政府は、集団的自衛権の行使を容認するための憲法解釈変更を閣議決定した。これにより、「専守防衛」をうたってきた戦後日本の安全保障政策は大きな転換点を迎えた。
今回の決定について最も多く出ている批判は、「国民不在で一内閣が勝手に解釈変更するのは良くない」というもの。議論を十分に重ねた上で、投票によって信を問うべきという意見だ。実際、各種世論調査の結果を観ると集団的自衛権について一番多いのは「賛成」「反対」よりも「分からない」という回答。NHKの調査では、容認「すべきだ」「すべきでない」が26%ずつで拮抗し、「どちらともいえない」が41%と多数を占めた。
SNSでの呼びかけなどで総理官邸前には多くの若者が集まったが、彼らに聞いてみても、「賛成反対というより、とにかく今日本で何が行われているか知りたかった」という意見が多かった。
しかし、ちょっと考えてみて欲しい。ここでいう「十分な議論」とは、一体誰が、どれだけすれば「された」とみなされるのだろうか?あと数ヶ月?1年?3年?「議論が十分にされた」状況というのは、本当に訪れるのか?
考えてみれば、この集団的自衛権の問題についてはずっと前から議論されており、決して今に始まったことではない。政治家、官僚、憲法学者、メディア、海外支援の活動に携わる者などを中心に、ことあるごとにこれを取り上げ話し合ってきた。そうした意味では、(憲法解釈については問題だが※)僕らが選んだ政府が重ねた議論の上で決定したことだと言えなくもないのではないか。
※憲法と統治者、国民のあり方の根幹に関わることをこのような決定プロセスで行ってしまうこと自体には反対だ。
だからむしろ、こう考えた方が自然なのではないか。僕ら生活者の側が、これまであまりにも無関心過ぎたのだと。政治については何となくタブー視して議論を避けてきたし、選挙があっても後先のことをあまり考えずに投票してきた。そして、分からないことを分からないままにして、一部の人に議論を任せっきりにしてきた結果、何だか分からない決定に対してそこはかとない違和感を感じ、慌てて声をあげているのが現状なのだと。
この段になる前に、僕らの声はいくらでも届けられた。
市民の手で社会を変えること、社会運動を有効に機能させること、コミュニティ・オーガナイジングの手法などについてはもっと研究する余地はある。一方で、民主主義の「参加性」が機能しなくなってきているとされる現状に対しては、インターネットなどで補完する方法が様々に発達してきている。
でも、今からでもできることはたくさんある。普段から政治家に意見を届けようとすること、デモなので声をあげること、まちづくりの活動に参加すること...何より、社会の様々な問題に対して「分かろう」とすること。そして周りの人と議論すること。
これを契機に、僕たちは、普段から政治やまちづくりについてもっともっと語ることからはじめるべきなのではないか。
...ということで僕はまず、「社会を変える」ための方法と効果的な動き方について具体的な実践論を探り、またそれを皆さんと共有していくことから始めるつもりだ。近々、新たなプロジェクトをスタートする予定。乞うご期待!