていたので、大げさな言い方ですが、ハイタッチしたことによって人の温かさに触れることができ、世界は自分が思っているほど怖い場所ではないのかもしれないということに気付きました。それがきっかけでどんどん外に出るようになり、通信制高校へと入学したのです。

これで僕の不登校の話は終わりです。まとめます。

「学校と健康なら健康の方が大事」

かなり症状は軽くなりましたが、僕には今でも強迫性障害の症状があります。不登校時代の僕は学校第一主義でしたが、それは大きな間違いでした。無理をして学校に行くと、健康を害すことがあります。そしてそれは案外、尾を引きます。健康を害してまで学校は行くところではないな、と今の僕は思います。

「今がずっと続くわけではない」

不登校時代、中学卒業したらどうなるのだろうと考えるときがありました。小学生のころにいたっては、僕はこのままどうにもなれずダメになってしまうのかなと思うときもありました。だけど、今の状況はずっと続くわけではありませんでした。絶対に、一生続くなんてことはありえないのです。たとえば僕は今、大学受験に向けて通信制高校で勉強しています。不登校のころには考えられなかったことです。

「不登校は武器になる」

不登校は大きな強み。僕は最近、そう思っています。不登校は別に弱みでも負い目でもないと思うのです。たとえば、こんなふうに不登校の体験談を書いてみたりする。もしくは話してみたり、相談に乗ってみたり。それが結果的にだれかの役に立つかもしれないのだから、不登校というのは生きていく上での武器になるなと思います。

しがない高校生の言葉なんてだれも聞いてはくれないかもしれません。それでも最後に、もう一度だけ。

「死ぬくらいなら学校は行かなくていい」

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